終わりまでの始まり
音のない空間。相手の鼓動が聞こえてくるかのように錯覚してしまいそうなほど静まり返った中に並んで座る。触れそうで触れない距離は昔から変わらない癖のようなものだった。あと一歩を詰められないような関係ではないはずなのに、どうしても未だ躊躇ってしまう。そのような心の内など知らない彼は、普段纏う冷たさはなくどこか穏やかで、揺れることなく僅かに瞳を伏せ一点を見つめている。息を飲むような秀麗さと見惚れそうになる憂いを帯びた横顔の、その静かな雰囲気に肩の力を僅かばかり緩める。膝の上に乗せた手に視線をやりながら気配だけで彼をうかがう。気付いているのだろう。けれど何も言わず、何も反応しないのは許されている証拠か、はたまた興味が無いからか。どちらだって良かった。今ここで、こうして隣に在ることを望んでもらえているのだから。
「お前まで責任を負う必要はない」
不意に届いた突き放すような言葉とは裏腹に声色は優しい。ゆっくりと首を横に振り彼に目を向ければ、こちらを見下ろす深い色と視線が絡む。長い睫毛が、ふるり、と揺れ瞬いた。その顔に、ああ好きだな、と思った。
「わたしは、貴方と行く」
「その先のことが分かっていても、か」
微笑むだけで応える。彼の空気が僅かに揺れ、マスクの下、形の良い唇が歪められたのだろうと思った。その整った素顔を思い浮かべ、膝の上の手を組む。揺るがない決意の中にある、昔交わした彼との約束を想いしっかりと彼を見つめる。それを感じ取ったのだろう、小さく息を吐いた彼は徐にマスクを外して困ったように笑んだ。頬を覆う火傷の痕を痛々しく思うことはとうの昔にやめた。手にしたマスクに視線を落とした横顔の、ゆっくりと閉じられる瞳を見つめる。表情の乏しい彼が何を思うかなど全て分かるはずもないが、この時ばかりは察することが出来た。抱えた過去と残された思い、失った大切な記憶、彼を構成する大切なもの。
「ナマエ」
癖で空いた、詰められなかった距離を詰めるのはいつも彼。それは、今も変わらない。空いた手でそっと手をとられる。指を絡められ、グローブ越しの感触と、正確にとは言わないが伝わる体温に酷く安堵する。そっと手を引かれ肩に頭を預ければ、ほんの少しだけ空気が柔らかくなった。この先に控えているものを想えば、今この時間はとても異質で、けれど、だからこそこうしてただお互いに触れていたかった。ゆったりと髪を擽る感触と僅かな重さに、彼が頬をすり寄せたのが分かる。
「ありがとう、クラサメ」
「…?」
あまりにも小さな声でも、静まり返った部屋では大きく響く。繋がれた彼の手を見つめもう一度呟けば、何を、とでも言うかのように頭上の気配が動いた。言えなくなる前に伝えたかったこと。そう言って口を緩めれば、甘えるように髪に頬が押し付けられる。言外に、彼もだと伝わってくる。
最後を惜しむような時間。何かするわけでもなく、ただ静かに寄り添うふたりの体温は交ざり合って、溶け合って、ひとつになる。その中でふと浮かんだそれ。無意識に零れた言葉はずっと仕舞い込んでいた想いだった。
「終わりまで、あなたといたい」
「いよう、必ず」
絡められた指にそっと力が込められて、従うように顔を寄せ、ひとつ、雫が頬を滑る。一瞬だけ触れて重なる唇は、何よりも優しかった。