一時休息
眠れないの?、と掛けられた言葉は誰のか、なんて直ぐに分かる。変声期前の、高くまだ幼さの残る、甘さを含んだ柔らかな声の持ち主は、返事をせずに視線だけを向けた私の隣に腰を下ろした。波打つ音を聞きながら、私はもう一度、ジュード君に視線を向ける。彼とこうしている時間は無いに等しかったと記憶しているので、少し、不思議な感じがした。
少し前の出来事だ。彼女自身の信念を貫き通した結果、彼女は足が動かなくなる程の怪我を負った。、一時は命も危険な状態だったのだ。私は、あの時、あの場所にいなかったから、彼女が何を思い、何を決意したかなんて、分かるはずがないから、どんな言葉を掛けたら良いのか分からない。逐一、時を遡って確認するなど、野暮だからしたくもないし。ただ、もう少し、冷静になれなかったのか、そう、思っただけ。別に、ミラを責めているわけでも、貶しているわけでもない。ただ、純粋な意見として、そう思っている。それから、彼女の力になりたいとも。
そんな彼女の足の治療の為にジュード君の故郷であるル・ロンドに来ているのだが、私は着いた矢先に倒れたらしく、何も覚えてはいない。急に意識が遠退いて、視界が黒くなったことしか、なにも。糸が切れたようだった、とミラは言っていた。きっと、私が、クロノスとの同化、同調、この世界への適合、全てに置いて不安定だったのだと思う。慣れない事続きに身体がついていかなかったのだ。2週間、私は昏々と眠り続けていたらしい。まるで、私の周りだけ時が止まっているような、そんな不思議な感覚がした、と言うけれど、実際の所、本当の事だろう。クロノスの保護が、私にはついている。今現在も、私の"時間"は他の人とは隔離されている。だから、髪も爪も伸びはしない。人であるのに人ではない、と云うのは少し複雑な気分だったけれど、生活に支障が無いのは、唯一の救いだ。
今は、鈍った身体を治すべく、ミラと共にリハビリをしている真っ最中だ。彼女もだいぶ動かせるようになってきて、ここのところ毎日、一緒に散歩に出ているし、治療器具の痛みも我慢出来るようになってきたと言っていた。けれど、どれだけ辛く苦しい事かくらい、私は知っている。私に心配させまいとするのか、ミラは、そんなことない、と気丈に振る舞うだけ。そんなの、私が納得するはずがないの分かっているのに。眠っている間の事は何も知らないと思われているけれど、忘れてはいけないのは私がクロノスであると云う事。全ての時間を統べる私にかかれば、私が眠っていた間のミラの様子くらい手に取るように分かるのだ。ミラもそれを分かっている筈なのに隠そうとするから、彼女も大概素直じゃない。まあ、素直じゃないのは、私を含め、皆もなのだろうけれど。
「ハイディはもう大丈夫?」
「うん、平気。ちゃんと動けるし」
「そっか、よかった。本当に心配したんだからね。だって、いきなり倒れるんだもん」
「あはは…私も驚いた」
「こんなの、二度と無しだからね」
「うん…あ、ジュード君さ、私の事ずっと看ててくれたんだよね?レイアちゃんから聞いたよ。有り難う」
ミラの事だってあるのに、その時間や自分の時間を割いてまで私を看ていてくれたなんて、本当、彼はお節介でお人好しで、でも、それ以上に優しくて可哀相な子。どんな事でも受け入れて、他人を気にして、それを自分の為だと言い張る、不器用で損な性格だ。
ジュード君の目を見て笑顔を作ってみせれば、少し照れた様子で彼も笑った。大丈夫だと言ったのに、気遣って身体を寄せて支えてくれるから、甘えてみれば、ジュードが驚いたように瞬いてから、安心した様子で小さく微笑んだ。拒絶されると思ったんだろうか、そんなこと、あるはずないのに。
吹き付ける海風に髪を遊ばせながら、顔を綻ばせば、それに気付いたジュード君が首を傾げた。
「ハイディは海が好きなの?」
「嫌いじゃないだけだよ。見てて飽きないし」
「ふぅん…そう云えば、初めて会ったのも水辺だったよね」
「あれね、あの時もありがと。死んじゃうのかな、って諦めてた」
冗談ぽく、悪戯めいて笑えば、眉を寄せたジュードと目が合って、どうしたの、と目で訴えれば、彼は少しむくれた様子で口を開いた。あまりにも子供っぽい仕種が、可愛らしいと思った。
「死ぬ、なんていわないで。僕は…」
「うん、ごめんね。嬉しかったよ、ジュード君が助けてくれて」
「僕も、ハイディを助けられてよかった。だって、そうじゃないと、今のこの時間は無かったんだから」
いつもは歯切れ悪いくせに、こう云う時だけ厭味なくらいはっきりしているのが少し憎たらしい。さらりと言ってのける彼のこれはきっと素なのだろう。彼の、子供らしさが垣間見える、唯一の。
何とも言えない顔をしているであろう私を、きょとり、と不思議そうに見てから、ジュード君は噴き出すように笑って、口元を押さえた。
「ハイディのそんな顔、初めて見た。赤いね」
「…ジュード君の所為なんだけど」
「うん、知ってる。可愛い」
ふんわりと笑う彼を見て、自身の頬に熱が集まるのが分かる。なんて恥ずかしい子なんだ。困った顔をするジュード君に首を横に振って、視線を足元に落とす。誰にでも言ってるのかな、なんて考えたら、どうしてだか、胸がぎゅっとなったけど気付かないフリ。
「ジュード君て本当…」
「え、何?」
「なーんでもない。立ってるのも疲れたし、もう行こう」
「ええー気になるよ、ねぇ、ハイディー」
ジュード君の腕から抜け出て診療所へと足を進めれば、情けない顔の彼が窺うように覗き込んでくるのを無視して足取りを早める。
時間は関係無いと言うけれどまさか、ね。まだ、黙ってないといけないの。せめて、ミラが使命を果たすまで。でもきっとその時は。