闘技場で
歓声で賑わう闘技場の隅でぼんやりと空を眺める。正直なところもう少し宿で寝ていたかったのだが、私を一人にすることを断固拒否したジュードくんに半ば引き摺られる様にして此処へ連れてこられたのであった。戦うことの出来ない私はただ見ているだけしか出来ないが、それが不満だとも歯痒いと思うことはないし、自身も戦える様になりたいとは思わない。闘うための存在ではないのだ。ただ管理して見守るだけであるからして、剣を振るい傷を付ける行為は必要とされていないのである。
大きな溜め息を一つ吐いて、もう一度空を見上げた。円形の闘技場に抜き取られた空は透けるように青い。一際、歓声が大きくなり、ミラ達が勝利したと云うことが分かる。最初から負けるなどとは考えていないが、やはり安堵するものでは有り、先とは違う意味での息を吐き、フィールドを見るために乗り出していた身を引き客席の壁へとくっつけた。凭れるようにしたそこから伝わる壁の温度と、意図せず流れ込んできた闘技場の記憶に視界が揺れる。身を貫く様な痛々しい記憶の断片に眩暈がして蟀谷を押さえた。闘技場と云う場所からして想像した通りの光景ではったが、こうもいきなりでは身構えることも出来ず、安堵した為に気の緩んだ瞬間に入り込んできた記憶たちに盛大に表情を歪める。それを不審に思ったのか、隣にいた女性が俯いていた私を覗き込んできた。何処かで見た事のある女性が、落石の時に話し掛けてきた人だと気付くのに時間は掛からず、彼女の方も私に見覚えがあったらしく、ツリ目がちの瞳を丸くさせた。一瞬だけ、唇を引き結んだのには気付かない振りだ。
「貴女は…」
「私は大丈夫です」
「…顔色が悪いわ」
「本当に、大丈夫ですから」
「何かあったら言いなさいね」
表面上は心配するような、けれど本心ではない事を言う彼女に頷けば、悟られていないだろうと安堵からか微かに表情を緩めた彼女を、これまた気付かない振りをして見詰めた。こういうのはアルヴィンさんの方が何十倍も上手だろう。まるで、息をするかのように嘘を吐き、睡眠をとるかのように気持ちとは反対の行動をとる。嘘と本当を巧みに織り交ぜながら行われるそれは、彼が生きていく上で必要不可欠な行為だったが為なので口出しするつもりは無いが、そのせいで皆から不審がらられていることを、彼はそろそろ危険に思わなければならないだろう。ジュードくんだけは、最後まで信じようとするだろうけれど。
鳴り止まない歓声に頭痛を覚えて客席をで出る。船着場近くの階段に腰掛け膝を抱えて顔を埋めた。人は難儀だ。少し前までは自分もただの人だったと云うのに、こんな高慢にも近い思いを抱くのはクロノスに近づいている証拠だろうて、良いことなのか悪いことなのか、答えは出ないまま時間だけが過ぎていく。今のところ自分を保てているので何をする訳でもないが、これがそうでなく自分が失くなってしまったら、その場合は、私はどうなり、どうするのだろうか。自分が自分でなくなることが、少しだけ怖くて目を閉じた。どれくらいそうしていただろうか、慌てた気配と複数の足音に目を開ける。
「…こんなところにいた」
「ハイディ!」
「ジュードくん、エリーゼちゃん。…終わったの?」
飛び付いてきたエリーゼちゃんを受け止め、目の前で脱力するジュードくんにそう言えば、勢い良く顔を上げた彼に睨まれてしまった。黙って出てきたことに対してさぞお怒りなのだろう。気分が優れなかった、と言えば許してくれるだろうか、これに関しては嘘を言っていないのだから。腰に抱き着くエリーゼちゃんをそのままに、彼へと手を伸ばそうとしたが、それよりも先にジュードくんに手首を掴まれてそのまま皆の所へと引き摺られる。意図が分からずされるがままになっていれば、その様子を見て全て悟ったのだろうアルヴィンさんがにんまりと口角を上げて私の頭を撫でた。意味ありげなその表情はあまり好きではない。
「食事してから決勝だとよ、お嬢様」
「そうですか」
「ご機嫌斜め?」
「少し、頭痛がしたのでその所為かと」
「大丈夫か?」
「平気ですよ、今は」
「あんま無理すんなよ」
「……はーい」
先程の彼女とは違う、本当に心配してくれている声色に苦笑しながら彼の傍を離れミラの隣へと足を運べば、柘榴を思わせる鮮やかな双眸を瞬かせた彼女が小さく笑った。何かを決意したような気を纏う彼女に首を傾げながらも、どうしたのか問えば、の女は楽しそうに口を開く。ジュードはお前を大層心配していたぞ、と。それを聞き、未だ手首を掴むジュードくんに視線をやれば、気恥しいのか耳まで朱に染めた彼が慌てた様子でミラを咎めるように呼んだ。彼ののそ態度からして見に本当のことだった様で、申し訳ないと思いながらジュードくんに礼を言えば、また一人でいなくなったら本気で怒るから、とデコピンされた。少し、痛い。
他の参加者もいると云うことで何とも言えずどことなく重い雰囲気が漂う食堂の一角に腰を落ち着け、運ばれてきた料理を前に皆が談笑を楽しむ中、ミラだけは一人何か考え込む様にして険しい顔で一点を見つめていた。ちりり、と肌を焼く感覚の空気に、目の前の食事には手を付けてはいけない気がしてならない。空気と、ミラの様子がそうさせるのだろうか、とてもスプーンを持つ気にはなれずにいた。急に立ち上がったジュードくんに驚き、そちらに顔を向けたことで注意が逸れ、先程まで考えていたことが霧散してしまい、事の原因であろうアルヴィンさんを見たが気付いてもらえなかったので、仕方なしに食事へと視線を戻す。落ち着き考えたところで先の考えが無かった事にはならず、どうしたものかと思案していた所に駆け込んできたキタル族の人が慌てて話す内容に、きょとり、と首を傾げた。落石は人為的なものであった、とそう告げる彼に息を吐く。可笑しいとは思っていたが事実だったとは、なんて首を横に振りミラを見れば運ばれてきた料理を見つめていた。何かあるのだろうかとミラを呼ぼうとしたのと同時にミラが叫んだ。
「食事には手を付けるな!」
最初から手を付ける気の無かった料理を見やり、それから周囲を巡らした先に入ったのは倒れ込む人々だ。見るからに手遅れだろうその人達に駆け寄るレイアちゃんから目を逸らし、そっと裾を掴んできたエリーゼちゃんの頭を撫でる。立ち竦んだまま嫌悪を顕にするミラは首謀者に心当たりがあるのだろう、唇を震わせ拳を作り、きつく前を見据えていた。そしてそれはアルヴィンさんもだ。息を飲み脱兎の如く食堂から駆け出ていった彼の顔には目に見えて分かる焦りがあった。毒を盛る人に心当たりがあるのか、それとも盛られる可能性のある人なのか、そこまでは判断出来ないが、彼にとっては一大事なのであろう。あのように取り乱す事は酷く珍しい。
このままこうしていても仕方がないので部屋に戻り、ユルゲンスさんから待機の今後についての連絡を待つことにした。アルヴィンさんはまだ戻る気配を見せないが、傭兵である彼は何かあっても大方のことなら一人で何とかしてしまうだろう、と取り敢えずは放っておくことにしたらしい。探ろうと思えば彼の気は追えるので問題は無いだろう。与えられた宿の部屋で表情を強ばらせる皆を見つめていたミラが唐突に口を開き、考えていた事を吐き出した。
「アルクノア…か」
「ハイディ、知ってるの?」
「少しだけ、なら」
クロノスの記憶の中にある言葉だった。黒匣を使い精霊を殺める組織だと、クロノスは記憶しているが実際のところはよく分からない。ミラの命を狙っている様だがそれはミラが黒匣を破壊しているからでありクロノスには直接関係が無いのである。かといってミラと行動を共にしている今は私にとっても無関係では無くなるのであり、ミラが使命を果たすにあたって障害にしかならないので何とかしなければならない、と言ったところだ。けれど、彼らアルクノアが黒匣を使うのにも何か理由があるのではないか、一方的に悪と決めつけるのは良くないのではないか、なんて、ミラの前では到底言える訳もなく、私はそっと口を噤んだ。
不意に扉が開けられ皆が視線をそちらに向けるものの、私の視線は床に向けられたまま。どうせ大会は続行されるだろう。十年に一度などとなればそう簡単に中止出来まい。腰掛けていたベッドへと倒れ込み目を閉じれば、ローエンさんに呼ばれた気がして顔を彼の居る方へ向けた。
「今日はもう休みましょう。ハイディさんはそのご様子です」
「いつの間に…」
「あいつにも色々とあるんだ。大目に見てやってくれ」
そのフォローはいらなかったよ、ミラ。けれど、まあ良いかと布団へ潜り込む。まだ眠くは無いが布団へ入っていればいつか眠れるだろう、と枕へ顔を押し付ける。すこし呆れた様なジュード君の声が聞こえたので引っ掴んだ枕を投げたら丁度当たったらしく彼のくぐもった声と寄ってくる足音が聞こえたので布団を頭まで被ってやった。それから、止まった足音と同時に背中に何か触れる感触がして、ジュードくんの手だろうか、と布団から顔を出して彼を見上げる。眉根を寄せた彼はベッド脇にしゃがみ込み、目線を合わせてきたので私もそちらを見遣った。
「疲れてたの?」
「どうして?」
「いつもは、最後だよね。ベッドに入るの」
「今日はたまたまだよ」
「…そう。何かあったら僕に言ってね、絶対だよ」
そう言う彼に何も言わずに頭を撫でた。気にする必要は無いと云う意味を篭めたこの行為に彼は気付くだろうか。いや、気付かないだろうな、と苦笑した。