大きい人
到着したサマンガン海停はイラート海停よりも賑わい活気づき多くの人が行き交っていて、例にも漏れず沢山の記憶が流れ込んできた。
その中を通り抜け広い街道を行くも、直ぐに立ち止まる事になる。軍が検問しているのをそのまま突っ切って行けはしない。ミラとジュード君は顔が割れているらしく、これはどう考えても無理な話だ。けれど、ここを通ってカラハ・シャールに行かなければ、その先にあるイル・ファンには行けないだろう。今から遠回りをしている時間はこれっぽっちも無かった。考えに考えた結果、樹海を抜けると云う事に至ったのは良いだけれど、鬱蒼と生い茂る木々を目にして自然と溜め息が漏れた。誰しもがうんざりするほどだろうし、魔物だって出る辺り安全とは言えない。エリーゼちゃんの件で一悶着あったが、何とか丸く治めて私達は先の見えない樹海へと足を進めた。
昼にも関わらず暗く湿っぽい空気が肌に纏わり付くようで、少し気持ち悪く感じる。所々に張り出た木の根に足を取られないように気を付けながら、怖々と手を繋いできたエリーゼちゃんの手を握ってやり頭を掠めた枝を払う。時折、屈んだ際に頭を打ったらしいアルヴィンさんやミラの声が響いた。
それから、切り株みたいな魔物に襲われる事もあったが、エリーゼちゃんの精霊術で危機を脱して、彼女が足手まといにならない様に戦うから、と懇願して仲直りしたり、ケムリダケだか何だか知らないけど毒々しい色をしたキノコを踏んで目が痛くなったりもしたけれど、なんとかかなり進めたようだ。その間、いくつも在った段差に私の精神がずたぼろなのは言うまでもない。アルヴィンさんにはどれだけお礼を言っても足りないくらいで、毎回段差が有る度に重たい私を受け止めたり抱き上げて飛び降りたり持ち上げてくれたりしてくれているのだ。役得だと言ってはぐらかそうとするばかりで、お礼は最後まで言わせてくれない。もしかしたら本当にそうなのかもしれないけれど、彼の心の内は誰よりも読み辛く、見るのも容易ではないのだ。まあ、見る気も無いのだけれど。
そんなことはさておき、暗く視界の悪い樹海の中、疲労も溜まってこれでは逆に効率が悪くなると云うことでしばしの休息を取ることにしたけれど、ミラはあまり乗り気では無いみたいだ。確かに急ぎのことでは有るけれど、彼女とて今は人の身である上に四大もいない。気付かないだけで疲れはある筈なのだ。腕を組み大木に凭れ掛かるミラの足元に座り込んで、落ち葉の積もる柔らかな地面に視線を向ける。少し離れた所で談笑するジュード君とエリーゼちゃんの楽しげな声が、ささやかな音しか聞こえない辺りに響く。納得はしたらしいが、それでも気にしているのか、頻りに辺りを見回しては地面に爪先を打ち付けているミラを見上げて、彼女のスカートを引きつつ名前を呼んだ。
「ハイデベルク、どうかしたか?」
「座らない?」
「私は、」
「落ち着かないと何事も上手くいかないと思うな」
「そう、だな」
苦笑しつつも頷いて、大木伝いに腰を落としたミラの、柘榴石を嵌め込んだみたいな瞳がエリーゼちゃんとジュード君を見る。彼女はまだ足手まといだの何だのと考えているのだろうか。あの子は思っているよりもしっかりしていると思うのだけれど。それでも、価値観や見方はそれぞれなので一概には言えないが、そこまで切り捨てようと思わなくて良いと思う。人は成長するもので在るからして、こうやって沢山の事を経験して吸収していく事が大切であり、その成長は人間を愛するマクスウェルにとって喜ばしい事ではないだろうか。目の前の使命を果たすには煩わしいかもしれないけれど、視野を広く持てばこれもまた必要であると云うことが分かる筈だ。少なくとも、私はそう思っている。
俯いていた顔を上げて小さく伸びを一つ。気の抜けた声が零れて、アルヴィンさんが眉を寄せながら笑って私の頭を撫でた。手袋に髪が当たって軽い音がするのを聞きながら彼を見上げれば、笑みを深くして首を傾げた。
「そろそろ行くか。お嬢様が寝ちまいそうだ」
「まあ、疲れているのは事実ですから」
「否定しないんだな」
「した方が良かったですか?」
おどけた様子で肩を竦める彼を見上げたまま、首を傾げて立ち上がる。裾に付いた落ち葉を払って息を吐く。
お気に召した反応が出来そうになくて悪い気もするけれど、こればっかりは性格なのでどうしようもない。謝罪も含めて笑い掛ければ、気にすんな、とまた彼の手が私の頭を掻き回す様に撫でた。
短い休息を終え再び歩き始めた直ぐの頃、周りを囲む人でない気配にミラの傍へ身を寄せる。木々の間から覗く鋭い眼光が突き刺さるようで、森の入口でみた魔物と同じであることは直ぐに理解出来た。それらは軽い身のこなしで目の前に踊り出て、威嚇する様に身を低くする。負けじと睨みつけるミラが慣れた手付きで剣を抜いて構えた。一触即発の空気の中、悠々と歩みを進めて来たのは黄色の民族衣装に身を包んだ大きな男性で、どうやら顔見知りのようだ。エリーゼちゃんのことを"娘っ子"と呼ぶあたり、彼女とは昔からの知り合いなのだろう。言葉や声に混ざる温かさが、本当に彼女事を思っているように取れる。ただ、普通に聞いていては分からないくらいの事なので、エリーゼちゃんはそれに気付いていないようだった。彼も、気付いてもらう気は無い様なので、私が何か言う必要はない。
人間とは甚だ面倒な生き物である。言いたい事は言えず、体面を気にしてはそれを飲み込む。大人でも子供でも同じ事で、何ともまあ難儀な話だ。その点、何でも思った事を口にしてしまうミラは人間界に住むのには向いていないのかもしれない。
話が割れてしまった彼らの邪魔にならない様に距離を取りながら息を殺す。今、魔物に襲われても助けてくれる人はいないのだ。
ミラの鮮やかな剣捌きが相手を翻弄し、護身術だと言う割にはキレも威力も有するジュード君の蹴りが、男性と共にいた魔物の腹を抉った。軸足を軽く曲げて跳び上がり、続けざまに繰り出された足技が魔物の横っ面を強打する。その横で、力の有るアルヴィンさんの重い一撃を軽くいなした男性の振った槌が空を切り、慌ててジュード君がその場から飛び退いた。男性の槌はアルヴィンさんの顔すれすれをも通り過ぎ、風圧に揺れた髪に舌打ちし、後ろへ足を運んだ彼の左手に収まっていた銃が音を立てて火を噴いた。男性が寸前でそれを弾いた時、死角に入り込んでいたジュード君の掌低が腹部に決まり、たたらを踏んだ男性をエリーゼちゃんの精霊術である闇色の腕が包んだ。周りにいた魔物を一掃したミラに手招かれて駆け寄り、あれだけのダメージを受けながらも立ちはだかる男に、ミラの表情が強張る。そっと彼女の腕に触れれば、少しだけ表情が柔らかくなった気がした。
これ以上続けても無意味であると双方が悟っているのだろうが、引く気は互いになく、変わらず緊迫した空気を保ち続けている。そんな中、ジュード君がアルヴィンさんとミラに耳打ちをし、鋭く細められたアルヴィンさんの双眸が男性の横に有る木へと向けられた。きっと、足元に生えるキノコに衝撃を与えて隙を作ろうと云うことだろう。放たれた弾丸が木を撃ち抜いた。
「息を止めろ!」
そうミラが言ったと同時にアルヴィンさんの腕が腹部に回り持ち上げられた。私はそんなに鈍臭いと思われているんだろうか、彼の小脇に抱えられながら弱々しく首を振るしかない。
森を駆け抜け、久しぶりに浴びたと感じる程の日の光に安堵の息を吐いた私は未だアルヴィンさんの小脇に抱えられたままだったが、それに気付いたジュード君に降ろしてもらった。決して軽くはない私を抱えたまま全力疾走出来るなんて一体全体、彼の身体能力はどうなっているのやら。細身の体躯にあるまじき筋力だ。長年傭兵をやっているらしく、しなやかながらも筋肉はしっかりとついていて力も有る事は分かっているけれど、やっぱり人一人を抱えたまま出来る事では無いと思う。じ、と見ていれば彼と目が合い、悪戯めかして目を細めて口角を上げたアルヴィンさんが私の頬を突いた。冷えたグローブから、ほんの少しだけ血の匂いがする。どれだけ殺ったのか、染み付いたそれは薄まる事なく、きっと彼はそれを隠す為に香水を纏っているのだろうと思った。硝煙に塗れたコートやスカーフが風に揺れる度に微かに漂うそれは、彼特有の香りなのだった。
「カラハ・シャールまでもう一息だ。行けるか?」
「うん、大丈夫だよ」
「平気、です」
二人に問い掛けてから視線をこちらに向けるミラに頷いて、首を傾げながら微笑む。満足気な表情のミラの足取りはどこと無く軽く、遅れないように付いていくジュード君達をアルヴィンさんの隣で眺めながら私も足を進めた。