私がこの世界に飛ばされて2ヶ月は優に経っただろう。あの時拾った本の所為で、まさかこんな事になるだなんて夢にも思わなかった。なんちゃら連山で倒れていた私を、カノンノちゃんが見付けてくれなかったら私は生きてなかったと思う。でも、拾ってくれた彼女には悪いけれど、此処は少し居心地が悪い。部外者を警戒する視線が痛いんだ。これで喋れたりすれば良いんだけれど、生憎と言葉が通じない。ディセンダーと呼ばれている子とは一応、意思の疎通紛いな事は出来るけど。それだけでは彼らの警戒心を解くには不十分だ。此方の言葉を話せるようになろうにも、話し相手がいない。これじゃあ、いつになっても話せないままだろう。
…何やってんだろうな、私。
与えてもらった部屋の窓辺で筆を走らせながら溜め息を吐く。
どうして私だったのかな。朝起きて食事を摂って気ままに絵を描いて寝るのを繰り返す、それだけの毎日は酷く味気無い。それに、家族の事も心配だ。大事な大事な妹を置いてきてしまったから。物分かりの良いしっかりした子だから心配する事は無いんだろうけれど、ああ見えて何処か抜けているからやっぱり心配。帰る方法を何とかして見付けなきゃいけないけど。
「船から出してくれないだろうかならなぁ」
ディセンダー君、基タルトが教えてくれた。風当たりが悪いからあまり部屋から出るな、って。あの時の申し訳なさそうな顔を良く覚えている。それから、替えの服をくれた事も。
タルトはちょくちょく私の所に遊びに来るようになった。特に何をするわけでもなく、絵を描いているのを眺めたり寝ていたりする。彼曰く、私の傍は居心地が良いらしい。何かと忙しいタルトは時々ふらふらになって来たと思えば、私のベッドを占領して何時間も起きない事も多々ある。
「懐かれてる…?」
『あの、』
「っうわ!!!」
がたん、と存外大きな音を立てて私は椅子から落ちた。絵の具は散らばってないみたいで、胸を撫で下ろす。
恥ずかしいな、私。声を掛けられただけでこんなに動揺するなんて。ってか、これタルトの声じゃない。じゃあ、誰?
腰に手を当てながら視線を上に向ければ、綺麗な水色の瞳とかち合う。
(うわ、宝石みたい)
思わず見惚れてしまった。私を見下ろす彼の瞳は、昔に本で見たアクアマリンの様な煌めきを湛えている。まるで、薄く青に色付いた硝子細工の器にたっぷりの水を注いだみたいな。人間って不思議だ。元いた世界ではこんなに綺麗な色をしている人はいなかっただろう。こんな色を、私も描いてみたいと思った。絵描き魂が疼く。
『大丈夫か?』
「??…え、あの」
『ああ、済まない。言葉が通じないんだったな』
見つめ合ったままの体勢で、彼が首を傾げた。何か言っているんだけれど、生憎と私には通じない。分からないと伝える為に、彼と同じ様に首を傾げたら、彼は困った顔で頭を掻いた。子供っぽい表情と仕種が可愛いと思う。でも、きっと彼も私を警戒してる他の人達と同じなんだろうな。多分、食事か何かで私を呼んで来る役目になってしまったんだと思う。何だか悪い事をしてしまった。いつも私を呼ぶ役目はカノンノちゃんかタルトなんだけれど、来ないと云う事はお仕事に行ってるのかな。
つらつらとそんな事を考えていたら何故か手を伸ばされた。中腰体勢の彼は優しげに微笑んでいる。彼の顔と差し延べられた手を見比べていたら彼が声を上げて笑った。
ますます意味がわからない。
それから、困ったような表情をした。
『ええと…手を貸そうと…』
「んん?何て言って…"手"?」
聞き取れた単語を繰り返したら、彼の顔が輝いた。取り敢えず合っていたみたいだ。けれどそこからが問題。どうすれば良いんだろう。手を差し延べている状況からして、さっきの単語"手"だ。これは手を貸す、と取って良いんだろうか。違っていたら物凄く恥ずかしい。険しい顔つきで悩んでいたら、ほら早く、と言わんばかりの表情で彼が手を近付けた。
一か八かでその手を取ったら、脇腹を掴まれて軽々と持ち上げられて、直ぐに地面に足が着いた。
『さ、行こう』
「は?」
そのまま私の手をしっかり握った彼が、私を引きずる様にして歩きだす。精一杯の抵抗を試みるも無駄な事で、到頭ドアの前まで来てしまった。機械的な音を立ててドアが開く。その向こうで彼は私が一歩、踏み出すのを待っている。
狡いと思った。引きずってきたのだから、部屋を出る時もそうすれば良いのに。彼は私が自分の意思で部屋を出るようにしたいらしい。これは何の虐めだと叫びたかった。どうせ通じないけど。
繋がれた手を辿って彼を見る。私を見ても、彼は肩を竦めて廊下の向こうを視線で示すだけだった。
これは人生最大の転機だ
(私は…)(変わらなきゃいけないんだろうけど)(でもやだなぁ)