心窓の願い
突然の雷雨に宿へと駆け込んだのは今しがたのことだ。全身しっかりと雨に浸り、洋服が絞れる程になっているのを見かねた宿の主人が貸してくれたシャツは青空に浮かぶ雲の様に鮮やかな真白。柔らかなそれが肌を撫でる感覚は久しく、雨風に荒れる外とは真逆に一行の気を落ち着かせた。早々に部屋に戻った三蔵や、未だ食堂で頬を膨らませている悟空、宿泊客の女性に声を掛けていた悟浄、それから、と皆の行動を把握していく八戒は一人見ない姿に首を傾げ、淡い翠色の髪の彼女を捜すべく階段を上がる。雷が近く雨音も激しさを増す天候に古傷が疼く気のした八戒の手は、無意識に腹部へと伸びる。あの時は今よりも穏やかな雨だったと、凪に近い心境で思い出せる様になったのは大きな変化であり、良いことであるのは明白だ。最近はあまり見なくなった夢もその為か、それとも考える余地の無い旅路の所為か定かではないが、八戒としてはどちらにせよ良い作用と考えていた。決して忘れたわけではなかった。忘れられる筈のない、一生を掛けて付き合っていく罪と罰は確かに心の内に深く根付いてる。



どうも感傷に浸ってしまうのは雨の所為か、自嘲気味に薄ら笑んだ八戒は廊下の一番端、今は固く閉ざされた窓をぼんやりと見詰める金眼の薄暗い色を見付け、瞠目した。何を思っているのか、力なく投げ出された白い肌を持つ四肢から見るに、自身と同じく深く考え込んでいる様に思えた八戒が声を掛けるか決めあぐねている間に気付いた彼女の双眸が、彼を捉える。ゆったりと瞬いた彼女は緩く首を傾げ、どうかしたのかと唇だけで問うた。電灯に煌く月の色にも似た穏やかな眼差しに、誘われる様に歩み寄った八戒が応えるべく肩を竦め曖昧に笑んだ。相手の好きに取れる態度の彼を咎める事も訝しむ事もなく気にも止めない彼女の瞳は八戒の腹部に添えられた右手へと向けられ、合点がいった様子で一つ瞬いた。八戒の身を包む真白のシャツは些か大きさが合わないのか、その所為あって彼の身体の薄さが強調されているように見える。指先近くまで隠してしまう袖は、八戒を少し可愛く思わせた。上から下まで見遣った彼女は、いつもよりガードの緩い雰囲気の彼に不思議な気持ちになりながら数度瞬く。




「ここ、良いですか?」

「…席、外しましょうか?」

「ああ、良いんです。居てください」

「そう、ですか……」




腰を浮かせかけた彼女を制し、対面の椅子に腰を据えた八戒は閉ざされてしまった窓を見る。外は嵐か、揺れ動く厚い木の音が耳につく八戒とは逆に、彼の言葉の真意を図ろうとする彼女の気は外へと向かず、内心穏やかではいられないようだ。"居ても良い"でも"大丈夫"でもなく、居ることを望むような物言いは彼にとって深い意味は無いのだろうが、少なからず惹かれている身としては色々と考えてしまうものだと、文句の一つでも言いたい気に駆られながらも言える筈のない彼女は只管に黙り込む。雨に良い思い出のない八戒は、一人でいたら嫌でも思い出してしまう為に誰かと共に居たいだけなのだろうとそう思いながら。

優しくも残酷な思い出は八戒を引きずり込んでいく。彼女は、八戒の思いつめた時の瞳が苦手だった。暗い色を帯びる翡翠のそれが、色を、体温を、生気を、失っていく愛しいあの人と重なってしまうから。




(それに、貴方と貴方の愛する人との間に入る隙間など無いことを突き付けられるから)




普段は穏やかで優しい眼に加わる甘やかな色は、絶対に彼女に向けられることは無い。それでも良いから想うことを決めたというのにどうも気になり、引き合いに出してはその結果、劣等感や敗北感を味わうという自殺行為に等しいものを繰り返してしまう。しかし、それ程迄にその女性の存在は大きいのだと、諦めにも似た表情を浮かべた。




彼女の、困ったような笑顔に愛する女性の面影を見付け、その人と重ねてしまった八戒は小さく息を飲んだ。姿形も性格も何もかもが似ても似つかないと云うのに、どこか似ている表情は愛しさを募らせる。それは目の前の彼女に対してか、はたまた愛する女性に対してか、少し前までの自分であれば有無を言わさず後者を指すだろう。けれど今はどうだ。前者の、今この瞳に映る彼女に対しての気持ちだと、息をする如く自然に言えるに違いない。時に手を差し伸べ、時に背中を押してくれる温かな存在は、歩き出した八戒を確かに包み、見守っている。彼女がどう思っているかは知らないが、気付かずに支えてもらうばかりであった自分が、今度は支える番だと、そう心に決めた事を思い彼女を見詰めた。



固く閉ざされた八戒の窓は雨が止もうとも開けられることはなかった。蝶番が錆び付いてしまう程に放置されたそれ、八戒自身が開けることを頑なに拒み続けた窓を開けたのは彼女だった。白く華奢な手でそっと鍵を開け、軋む蝶番を優しく動かしてくれた。鮮やかな青空から差し込む、眩しくも温かい光を招き入れ、外に出ることを促してくれた、そんな彼女自身の窓は未だ固く閉ざされたまま。その内側で忘れられない人を追い、囚われ続けている。

ああ、と八戒は目を細めた。




(願わくば、貴女の窓を開け放つのは僕でありますように)




不意に立ち上がった彼女が窓へと手を掛けたのを目で追った八戒は雨音が消えているのに気付き、堅い窓を押す彼女の手の直ぐ隣に自分のを当てた。力を加えられた窓は鈍い音を立ててゆっくりと開いていく。厚い雲の隙間から差し込む眩い光が光彩を刺激する。こうして彼女が開けてくれたように、と。窓から身を乗り出す彼女を見詰め、それから、静かに目を閉じた。




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