青に溶ける夢を見た

「楽しいか」
「普通」
「そうか」

青い空と白い雲を見上げ、時折吹く風に揺れる木々の音を聞きながら目を閉じていれば、いつの間にかそこに居た人物に声を掛けられた。淡々とした声は沈黙を保っていた周囲の空気に混じり溶けるように消えていく。耳に届いただけの言葉に返すのは短い答えだが、彼は大して気にしてない。

授業のために入れ換えられ、真新しい水の張られたプールは、掃除をしてある御陰もあって底はくっきりと見える。焼き焦がさんばかりに降り注ぐ太陽は水中を煌かせ、まるで別世界のように仕立て上げる。冷えた水は身体を持ち上げ、絶対的な存在をもってして支えるよう。不安定極まりない媒体に身体をあずけて揺蕩えば、いつか同化してしまえるような気がした。実際にそのような事は有る訳がないのだが、今は本当にそうなれば良いと思う。

プールサイドに立つ彼の表情は逆光で窺い知ることは出来ない。探るのを諦めて身体に力を入れた。深く息を吸って沈んだ水の世界は優しく包み込む様にある所為もあって、最初に感じた冷たさは無く、体温と同じになった様に感じる。水が暖かいのか自身が冷たいのかどうかと云う問題はこの際どこかへ放っておくことにしよう。そのような野暮は今の状況に相応しく無い。幾つもの水泡が身体に纏わり付く様に現れては弾けて消えて行く。肌に触れるのがむず痒いが、嫌いではなかった。

数秒の内に水が波打つのを感じて目を開ける。揺れる水中、波立った水面は波紋を広げ、此方まで押し寄せてくるよう。屈折した光が四方八方に飛び散る光景をぼんやりと眺めていたが、段々と息が続かなくなってきた。仕方なく浮上すれば、頭部に当たる制服の感触に瞬く。該当するのは一人だ。顔に張り付く髪を退ける指に、むずがるように首を振った。もう良いか、と目を開ければ、長い指が離れていく所だった。眩しさに目を細める視界に入り込んだ彼は光を遮るようにしているらしく、私は出来た影にすっぽりと収まっている。まるで暑さを感じさせない涼し気な彼を見上げ、濡れた手を伸ばして首を掴んだ。彼の眉が寄る。

「届かなかった」
「届かせる気が無い、の間違いだ」

咎める声に聞かないフリをして、掴んだままの手で喉元を軽く押したり撫でたりとしていれば、鬱陶しく思ったらしい彼が手を掴んだ。じんわりと広がる他人の体温は何だか不思議な感じがした。少し屈んだ彼が指先に唇を寄せる。そっと触れる彼の唇を目で追い掛けて口を開くが、何か言いたい事が有る訳でも無かったので、結局は何も言わず閉じた。

未だ唇を寄せられたままの指先は、彼の体温と同じになっている様に感じる。冷えたり温まったりと忙しない身体だ。指先を擽る子機に目を細め、それから存外に柔らかい唇をその指で押した。微かに震えたそれが可笑しくて、喉を鳴らして笑った。しかし彼は面白くなかったらしく、彼の空いた方の手が額に落ちる。もう一度笑い、薄く開かれている唇をなぞった。

風に揺れる水面に真白いシャツが映える。空の色を写したプールを横目見た。鮮やかに瑞々しい色は酷く魅力的に映るのだ。深く深く息を吐いて伸ばしていた手を下ろす。水面に落ちたそこから飛沫が跳ねて波紋が揺れる。何も言わない彼を見上げながら、私の身体をそれとなしに支えている腕に寄った。先程までは暖かくあったのだが、今は自身と同じように冷えきっている。確かめる様に撫で上げたのだが、どうやら擽ったいらしく彼の肩が揺れた。どうかしたのか、と身を屈めながら薄ら笑う。頬を滑る長い指は意外としっかりとしているのだ。普段、本を読んでいる時は微塵も感じさせないのだが。スポーツをやっているからか、掌は些か硬い。けれど、嫌いではないその手に擦り寄って笑った。笑み を深める彼の唇が額に優しく触れる。祈りを捧げていると錯覚してしまう様な行為に、静かに目を閉じた。ゆっくりと離れていくそれに目を開けて、完全に離れて行く前に彼の頭を掴んだ。半ば無理矢理に引き寄せ、お返しとばかりに彼の額に口付けた。前よりも伸びた前髪を掻き分け触れた額はほんのりと暖かい。

「どうした」
「お返し」
「では、お返しをしなければいけないな」
「無限ループ」

小さく笑った彼は楽しそうに言った。
浮かせたままだった身体に力を入れて身を沈める。視界が泡で埋まった。制服が揺らめく。泡で埋まっていた視界に入り込んだ腕が背中に回る。引き上げようとする腕に、されるがままに身を起こした。底に足をつけ、確かな感覚に違和感を覚えた。やんわりと身体に回った、細いながらもしっかりと筋肉のついた腕はやはり冷たい。

「冷たい」
「誰の所為だ」
「入れ、なんて言ってない」
「放っておいても良かったのか?」
「出来ないくせに」

放っておくなんて出来ないくせに。
悪戯めいた笑みで見上げた彼は、面食らったかのような表情をしたが、直ぐに何時もの顔で私を持ち上げた。慣れた浮遊感に、これまた慣れた手付きで彼の背中のシャツを握った。どれだけ慣れようと腹部への圧迫感は好きに慣れないが。上手い具合に彼の肩が鳩尾辺に来るのだ。

「そうだな。出来ないな」
「開き直った」
「何とでも。さあ、帰るぞ」

水を掻き分けプールサイドに向かう彼に担がれながら足を揺らす。動くな、と言われてしまったが、気にすることではない。ちょっとやそっとで傾ぐ軟な身体でないことは重々承知している。私を放り、彼もプールから上がった。水分を含んで重さが増した上に身体に纏わり付く制服に表情を歪める彼を見ながら、立てた膝に顔を埋める。少しでもマシにまるように、と制服を絞る音に耳を傾けつつも視線はプールに向けたまま。先程までいた場所は、最初から私なんて居なかったとでも言いたげに凪いでいる。何だか少し癪だ。

「何かあるなら言ってくれ。一人で抱え込むな。どこかへ行くな俺の所に来い」
「もう一回、入ってきて良い?」
「勘弁してくれ」
「それは残念」






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