ふたりきりだから
高く、それでいて嫌味のない声は最近になってよく聞く声だった。砂糖菓子の様な甘さも含みつつ、それでいて苦さも感じさせるような、そんな声。
「感謝くらいされても良いと思うのだけど?」
頭に直接響いた声に足を止めるも、近くに人などいないし、声の主からけして人じゃない。そう分かっているけれど、反射的に振り返ってしまう。風が木々を揺らす音と、微かに感じる魔物の気配が辺りに満ちて、それ以外はなにもない。街道には、私一人きり。次の言葉が無いのでいつまでも此処にいるわけにもないと思い、首を傾げつつ足を進める。
ジルニトラの一件から、私達はバラバラに動いているけど、心配な人が多くって気が気でない。ミラがいなくなってジュードは心此処に在らず、と云うか何と云うか。が、そんな事よりもっと心配な人が一人。別れてから捜しているけれど一向に見付かる気配がしない。どうして一緒に行かなかったのか。
「あげた命、こうも簡単に無くそうとするなんて」
「…今はそんな話してる場合じゃ」
「命の恩人にそんな態度?」
ぐ、と押し黙った私の脳内に凛とした声が強く響く。少しだけ笑うような雰囲気でからかうように呼ばれた。
先程から聞こえるどこか知ったような声は、昔に聞いた声と同じなのかもしれない。確信は無いけれど、それ以外に考えられない。人間でも、精霊でもない声の主はきっとクロノスと云う存在で、初めて会った時以来会話などした事は無かった。そもそも、必要性を感じない。思考、視覚、聴覚、全ての感覚を共有しているから、誰で、何をしているなんて些細な事だった。気まぐれでも生かしてくれたと云う事実を知っていれば、それで良かったのだ。凄い存在であると云うのはミラと会った時に知った。そんな事、微塵も感じさせない態度は辛辣で、ミラに会った後の一言に、ミラとの関係性は分からなくなったけれど。あの子知らない、と訴えてきたものだから本当に知り合いなんだろうか。ミラの方はあんなにも好意的だったのに。精霊と神様事情はよく分からない、なんて他人事のように思ったが、それが気に食わなかったらしいクロノスはまるで子供みたいに唇を尖らせた口調で悪態をついた。本当に神様なのか疑問に思えた。
「そういえば、アルヴィン、だった?とにかく、彼が大変」
「え!?そんな大事な事早く言ってよ!!」
「だって訊かれなかったし」
鈴を転がした、なんて比喩が似合う笑い方をしてさぞ楽しそうだ。人と考え方や感じ方が異なるので共感するのは難しい。嗚呼、まったくもって神様の考えや趣味なんて一生掛かっても理解出来そうにないのは確かだ。
楽しげに急かす声を聞きながら、私の足は自然と早くなる。早く、早くハ・ミルに行かなきゃ。間に合わなくなってしまう。ミラを失って、帰る方法も分からなくなって、アルヴィンはどうして良いか分からなくて精神的に滅入っている。不安定な彼が何を仕出かすか分かったもんじゃない。もう間違ってほしくない。甘言に惑わされて逃げてほしくないし、後悔してほしくない。罪悪感だって何だって、負の感情を背負ってほしくないのだ。彼は沢山頑張った。だから、だから。
もしあの時、私が彼と一緒に居ることを選んだら、彼はこうなってなかったのかもしれない。全部話しておけば、殺されなければ良かったのかな。一人で決めなかったら。私の後悔は後にも先にもこれ一つ。優しくて寂しがりな彼を一人にしてしまった事。守ったつもりだったのに、独りよがりでしかなかったのかな。私の覚悟は、彼を不幸にするばかりだ。
遠くで銃声がした。ざわめく鳥達が空高く舞い上がるのが見える。高く聳える木々のしたはいつも薄暗く少しだけ肌寒い。息を切らせながら果樹園へ着いた私は、彼の背中越しに見えた、倒れ込むレイアの姿が自分自身と重なって息を呑んだ。一瞬で走った戦慄。息が出来なくなる。ひゅうひゅう、と掠れた音が漏れる唇は青くなっているだろう。思わず触れた自分の肌は酷く冷たく、全身の血液が凍ってしまったみたいだった。
間に合わなかった。また間に合わなかったのだ、私は。自分に嫌悪しているだけでも、それは後悔になるんだろうか。怯えと、後悔に苛まれる彼に私は何て言えば良いだろう。金属音がするのは、彼が震えているから。耳障りな音が静寂に包まれる果樹園を支配した。アルヴィン。怒りに染まったジュードの声が、瞳が、アルヴィンを捕える。肩を揺らした彼は、意味も無く唇を開閉するしか出来ないようだ。
ぐ、と唇を噛んだのは誰。
「レイア、レイア」
「う…アルディア…?」
「意識は有るみたいだね、良かった」
レイアには悪いけれど、銃弾が貫通していてくれて良かった。弾を取り出すことは私に出来ないから。怪我の両側に手を翳して治癒術を施していく。淡く色付いた暖かな光が控えめに広がり、患部へ降り注ぐが、やはり私程度の術では完治は不可能だ。あらかた止血を終えて一息吐きながらレイアを窺う。だいぶ顔色は良くなったが、出血が酷いので暫くは安静にしてもらわないといけない。呼吸の安定した彼女は眠ったようで、私の手を緩く握って寝息を立てている。
さて、残る問題はあと一つ。でも解決しそうだと思っても良いだろうか。離れた場所にいる二人の会話は聞こえないけれど、殴り合うのは止めたみたいだった。アルヴィンにジュードを殺す気はない。そんな勇気なんて最初っから持っていないのだから。手に絡むレイアの手を離してアルヴィンを呼ぶ。小さく反応した彼はゆっくり振り向いて、濁った色の目で無気力にこちらを見た。それだけで、何か言うわけでもなく去ろうとしる背を追うべく腰を上げる。心配そうに見上げてくるジュードの頭を撫でて、アルヴィンを追い掛けた。
何を考えているのか(もしかしたら何も考えていないかもしれないが)、足早に進む彼の隣に並んだ所で、ぐるり、と無機質な目玉が私を見下ろして、予期しないうちに手首を力任せに掴まれ捻り上げられた。爪先立ちになっても、彼と目線一つ合いやしない。
「なんでいんの?何しに来た。笑いに来たのかよ」
「貴方に会いに来たに決まってる。もう、間違ってほしくなかったから」
「…今更だろ。俺をこんなんにしたの、お前じゃないか」
骨が折れそうだ。加減なく加えられる力に骨が軋み、悲鳴を上げる。叫びたいくらいに痛いけど、絶対に言わない。私なんかより、彼の方がもっと痛いのだから。私は、彼の痛みを分かりたい。
やっと聞けた彼の本音は、私の心と言われる場所に深く突き刺さった。悲痛な顔が、絞り出したような声が、私を苛める。けれとやっぱり、彼に比べればこんなの大した事じゃないのだ。
「そう、だよね。ごめん、ごめんなさい…」
「どうして、どうしてあの時裏切った!俺を、拒絶して…っ信じてた、お前を…っ」
「ごめんね。許して、なんて言えないよね」
「なんで…なんで!!」
「私はただ、貴方とプレザに生きていて欲しかっただけなの」
「お前がいないなら…いない、ならっ」
せき止めていた涙が溢れて嗚咽が漏れる。釣られたように私の涙も溢れた。空いた方の手で彼の頬に触れて目元を擦った。指先をしとどに濡らす涙は温かい。息を呑んだアルヴィンの手が離れて、縋りつくように抱きしめられながら、私も背に手を回す。肩に額を押し付ける彼の腕の力がきつくなった。沢山の"ごめんね"と、精一杯の"大好き"を篭めて、私は彼を抱きしめる。少しでも伝わってくれたら、彼がちょっとでも気付いてくれたら、それだけで良い。
涙でぐしゃぐしゃのまま、二人でみっともなく泣いた。こうして泣くのは、初めてだった。