さよならのあとに
アパルトマンのエントランスに備え付けられたソファに身を沈めて深く息を吐いた。夜も更け、この場に聞こえるのは私の息遣いだけであり、静寂に包まれた空間は少し寒い。雪でも降るのだろうか、先ほどすれ違ったエリーゼに暖かくして寝なさいと言えなかったのが僅かな心残り。きっとローエンあたりが見ていてくれるだろうけれど。唇から漏れた息は白く薄らと広がって霧散した。
一人で旅をしていただけなのに、いつの間にか世界を救う嵌めになるなんて思いもよらず、ましてやそんな事が私の身に起きるなんて不思議なことは二度と無いと思っていた。勿論、一回目の不思議現象はクロノスが私を助けた事だ。肩を竦めて、窮屈に身体を縮めて隠れるばかりだった私の周りが急に開けたような感覚。ジランドに見付からないよう逃げ回るだけの生活が一転したのだ。思いがけない再開も果たし、退屈の無い素敵な日々だった。大変な事も多々あったが、そうであっても満ち足りた時間だったと言えよう。朝露が零れ、地面に染み込むようにしっとりと、舞った木葉が降り積もり重なり合うようにしっかりと、私の中で確立された時間。大勢でいることの楽しみを知った。クロノスも、初めてのこの感覚を甚く気に入ったようで嬉しかった。
アルヴィンとも、和解とまではいかないが、ある程度お互いの心の内を吐き出す事も出来たのだ。これから、昔のように笑い合う事は出来るようになるんだろうか。プレザはもういないけれど、二人で笑いながら思い出を語れる日が来れば良いのに。胸に秘めた沢山の想いを、二人が全部話してしまえる時が来る事を願って、私は進みたい。
ぐったりと力を抜いて意味もなく前を見詰める私の横顔に影が掛かる。冷えた風を連れ帰ってきた彼はそのまま黙って後ろに回り、ソファの背凭れに浅く腰を据えた。少しだけ触れた背中は二人の距離。二人分の静かな息遣いが、静寂が支配するエントランスでは少しだけ大きく聞こえる。そっと目を閉じて、また息を吐いた。
「悪かったな」
「貴方はいつもそれから始まるね」
「あいつ、助けらんなかっただろ」
「それは、私も同じだよ」
二人で居るとどうしてもプレザが話に上がる。それは仕方の無いことで、私と彼を繋いでいたのは彼女だったのだ。その彼女が居ないこれから、私達は会う事は無くなるんだろうか。当たり前だ、愛しい彼女はもういない。
深く深く吐いた息の意味を探ろうとしたのか、触れていたままの背中が小さく揺れた。ほんの少し顔をこちらに向けた気配がする。
「聞いて良いか、あの時のこと」
「どうして?」
「誤解したまんまは…嫌だろ」
「そっか、うん」
こうも早く話す機会がくるなんて思ってもいなかった。心の準備が出来ていない訳でもないけれど、やはりまだ抵抗は有るし、一歩踏み出せない。そんな心情を感じ取ったのか、そっと寄せられた体温。やんわりと掛かる重みに頭を預けた。
「どこから、話す?」
「ジランドと何があったんだよ」
「…貴方達の命と引き換えに彼の命令を聞いていただけ」
「まじかよ…知らなかった」
「そんなの、当たり前」
だって、バレてしまっては意味が無い。私が何の為に隠していたと思っているのか、彼等に知られない為だ。知られてしまえば二人は激怒するだろうことは容易に想像出来る。そうすれば、警戒しだし二人にジランドは気付くから、直ちに手を下すだろうて、それだけは絶対に回避しなければならなかった。何の為に命令を聞いていたか分からなくなってしまう。
今思えば、酷く自分勝手で独りよがりな事だっただろう。それでも、あの時の私にはそれしかなかった。どんな事があっても二人だけは失いたくなかったのだ。二人から向けられる優しく無邪気な笑顔が何よりの宝物だった。
思い出して嘲笑すれば、やめろとでも言うのか、更に身体を寄せられる。こうやってこんなに密着するのはいつぶりだろう。
「じゃあ、あのあと…俺と別れた後はどうしたんだよ」
「あれから、直ぐにジランドが来て…」
心臓が一度強く脈打つ。思い出したんだろうか、身体を貫いたあの感覚を。痛みなんて、もう忘れた筈だ。
あの時、ジランドは私が二人と共に居すぎて色々と露見してしまうと踏み、別れないと二人を殺すと言った。まだまだ使える駒であるアルヴィンが、私が関わると自分の意思に背むくかもしれないと判断したのだと思う。それだけ私とアルヴィンの仲は近いものとなっていた。仲介役でも有り情報収集が得意のプレザは口封じに消すつもりだったのだろう。
二人に会わないのであれば殺しはしないが、会おうとすれば命は無い。
酷く狡い選択肢だと思った。あの二人にジランドへ抵抗する力は無いに等しかったから、迷う事なんて無い。肯定する事を、ジランドは知っていたんだ。彼はそう云う男だから。
『なんでだよ、アルディア』
『私達はそういう人間だよ。仕事であれば何だってする。忘れて…ないでしょ?』
『それでも俺は…』
『私は違う。最初から仕事だった』
『だったら、プレザの事もそうかよ…なぁ!!』
『…解釈は自由で。まぁ、例外は無いのだけれど。嘘は常套手段、欺くためなら何だってする』
『…はは。最低だな、お前』
『なんとでも。じゃあ、これでさよならね。楽しかったよ、アルフレド…ううん、アルヴィン』
改めて思い出したけれど、やっぱり彼が今の性格を形成した原因は私に有る。私の言葉を鵜呑みにして、馬鹿正直に真似た結果だ。哀れなアルヴィン、それよりも最低な私。もっと彼の事を考えて、言葉を選んで発言すれば良かったのに。けれど、あの場にいたジランドがそうはさせなかった。少しでも変な発言をしたならば、彼は私の目の前でアルヴィンを撃ち殺していただろう。その上、別れた後に連絡なり何なりと秘密裏に取れればこうはなっていなかったのに、アルヴィンが去った後に現れたジランドが御丁寧に私と云う証拠を隠滅するべく引き金を引いてしまった。予想していなかった私はそのまま撃ち殺されてしまったと云うことだ。最初から私を消すつもりでいたんだろう。大事な話を聞かれた口封じに。もっとも、大事な話が何だったのか私には全くもって見当がつかないのだが。
撃たれた私をたまたま見ていたクロノスが気まぐれで助けて、目が覚めたのは一節ほど経っての事で、弁解は無理だと悟った。あまりにも時間が経ちすぎているし、最後に見たアルヴィンの絶望っぷりから、聞く耳は持ってくれないと判断したから。案の定、たまたま会った彼は嫌なものを見る目で私を睨み、悪態をついてさっさと去ってしまったのだと記憶している。私も何も言わずに立ち去って、それから、小さく泣いたっけ。嗚呼、懐かしい。
「ごめんね、アルヴィン。謝って赦して貰えるとは思ってないけど、これだけは言いたい」
「そ…れは…俺の方だろ。お前はいつだって俺らの事を一番に考えてたってのにな。気付かなくて、何も分かってやれないで、勝手に拒絶したのは俺だ」
「ううん。言わなかった私が悪いんだよ」
「言えなかったんだろ。あいつに脅されて」
「それでも、ごめんね」
何で謝るんだよ。喉の奥から辛うじて絞り出したみたいな悲痛な声でアルヴィンが呟く。身体を後ろに向けて、彼の背に額をくっつける。小さく擦り寄って、うん、と声を出せば、ソファの背を強く握っていた彼が振り返って抱きしめてきた。痛いくらい強い抱擁なのに、優しくて涙が出そうになる。規則的に聞こえる心音に安心する。彼は此処で生きている。その揺るがない事実が、私の取った選択が間違っていない事を示してくれた。
ごめんね、ありがとう愛しい人