かなしみはどこへ
ティポが連れていかれた。
追い掛けて走り出したエリーゼに最初に気付いたのは私だった。人混みに紛れた彼女はきっと外に出てしまったんだと思う。私よりも上のスタンドにいたレイアも異変に気付いたらしく、ミラに何か叫んでいる。けど、ミラ達と合流してからでは間に合わないのは明らかだ。そう思って駆け出すまでの時間は数秒。追い掛けると云う事を知らせて、返事を待たずに闘技場を飛び出した。思っていたよりも足の早いエリーゼの服が橋の向こうに微かに見えた。半ば飛び降りるかのように船を降りて階段を駆け上がる。あの先は王の狩場だ。どうしてティポを攫った奴らがそこへ行くのか知らないけれど、今はそんな事考えている暇は無い。人の波をすり抜けて橋を渡りきった所で、強い力に腕を捕まれ引き止められた。振り向けば、息を切らしながら眉を寄せているアルヴィンの瞳が私を見下ろしている。固めた蜂蜜に朱を混ぜたような色に影が掛かった。
「待てって。一人で行こうとするな」
「そんな事言ってる暇が有ったらエリーゼを追わないと…。あそこはあの子一人じゃ危ない」
「危ないのはお前もだろうが。頼むから…俺も一緒に行く」
言うが否や走り出したアルヴィンに、振り払った筈の手を今一度掴まれ、彼に引かれる形で私も走り出す事になった。突然の事に驚きつつも、置いて行かれないように彼の後を追った。
途中で追いついたエリーゼと手を繋いで狩場の奥へと行くけれど、この先には閉鎖された研究所があるだけだった。しかも、無くなる原因を作ったのは斜め前を歩くこの男だった気がする。風の噂で聞いただけなので、本当か嘘か定かではないが。
暗く気味の悪い岩孔の、橋の上に見えた人影にいち早く反応したエリーゼが駆け出す。繋いでいた手が離れてしまったから慌てて伸ばしたけれど、手は虚しく宙を掻いた。なんで肝心な時に鈍臭いんだろう、私は。どうしてもっとしっかり握っていなかったんだろう。自責の念に若干囚われていた私の肩をアルヴィンが叩いたのに顔を上げた。
「アルディア、あっちだ」
「飛び降りた方が早い気が……アルヴィンかがんで!」
向こう側を見ている彼に微かに掛かった影と、空を切る鈍い音に気付いて彼の背を押した。言葉通りに屈んだアルヴィンの頭上を過ぎた何かを、背負っていた扇で受け止める。重い一撃は私にとってきついものがあるけれど、彼じゃあ反応に遅れただろうからこれで良い。反動で数歩後退しつつ、衝撃で痺れる腕を軽く振って扇を構え直す。弾いたそれは魔物の一部で、人が入らなくなったから住み着いたもののだろう。此処に人なんて来ないだろうから、繁殖し続けて無駄に数が多い。面倒で時間も食う、負の要素しかないじゃないか。
「私が相手するから、貴方はエリーゼを追って」
「……無茶はするなよ、頼むから」
「いっ…つー。もう、地味に痛い。頭を殴るだなんて、下手したら死んでた」
魔物との乱闘の最中、人間の気配が混じったのは気付いていたけれど、まさか魔物の相手をし終わった瞬間に後頭部を強打されるなんて思ってもみなかった。どれくらい気を失っていたのか分からない。それに加え此処はどこかも検討がつかない。少しだけくらくらする頭を振ってから周りを見回しても壁しかなかった。暗くて岩肌が剥き出しの部屋はどこと無く肌寒い気がして、肩を抱いた。幸い武器は取り上げられなかったから、ただ足止めをしたかっただけなんだろうと予想はつく。アルヴィンとエリーゼが心配だ。ティポは取り返せたんだろうか。
何やら複数の足音が聞こえたから警戒しつつ進めば、向こうも私の気配に気付いたのか足音が遅くなる。曲がり角、壁に背をくっつけ扇を構えた。いつでも振れる。見えた瞬間を狙えば、上手い具合に昏倒させられるだろう。微かな光の加減が変わったのを見逃さず、扇を振り上げれば金属同士のぶつかる音が部屋中に響いた。相手も案外やれるのか、なんて思ったが、はっきりと捉えた姿に動きを止める。額に合わされていた標準を咄嗟に逸らされて、私に撃ち込まれる筈だった弾丸は岩壁にめり込んだ。
「アルヴィン!?」
「アルディア…!」
驚いている彼に呼ばれ、完全に認知する間もなく強く手を引かれて、目の前に揺れるスカーフに顔を突っ込んだ。思わず変な声が出てしまったけれど、気にしている状況ではない。折れんばかりに抱き締められている腰と背中が悲鳴を上げかけている。あの頃から変わらない香りが鼻を掠めるどころか、身体ごとすっぽり包まれて、柄にも無く慌てた。目が白黒するのは無理も無い。
嗚呼、良かった、なんて吐息混じりに囁かれて我に返る。どうして彼は私の事を抱きしめているんだろう。どうしてそんな、安心した声で私を呼ぶのだろう。私と貴方はもう終わったんでしょ。あの時、あの日を境に、貴方は私を嫌い恨んでいるのではなかったのか。私が貴方を拒絶したから。私が、貴方を裏切ったから。
どうして。掠れた声は響きもせずに、彼のコートに呑まれて消えた。
大事を取ってシャン・ドゥに残る事を余儀なくされた私は宿で荷物番だ。ベッドに寝そべりながら溜め息を吐いた。そこまで柔な身体をしているわけじゃないのだから大丈夫なんだけれど、心配性なジュードにきつく言われてしまったから仕方ない。
彼らは今頃はカン・バルクか。私もプレザに会いたかった。が、何故か嫌な予感がひしひしとするので、行かなくて良かったのではないかと思っている。また何かやらかして帰ってくるんじゃないか。その予想は的中することになった。
「で、追われながら帰ってきたの?」
「うむ。少々困ったことになった」
「少々、って言える貴女は凄いわ、ミラ」
顎に手を当て、考える仕種の彼女は全くもって困っているようには見えないけれど、本人がそう言っているんだからきっとそうなんだろう。精霊の主様の考えは凡人には分かり得ない事なのだ。
腰に張り付いて離れないエリーゼを撫でながら私は苦笑する。先程から私の胸元に顔を押し付けるエリーゼは、カン・バルク行く前より明るくはなっているが、向こうで何か有ったんだろうか。何も言わずに引っ付いてくるのは珍しい事だ。
まぁ、だいたい何が有ったのか検討はつく。大方、アルヴィンが何かやらかしたんだろう。エリーゼが彼の事で機嫌を損ねるのは一度や二度ではない。それに、ガイアス王から仕事を貰っていたと云う事をプレザから聞いたから、もしかしたらそれ関係だろうか。彼の仕事だから口出しはしないけど、あまりやりすぎると後々に後悔するやもしれない事を教えておいた方が良いかもしれない。どうせ聞かないだろうけど。
「アルヴィンは嘘つきだって…アルディアは知っていましたか?」
「それは、まあ。でもね、誰にだって事情が有ることを、少しで良いから知っててくれる?」
「え…と、アルディア?」
「貴女にはまだ難しかったね、ごめんなさい」
悲しげな表情のエリーゼを優しく抱きしめて頭を撫でる。子供相手に何言ってるんだろうか。分かるはずないのに。
嘘をつかれたのはエリーゼにとって辛い事だ。信じていたから、アルヴィンを頼りにしていたから。不審や怒りの感情が渦巻いているであろう彼女の背を、ゆっくり撫でた。