やさしいてのひら
荒れた大地に緑は無く、砂塵の舞う景色が広がるばかりの世界。人々は黒匣に頼り黒匣に生きる。つまらない世界だとクロノスが呟いた。最近になってよく喋るようになったが、実は結構お喋りな様で、何かと返事を求める。おざなりにならない様に気を遣いながら灰色の町並みを抜けて広場に出た。

「辛気臭い。もっとしっかりして」
「うん、そうだね。しっかりしないと」

広場を駆ける子供達を眺めながらの返答は気に入らなかったらしく、姿が見えるのであれば顰めっ面だろうクロノスがわざとらしく溜め息を吐いた。心底どうでもいいと思っている様にも取れる物言いは癖のようなものらしい。神様がそれで良いんだろうか、私には関係の無い事だけれど。

「過ぎたものに縋り付くのはみっともない。…別に、忘れなさいとか思い出すなって言ってるんじゃない。そうやって縋り付かれて、あの女が喜ぶ?前を見て歩きなさい。あの女が好きな自分でいなさい」
「彼女が好きな…私」

立ち止まって爪先を視界に入れて、それからそっと目を閉じる。クロノスの言葉が頭の中で反響して、じっとりと染み込んで行く。すっぽりと入り込んだその言葉は思いの外しっくりきて、嗚呼そうか、と顔を上げた。すっかり忘れてしまっていた彼女との約束。どちらかが先に死んでしまっても、ずっと一緒だと、覚えていても生前の姿に縋り付かない、と。それから、変わらず笑顔でいること、そうすれば二人はずっと幸せのままいられる。もう少しで約束を破ってしまう所だった。こんなのではプレザに怒られてしまう。
全部思い出して苦笑していた私に、クロノスはつまらなさそうに鼻を鳴らした。何だかんだ言いながらも心配してくれていたと云うのが分かる。妙に照れ臭くて冷たい態度を取ってしまうらしい。素直じゃないと云うか不器用と云うか、それは私も同じ事だけれど。

「ああ、そうだ」

思い出しついでにもう一つ。これは彼女と出会って数年経った頃の何気ない約束だった。他愛のない、戯れからの延長線上。思い立ったが吉日、という言葉があった筈だ。そうと決まれば実行有るのみだろうて、空元気なのは自分でも分かっている。だからこそ、心機一転するにも丁度良い。
もう食事も終わった頃だろうから、手も空いているだろう。深呼吸をして、アパルトマンまで駆け出した。
約束、破ったりしないからね。



「アルヴィン、鋏ある?」
「帰って早々なんだよ…ったく、待ってろ。探してやっから」

おかえりなさい、と笑うエリーゼとレイアの頭を撫でてやってからジュードがくれた紅茶を煽る。それから、引き出しを探っているアルヴィンの後ろを着いて回った。私が勝手に探るのはいけないけど彼ならまだ良いだろう。あったあった、と引き出しの中から見付けた鋏を投げて寄越すアルヴィンを窘めてからローエンに差し出す。きっと彼は手先も器用であるだろうから、こう云った事には一番信用出来る。首を傾げて微笑んでみせれば、彼も優しげな笑みを浮かべた。

「自信はありませんが、それでも宜しいですかな?」
「勿論。お願いしても?」

鋏を受け取った彼に恭しく椅子まで招かれて、深く座った私の髪にローエンが鋏を入れた。思い切ってやってくれと頼めば、心情を汲み取ってくれたのか本当にざっくりと切ってくれた。音がするたびに床に落ち、広がったそれは段々と量を増やしていく。断続的な音が部屋に響いて、腰まであった髪はもう肩につかないくらい短い。レイアより少し短くなった所でローエンは手を止め、肩に付いた髪を払ってくれた。あったものが大幅に減って、頭がだいぶ軽くなった気がする。
名残惜しそうに、切り落とされた髪を拾い上げたアルヴィンの手の内で存在を主張するそれは、昔に彼が好きだと言ってくれたのではなかったか。寂しそうに見詰める彼が今一度、強く握った。もう自分のものでは無くなった髪はゴミに過ぎないが、長い間を共にしてきた相棒でもあったし、何もかも似ていない私とプレザの唯一のお揃いだった。ありがとう、忘れないよ。誰に言うのでもなく、心の中で呟いた。
何事も無かったかの様ににローエンに礼を言っている私の髪に、伸ばされたアルヴィンの指が絡んだ。確かめるように梳いた後、物足りなさげに巻き付ける。言外に不服だと言われているみたいだ。最近、彼はなかなか自虐的になりはしたが、段々と昔のように接する事が多くなった。皆との間に大きな蟠りが有り、肩身の狭い思いをしている中で、気兼ね無く接する事が出来るのが私だけだからなのかもしれないが。少ない情報で彼なりに私を理解し、受け入れようとしてくれているんだろう。目を合わせて窺うように見てくるのが証拠だ。

「勿体ない…です」
「なんで切っちゃったのー?なんでなんでー」

隙有らば噛み付こうとするティポを避けつつ苦笑して、控え目に裾を掴んだエリーゼの頭を撫でてやる。いきなり髪を切ってしまうなんて、本人以外不思議に思うしかないし気にもなるだろう。言いたくないなら、なんて顔をしているジュードも聞きたくてうずうずしているレイアも私には可愛く思えたし、アルヴィンに至っては小さく唇を尖らせながら突いてくる。どこの子供だ、この人は。振り返って目を合わせたら、叱られた子供みたいな表情をして直ぐに目を泳がせた。私が迷惑だと思っていると勘違いでもしたんだろう、本当に臆病になってしまった…いや、彼はずっと隠していただけ。本当は臆病で寂しがり屋なんだ。腕を摩って、何でもない事を伝えれば、些か安心した様に目元を下げた。

「んー、ただの気分転換ってのは?」
「ふむ、気分転換…か。まあ、納得しないだろうな」
「あ、はは。……ただの約束だよ」

赤い宝石を思わせる瞳を瞬かせたミラが首を傾げる。約束、と云う概念は精霊には無いのだろうか。そんな筈はないのだけれど、彼女はよく理解出来ていないみたいだった。そもそも彼女は約束をした事があるんだろうか、と云う事が疑問だから、考えると長くなりそうなので今は横においておこう。
約束の内容を言え、とミラが強請るのに苦笑しながら口を開いた。

「プレザとの約束」

名前を口にすれば、皆の顔が一斉に強張る。ひゅ、と息を吸ったのは誰か。

「ほら、こんな世界で生きてるでしょ?死が直ぐ近くにある生活をしてたの。だから、どちらかを置いて死ぬこともあるかもしれない。もし、そうなってしまったら残った方は髪を切ろうね、って。そうすれば忘れないし、そうすることで縋らないで生きようって」

まだ幼い頃の忘れかけていた約束。お揃いね、なんて理由もあって同じようにのばしていた髪はいつだって彼女の方が美しいと思えた。きっと彼女も同じ事を思っていたんだと思う。その髪は切り落とされて、片方がもういない事を主張しているけれど、それは忘れない為の大切なもの。

「お前にとってプレザは、本当に大切だったんだな」
「違うよミラ。"だった"じゃなくて今も大切なの。これから先もずっと、大好きな、大切な子」

優しくて美しく、そして愛らしい。出会った時から気高くもあった。私とアルヴィンが愛した、たった一人の大切な人。この先もずっと、ずっと。



「アルディア」
「ん…何?」
「ありがと、な」
「どうしたの?」
「言いたくなったんだよ…悪いか」

小さな呟きは大きくなって、私の胸に届いた気がした。
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