嫌な予感な
堅固たる要塞の、空までも覆う程の巨大さに瞠目していれば、隣にしゃがみ込んでいたジュード君の息を呑む音が聞こえて視線を戻した。こちらへ歩いていくるラ・シュガル兵をどうにかしなければ中へ入る事は勿論、内通者ともコンタクトが取れないことは明白だ。どうしたものかと考えているその横でアルヴィンさんが銃を構えるものだから、少し待ってほしいと、それに手をかける。怪訝な顔をする彼に首を傾げてみせてから兵に意識を向け、深く息を吐いた。チャンスは一度きり。最大限までに集中力を高めて指を鳴らせば、兵の周りが小さく歪む。
時を止めると云うのは自然の断りを捩曲げると同じだ。そんな無茶は長く続くまい。
「今のうちに早く行きましょう」
振り返って見たジュード君達が頷くのを確認したと同時に浮遊感に襲われて思わず変な声がでた。もはや慣れた感覚に、顔を上げた先にいたアルヴィンさんは一瞥だけして何も言わずに要塞へと足を進めるだけだった。
こう云う時、彼の態度は有り難くて、けれど少しだけ心苦しくなる気がしなくもない。隠し事はしたくないのだけれど、今はまだ教えたくない。それに、隠し事をしているのはお互い様であるから、実際のところ大して罪悪感などは無いのだけれど。
内通者とコンタクトを取り、侵入に成功したらしいのでもう一度指を鳴らして時を戻した。それと同時に自分の周りに在った、張り詰めていた空気が弾けるように消えて息がし易くなった気がする。疲れがきた、と云うようにも取れるけれど、前よりはだいぶ負担が少ない。これはクロノスが身体に馴染んできたと云うことだと思う。悪い気はしないけれど少々複雑な気分だ。
手を握ったり開いたりしている私の頭を撫でるのはアルヴィンさんで、よくやった、と言ったところだろう。それとは反対にジュード君は難しい顔をしていたけれど、ミラの名前を出せば意識はそちらに向けられる。ミラを出汁に使ったみたいで嫌だったが、自然に話を進めるには一番の手だった。
広い建物内は、その構造や金属の冷えた雰囲気がどことなく重々しく、威圧されるようで鳥肌が立つ。内部に渦巻く不穏な空気が肌を焼き、舐めるように抜けていった。腕を摩りながら周りを見渡していれば、ローエンさんに優しく肩を撫でられる。それに頷いて、ミラを見付けるためにその場を離れた。
「凄く、嫌な予感がする」
「それが当たらなきゃ良いけどな」
所々の鍵は開いているものの、主要部分の鍵はかかったままで、行き来出来る場所は少なく、反対側へ行く手だてすら見当たらない状態に陥っていた。鉄で囲まれた、冷たさだけが主張する場所。要塞と云う所はそういうものなのだろう。そう、邪魔者を排除するような。
「お嬢様、俺から離れるなよ」
「…はい」
「ミラ達、無事だと良いんだけど」
「あらあ?優等生はミラ様が信じられねぇの?」
「信じてるけど、けど」
「大丈夫ですよ、ジュードさん」
「ローエン?」
「ハイディさんが落ち着いていられるのですから」
「…私、危険察知マシンじゃないよ」
余裕めいた笑みを浮かべるローエンさんをじと目で見詰めて肩を竦める。彼の言っている事は強ち間違いではないので完全に否定出来ない。
やろうと思えば他人の事を手に取るように理解出来る、この反則じみた能力はマクスウェルであるミラ相手にも有効だし、きっと行動を共にしているであろうエリーゼちゃんとドロッセルさんは以っての外。彼女達を探れば安否を確認することなど容易い。強いて言えば彼女達の行動をも知る事が出来る。だから、私はいつもの様に振る舞えるのだ。
と云うか、ローエンさんは私の事を知っていてこう言ったのだろうか。私とミラ以外、このことを知らない筈なのに。彼女もわざわざ言い触らしたりしないし、となると今の言葉はジュード君を鼓舞するための冗談なのだろう。私の力を知っているのは有り得ないに等しいのだ。侮り難し、ローエンさん。下手したらアルヴィンさんよりも厄介な人になるだろうて、味方で良かった。
ぐるりぐるり。同じ所を回ってばかりの気がする。何度同じ部屋に入ったことだろう。確かこの部屋は二回目の筈だ。コンテナだろうか、丈夫な箱が積まれただけのつまらない部屋。どうしたものかと頭を抱える三人を他所に部屋を見渡していれば、緩やかな風が前髪を攫っていった。
「あれ?」
「どうしたーお嬢様」
「んー…んん?」
密室であるこの部屋で風が吹くのはおかしくないだろうか。アルヴィンさんの声に生返事をして、目線を上にやった。もう一度見渡せば、コンテナの上にこじんまりと取り付けられた通風孔が目に入る。コンテナに近付きすぎて部屋の隅にあった通風孔に気付かなかったみたい。あれを使えば少なくともこの無限ループにも似たこの状況をどうにか出来るだろう。いや、そうであって欲しい。
座り込んでいたアルヴィンさんの肩を叩いて上を指差す。その指を辿って通風孔を見付けた彼に頭を撫でられて髪がぐしゃぐしゃになってしまったけれど、今回は許そう。じゃれている時間は全くと言って良い程に無いのだから。
アルヴィンさんに引き上げられて、狭い通風孔を通り抜ける。あちらこちらをぶつけたりもしたが、身体が小さい分、男性陣に比べればどうと云うことはない。通り抜けた先の景色は先ほどの場所と変わることはなく、代わり映えのしない部屋に肩を落とした。どうせ廊下も同じ作りなのだろう。とても楽しくない。いや、用途が用途なので仕方ないのだけれど。
「あ」
「ハイディ?」
「ミラの気配…する」
「本当!?」
「ゆれてる?」
「え?」
微かに感じたミラの気配はどこと無く揺れている気がして、何がどうなって揺れているように感じるのか分からないけれど、嫌な予感が段々と大きくなってくる。早くミラの所に行かなきゃいけない思いしかなくて、部屋を飛び出した。後を追って来るジュード君達の戸惑う声に返事もしないで、ただミラ達がいるであろう場所へ走った。
どうやってそこに辿り着いたのかなんて正直覚えていない。気付いたらこの扉の前にいた。ミラ達がいるであろう、扉の前に。
「此処に、ミラがいるの?」
「うん」
「開けるぞ」
入った途端、ガラス張りの部屋にミラの声が響いた。ガラスに駆け寄り下階を見下ろせば、壁に打ち付けられたのか床に伏したままのミラがナハティガル王を睨んでいるのが見える。弾かれた様に走り出したジュード君は軽い身のこなしで階段の手摺りから飛び降りて、立ち上がったミラの隣に並んだ。ドロッセルさん達の危機を救ったローエンさんがナハティガル王と対峙する中、私は恒例行事の様にアルヴィンさんに抱えられて下階に降りることになった。抱える方も抱えられる方も慣れたもので、自然とやってのけてしまうから適応力とは恐ろしい。
半ば一方的に事を述べたナハティガル王が去ろうとするのを止めようと動き出したミラを止めようとしたが、伸ばした手は虚しくも宙を掻く。扉の向こうに消えた二人に背筋が凍る。駄目だ、行かせちゃ駄目なんだ。ミラを止めないといけない。このままだと…。このままだと、何だろう。人が紡ぐ時で生きるクロノスは未来が見えないから何が起きるか分からないのに、どうしてこんなにも胸騒ぎがするんだろう。どうして、嫌な事が起きる、って。
慌てて扉に走り寄ろうにも、通路を塞ぐ兵に銃を向けられて歩みは止まる。この人達をどうにかしないとミラに追い付けない。どうしてこんな時に、そう思ったと同時に聞こえた銃声。無駄の無い動きで兵達を仕留めた彼に背を押されて、私はミラを追った。
「爆発、音だ」
「え、ハイディ…なんて」
「早く!」
早く。そう、本当にもっと早く駆け付けていれば良かったのに。ミラの傍に居れば良かったのに、ね。そうすれば彼女は。
「ミラ!!」
赤の海に横たわる彼女を見下ろすことしか、私には出来なかったのだ。