慣れない

舗装も整備もされていない道にローファーは酷く不釣り合いであったし、もっと云えば此処は水辺。先程、海に落ちたのもあってか、幾分かは乾きはしたものの制服は水気を帯びて肌に張り付き、少しずつ体温を奪っていくようだ。ローファーの、居心地悪い感触にはもう慣れたが不快感は拭えない。穏やかな風に晒されて髪はもう乾ききっていたのは良いのだけれど、初めてそれが変化しているのに気付いた時に思わず叫びそうになってしまったのは記憶に新しい。視界に入った髪は見慣れた黒では無かったのだ。微かに青みがかった銀色の髪は、落ちていた時にちらちらと見えたのは黒だったので、海に突っ込んでから変わってしまったのだろう。触れてみても何時ものように指の間を摺り抜けて、傷んだ様子は見受けられなかった。きっとクロノスがこの髪色で、自然とこうなったのかもしれない。水面に映った自分の、髪と同じ色であった筈の目も鮮やかな青に変わっているのも知り、これもまた同化した故だろう。随分と違う容姿になってしまったな、とぼんやり水面を見詰めながら座り込んで膝を抱える。
私やジュード君の体力や疲労を気遣ってか、あたかも自分が休みたいと云う様に振る舞いミラを言いくるめたアルヴィンさんの好意でしばしの休憩を得たところだ。隣に立って後ろ手を組むジュード君の気配を感じながら小さく息を吐いた。俯いていた視界に入るのはローファーだけであったが、影が射したと同時に鼈甲飴みたいな艶やか双眸が窺うようにして入りこんだ。存外に長い睫毛は瞬く度に音がしそうだと思う。羨ましい、なんて思いながら顔を上げれば、彼は膝に付いていた手を外して心配そうに首を傾げた。


「大丈夫?気分、悪いの?」
「平気だよ。ちょっと、色々と複雑なだけ」
「そう?何かあったら遠慮無く言ってね」
「うん、ありがとう」


眉を寄せ、本当に心配してくれているらしいジュード君に笑ってみせれば、少し安心した表情をしたが、直ぐに眉を寄せて思い詰めた顔て俯いた。大丈夫かと聞くのはこちらの方ではないか。ただ溜め息を吐いただけの私と違い、何か問題を抱え悩んでいるのは彼で、他人の心配をするより自分の事を気にかけなくてはいけないんじゃないだろうかと思う。どうして彼が自分より他人を気遣い心配するのか分からない。普通、一般的な人ならば、自分が大変な時に他人を気にかけている暇はないのだと思っていたが、どうやら彼は違うみたいだ。純粋に、損な性格、と思った。何が損なのか、それは、誰かに必要とされ繋がっていなければ自身の存在を確立出来ないと思っている節が見えたから。
張り付く制服を摘み、空気を入れようと動かしてみても、結局はインナーが張り付いているのであまり意味を成さなかった。早々に諦め膝を抱え直してその上に顎を乗せるたが、不穏な空気が肌を撫ぜ、背筋に走った冷えたものに振り返って目を泳がせた。


「おい、どうしたんだ、お嬢様」
「……ミラが」


そう呟いたと同時に聞こえたミラの声。ジュード君とアルヴィンさんと顔を見合わせ、それから、弾かれた様に駆け出した。滝壺にある巨岩の上で何かに締め上げられたミラの紅く輝く瞳が私を捉えて、そっと細められる。心配するな、とでも言うのだろうが、そんなもの到底無理な話だった。艶やかに微笑む美しい女性はしなやかな肢体を鮮やかな青のボディスーツに身を包み、際どい程に肌を曝け出し、誘う様にまた口角を上げた。ゆらり、と揺れ動く尻尾が何で動いているのか気になるものも有るけれど、今はそれどころでではない。


「今はこの娘にご執心なのね」


艶めく唇が弧を描き、レンズ越しの瞳が鋭く細められる。まさか、とは思っていたけれどやはりアルヴィンさんのような人に女性関係のトラブルは付き物のようだ。が、冗談めかした口調や仕種をするが、レッドジルコンの瞳は決して笑っていない事に気付いて、彼にも彼なりの事情があると云う事にしておこうと思った。




「助かったぞ、二人共。ハイデベルクも、心配かけてすまない」
「ううん、無事で良かった」


ジュード君の機転であの状況を脱したが、変わりに大きな魔物と戦う羽目になってしまい、若干苦戦しつつもミラの鮮やかな魔技が止めを射したのだった。滝壺に沈んでいくそれを見送って、満足気に頷き腰に手をあてたミラが振り返り、長い髪がふわりと舞う。褒められて嬉しそうに頬を緩め、微かに赤くしたジュード君は見るからに褒められ慣れていないようで、気恥ずかしげに頬を掻いた。
三人の会話を右から左に流して、私は腕を組んで首を傾げつつ眉を寄せる。目の前で起きた事は初めて見るものばかりだったのに、全てに於いて理解し、はては完璧に説明できる程に私は知っていた。どうしてなのか、と最初は思ったが、その考えは直ぐに消える。クロノスが与えてくれた知識等をきちんと吸収しているようだからだ。そんなに出来た頭をしていると思っていいなかったけれど、それとは別だと考えた方が良さそうだ。
それでもやっぱりまだ違和感は拭えなさそうである。


「大丈夫か?ハイデベルク。まだ慣れないようだな」
「気付いていたの?私の事」
「お前の事だ、当たり前だろう。案ずるな、私が守る」
「足手まといじゃないの?何も出来ないんだよ、私」
「私の傍に居てくれるだけで良い。それに、お前は私を助けただろう」


そう言って笑うミラに私は苦笑する。彼女を助けた、と云うのは、あの時に女性の拘束から解かれて落下するミラの周りの時間を遅らせて落下速度を軽減させた事だろう。まさか出来るとは思っていなかったけれど、どうやら出来てしまったみたいだ。時を統べるクロノスの代用品であれば少しくらいこういった力が有っても良いのではないかと、咄嗟に考えた結果でもある。結果オーライとはこのことか、胸を撫で下ろし息を吐いた私を、ミラは見逃さなかったらしい。
私を見下ろす彼女の瞳には優しさと慈愛が宿り、真逆の色をした私の目と視線が絡んだ。ほんの少しの違和感を感じたけれど、ミラを呼ぶジュード君の声にそれは直ぐに霧散した。今はまだそんなに気にする事ではないのかもしれない。もしくは私が忘れているだけなのかもしれないが。そう考えるのは、与えてもらった記憶の中で、ぽっかりと抜け落ちた場所があったから。それは、クロノスが私を呼ぶ前と、最後にミラと会った間だった。抜けているのを不思議に思うが、知る術が無いのでどうしようもない、と後ろ手を組んで地面を蹴る。いつかきっと分かる時がくるだろうと信じて、私を待っていてくれるミラの後を追った。



所々にある段差に手子摺って、アルヴィンさんに助けられながらニ・アケリアを目指すが先はまだ遠いのか、鱗片すら見えない。インドアな私の体力では正直しんどいが、迷惑を掛けるわけにはいかず重い足を叱咤して段差から飛び降りた。しっかりと抱き留めてくれるアルヴィンさんな礼を言い、次いで先に段を昇ったミラが引き上げてくれる。ごめん、と胸中で告げながらスカートを引いた。


「ハイデベルクはこういうの苦手なの?」
「え、と…慣れてないから」
「それって何だかミラみたいだ」
「似たようなものだから」


嘘は言っていない。実際にこの世界で身体を持ったのは数時間でしかないので嘘ではない筈だ。第一、地球ではこんな事をするように生きてきていないから出来なくて当たり前だと言いたい。こればっかりはどれだけこの世界で過ごそうとも慣れる事は無いし出来るようにもならないだろうけれど。
何も言わないジュード君を見れば、丸い瞳を更に丸くして驚きに閉口しているみたいだった。そんなに驚く事でも無い、と言おうにも、今の彼には簡単に言えそうにないみたいだ。

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