『ミチタカー!!』

知らない声に名前を呼ばれたと思ったらタックルされた。存外に強い力で回された腕に肺を圧迫されて息が詰まるけれど、知らない人なのでぞんざいに出来はしない。これがタルトだったら直ぐに注意の一つや二つ言っていただろう。背中に押し付けられている頭を、振り返って見下ろす。短めの茶髪が彼女の動きに合わせて揺れる。派手な黄色の洋服を着こなす少女は私より少し年下くらいだろうか、すらりとした足を覆うブーツまでも黄色だ。

『助けてミチタカ!セネセネが追ってくる!』

何かを必死に訴えているけれど、彼女は私に言葉が通じないのを知らないのだろうか、けれど名前を知っているのならその予想は外れだ。知っていて敢えてしがみついてくると云うことは、それくらい焦っているんだろう。何をやらかしたのやら、この船の住人達は揃いも揃ってトラブルメーカーだ。行く先々で事件が起きて巻き込まれている、とタルトが教えてくれたのだが、本人もその内の一人だと知りはしないんだろうな。かく言う私もきっとそうだろう。でなければこの世界に落っこちてきたりはしない。不可抗力すぎて言い訳したくもなるが、今は黙っておこう。
目尻に涙を溜めて上目遣いをする少女は、段々と近付いて来る足音に身体を強張らせた。

『ノーマ!』
『ひぎゃ!!』

廊下の反対側から響いた声に彼女は肩を竦める。聞いたことのあるこの声の持ち主はこのように怒鳴ったりする人だっただろうか。初めて一目見た時はもっと落ち着いていると思っていたのに。そう考えている内に追い付いた彼の息は少しばかり荒い。引っ付いて離れない少女の首根っこを掴んで引き離してくれた。猫のように捕まえられた少女は逃げようとして藻掻いているものの、力の差は歴然、びくともしない。少女の行動に、青年は眉を寄せながら大きな溜め息を吐いた。
悪戯をした猫とその飼い主、と云う構図を完璧に再現している二人のやり取りを聴きながら首を傾げる。もう行っても良いんだろうか。ただ水を汲みに来ただけなのに絡まれるなんて滅多に無い経験だった。飛び付かれた時に少し零れてしまった水を拭き取らなければいけないな。

『ミチタカー。助けてよぅ』
『おい、あまり困らせるな。……この馬鹿がすまない』

何を言ってるのかさっぱり分からないけれど、声色からして謝っているのだろう。本当、こんな時にタルトが居てくれたらいいのに。大丈夫、と首を横に緩く振って小さく笑う。分かってくれたんだろうか、青年も少しだけ目元を柔らかくした。
観念したのだろう少女を連れて、青年は手を上げて挨拶して直ぐに去っていった。嗚呼、水を拭かなければ。




絵を描きはじめて約5時間。共にこの世界にやってきた腕時計が変わらず音を立てながら規則正しく回っている。朝9時から休まずに14時まで。まだまだ日は高く、変わらず輝いていると云うのに、部屋に篭っているのは身体に悪い気もするが、如何せんどうしてだか外に行くのは躊躇われる。それに、部屋に居ても充分に有意義な時間は過ごせるのだ。
足元だけでなく、割と小さな部屋の床一面に絵が散らばっていた。完成したものだけでなく、途中描きも多々入り混じって何が何だか分からない状況だ。パステルからビビッド、カラーやモノクロ、様々なトーンで描かれた絵達が、床に不思議な模様を作り出している。下描きなんてしないで、気の向くままに、色を吸った筆を走らせて、沢山の色が真っ白な画用紙の上で混ざり溶け合い一つになるのだ。また一つ、筆を滑らせ白を彩る。とっくに濁った水が揺らめいた。
小さな窓から見える景色は絶えず流れ、同じものはなかった。

「水…変えにいかなきゃなぁ」

そう呟きながらも手は止めなければパレットも手放さない。これが終わったら、を繰り返して今に至るのだと云う事に不意に気付く。嗚呼、またか。悪い癖だと思いつつもあまり気にしないので一向に直る気はしない。全てをなあなあで終えてしまう。
欠伸を一つ、零した時にドアが開いた。機械的な音を立てて開けられたそれの向こう側にいるのは誰だろう。普段の訪問者はタルトかカノンノちゃんしかいない。けれど今日は違ったのだ。いつもみたいに名前を呼ばれないから不思議に思って目だけをドアに向ければ、白と桃色を基調とした洋服を纏う、上品な物腰の少女が目を丸くしてそこにいた。大きな若葉色の瞳が段々と輝いていく。半開きだった口を嬉しそうに開いて、ぱちり、とひとつ手を叩いた。

『素敵です!!!』
『大きな声なんか出してどうしたの、エステル』

増えた。また一人増えた。私と同じ黒色の、それでいて私よりも断然に艶の有る髪を下の方で緩く結び、華奢な脚を惜し気もなく晒した少女は、露出は高いが厭味を感じさせない、溌剌とした空気を持つ可愛らしい子だ。やっぱり、この船には顔の良い人達ばかりだ。

『うわぁ!凄いね!これ全部を貴女が描いたの?』

話し掛けてくれるのはとても嬉しいのだけれど、返事をしてあげれないのが心苦しい。ごめんなさい、と肩を竦めて眉を下げるのに気付いた桃色の髪の少女がすまなさそうに頭を下げたのを見て、そんなことをさせたかったのではないのに、と思った。言葉が通じないのは不便でもどかしい。こんな時に弁解の一つも出来やしないのだから嫌になる。どうして話せないのかなんて分かりきっていることだけれど、やっぱり気にしてしまう。タルトに言葉を教えてもらおうかとも考えたけれど、あの子は同じように喋っているので不可能なことだ。

『なーにしてん…うわぁお!すっごいことになってるねぇ』
『アーチェ、任務に行ったんじゃなかったです?』
『ふふん。あんなものはねぇ、このアーチェ様に掛かればちょちょいのちょいよ!』

もう一人、元気な子が増えて、会話に花を咲かせる彼女達は見てて和むけれど、ドアが開いたままだと凄く気が散る。入り込む風に晒されて絵の具が乾いていく。話すなら中に入れば良いのに、と思ったけれどそれは無理なことだった。足の踏み場が無い程のに床を埋め尽くす絵の所為で立ち入るのは不可能だ。片付けておけば良かったと思う。乾かす目的で放っていたのだけれど、こうも踏み場の無い状態になるとは予想しなかったのではないが、部屋に人が来る事が予想外で、考えた事もなかった。
気も逸れて、景色も変わってしまったので今の絵に色をつける気は無くなった。パレットに布を被せ、筆を置いて画用紙を手に取り後ろへと滑らせるように落とす。大きく伸びをしてから、またやってしまった、と肩を落とした。描き詰めるのは身体にも悪いと云うことはきちんと認識しているので、少しだけ風に当たってから何かお腹に入れよう。小さく主張する空腹に、腹に手を当てて息を吐いた。

(その前に床の片付けか…)
『ねぇねえ、これもらって良い?』

明るい声が部屋に響く。その方を見れば、無邪気な笑顔の少女が拾った絵を振って私の気を引かせようとしていた。何を言っているか分からないけれど、取り敢えず頷いておけば何とかなるだろうて、少女の方も嬉しそうにしているから良いだろう。片付けようと、手始めに足元の絵を拾い上げた。

『ちょっとアーチェ、言葉は通じないのよ』
『あの、ミチタカ…その』

首を傾げつつ絵を拾う手は止めず、軽く20枚は超えるだろう画用紙を抱えて彼女達を見る。ああでもない、こうでもない、と言い合う様子を見る限り、私に言葉が通じないから、意志の疎通が出来ないから困っているんだろう。タルトがいればこうならないのに。そう思っていた時、ちょっとした騒ぎに気付いたらしい少年2人が、何事かと少女達に割って入った。緑の髪と銀髪の、端から見ればいじめっ子といじめられっ子の2人だ。気の弱そうな銀髪の子と目が合ったけれど直ぐに反らされてしまう。

『んだよ、うるっせぇな。騒ぐなっての』
『なによ!今ちょっと忙しいんだから、スパーダに構ってる暇なんて無いのよ!』
『ああん!?』

何度も言うけれど、何を言っているのか全然分からない。分からないけれど、緑の髪の子の柄が悪い事は分かる。ヤンキーか、君は。
私の部屋の前で口喧嘩を始めるとかしないでほしい。きゃんきゃん吠え合う子犬のように言い合っているピンクと緑が段々とヒートアップしていく。もう静かにしてよ、お願いだから。ドアを閉めて鍵を掛ける事が出来たら何と良いことか!だって私の平穏な時間が戻ってくるのだから。
集めた画用紙をベッドに落としてイーゼルを畳む。抱え上げようとしたら横から伸びてきた手が私の手にやんわりと触れ、それからイーゼルを抜き取られた。腕を辿れば銀髪の少年が控えめに微笑んでイーゼルを抱えている。運んでくれるのだろうか、元の場所を指差せば、彼は一つ頷いて持っていってくれた。私なんかに気を回したりしなくてめ良いのに、きっと彼は優しいのだろう。大きさの割に軽いイーゼルは、彼の小さな身体には不釣り合いに見えた。
その様子をぼんやり眺めていたら、肩を叩かれ手をにぎられたから振り向いてみれば、可愛らしい笑顔が2つ。そのまま彼女達に手を引かれて部屋を出た。何事か、と目を白黒させる私を、追い付いた銀髪の少年が軽く押す。この場から早く逃げようと云うことだろうか、丁度良いのでそうする事にしようじゃないか。




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