ー深い、深い夜。
時刻は人間界でいう半宵あたりであろうか。今宵は満月がとても美しく、荒廃しながらもどこか妖しい魔王城を煌々と照らしていた。

魔王は豪華絢爛という言葉が相応しい玉座に深く腰掛けていた。
その整った顔の眉間には皺が寄っている。
側近は困ったような表情のまま、
「魔王様、心中穏やかでは無いのは重々承知ですが、一杯お飲みになる度にワイングラスを割るのはやめてください」
と言う。

魔王が不機嫌そうに顔を上げた。
「我は今この破片に身を投げても構わん位だ。いや、其の程度痒くもない。側近、勇者を此処へ連れて来い」

「そう言うと思って、もう連れて来てますよ…」

壮大な扉の陰から勇者が遠慮がちに顔を出す。彼だけ、この空間に似つかわしくない、あかるい世界の整った顔立ちだった。
その顔は今でも十分見目良いが、口の端がよく見ると切れていたり、所々痣が残されていたりして、痛々しかった。

側近は黙って勇者の背中をぽんと押し、自分はそそくさと退室してしまった。…あとは任せた、ってこと。
勇者と魔王の間には数十メートルの距離があって、さらに真っ暗な広間の中では少し気まずい空気が流れる。

「…勇者よ、まぁ座らぬか」

「いや…俺の椅子無いんだけど」

「此処にだよ」

そう言って魔王は自分の膝をポンポンを叩く。…そこに座れと言いたいのか。
馬鹿か、と言って勇者は、取り敢えず魔王と話すに困らない程度の距離へと近づく。

「え、ちょ、…わっ!?」

すると、突然立ち上がった魔王に抱きとめられてしまう。
警戒した勇者は、咄嗟に腰にさしていた剣に手をやった。
だって相手は魔王で、自分は勇者。それ以上に理由なんか必要ない。

「案ずるな。我が勇者にひどいことをするわけがなかろう」
魔王が勇者の頭を撫でた。ムカツク。

「そんなの分からないに決まってる。まだ会って、一日しか経ってないし」
勇者がそう言うと魔王は何故か自嘲気味に笑ったように見えた。

「………すまなかった」

「…は?」

魔王の口から出た言葉が、全く理解出来ない。勇者は抱きとめられたまま、魔王を見上げる。

「まさかあれが来るとは思っていなかった…」

…あれ。その一言で、魔王が何を謝っているのかが勇者にはようやく理解できた。

「いや、べ、別に…魔王が悪いワケじゃない、だろ…油断した俺が悪い」

勇者の言っていることは別に間違っていないのだが、どうも口にすると魔王をかばっているようでなんだかむず痒い気持ちになった。
魔王は暫し何か思っているようだったが、急に勇者の服を捲り出した。

「は!? ちょ、やめろって、何して」

「…酷い腫れだ」

魔王があまりに悲しそうな顔をしてそうつぶやくので、勇者は何だか困ってしまった。
今までずっと倒すべき宿敵としか見ていなかった対象が、自分を労っているのだから、無理もない。
何これ、何この俺が何かおかしいみたいな感じ。

「…僧侶と魔法使いが、回復魔法をかけてくれたからもう痛みはないし、内臓も大丈夫。…外見の治りは少し遅れるけど」

そうか、と言い魔王は勇者の引き締まった傷だらけの腹部を見る。
そして徐ろにその腹すじにくちづけを落とした。
勇者は擽ったくて少し声を漏らす。

「…勇者、キスの位置で意味が異なるのは知っているか?」

「知ってる。腹部は…回帰。…何、どっか帰りたいの。実家でも帰る?」

「…ほぉ。流石教会の出だけはあるな」

「……ちょっと、何でそんなこと知ってる?」

勇者は魔王に尋ねる。
本名と言い、魔王は勇者のことを知り過ぎている気がしてならない。たまに感じる妙な違和感と言い、勇者はすこし戸惑う。
…それに、勇者にとって「教会にいた日々」はあまり思い出したくはないものだった。

「我がもしお前の立場だったら、人間を救いたいなどこれっぽっちも思わんがね」

ふぅと溜息をついて、勇者の口端の傷を拭う。
魔王が勇者の立場だったらなんて、想像もつかない。もし立場が逆でもこうやって、こいつは俺に情けをかけていたんだろうか。

なんだか黙ってしまった勇者を見兼ねたように、魔王は続けてしゃべりだした。
「側近も言っておったな、お前は生きにくそうな顔をしていると。…神の教えなど欲しがる奴の方がよっぽど強欲で、汚らわしいと思うがね」

「…俺はその強欲で汚い場所で生き育って来たんだよ」
勇者は小さい声で吐き捨てる。
「いや、すまんな。思い出させるつもりはなかったのだ。…すいぶんと”手荒に”扱われていたらしいからな」

勇者は表情こそ変えないものの、暗闇では見えにくいが、その白い顔はそれを通り越して青ざめていた。

『美しい』
過去なんか見たくない。思い出したくない。

『お前は神に生かされている身だよ』
自分の幼少期があったことなど認めたくもない。

『ならその身を捧げるのは当然のことだろう』
だからこれまで前だけを見て、仲間と歩んできた。

「好きだ」

厭な声を、突然遮ったのは魔王だった。それが懇願するかのような声色で突然勇者に告げた。
勇者は顔を逸し、暗闇のせいでその表情は分からない。

「お前の髪の毛も、指も、骨も、そして何よりその魂は、綺麗だ」

…しっ、し、
「……しるかよ…」
ほんと、と言い勇者はつぶやく。…一瞬だけ、声が出なくて焦った。

「俺には全く理解できないね」

魔物に求愛される人間なんて、前代未聞だ。
ましてや二人は、勇者と魔王。
殺しあうことを運命付けられた、対極の存在。二人にとってそれは義務とも言えた。
和平の申し出の時点で赦される保証もないのに、そんな二人が恋仲に堕ちるなど、誰が赦すものか。
そこで勇者は少し違和感を感じた。
…俺は、だれに赦してもらいたいのか?

数秒考えこんでしまったが、バカバカしくなったのか
「寝る」
と言って、勇者は魔王に背中を向けた。

「え、部屋にお泊りのイベントは…」

「あるわけねーだろ」

「折角ちょっといい感じだったのに!?」

先ほどまでとは別人のような魔王が後ろでぎゃーぎゃーと喚いているが、勇者は無視して部屋を出る。

本当に、意味が分からないことだらけだ。
けれども勇者にとって一番意味が分からないのは、魔王を振り切らなかった自分だった。
…俺、流されやすいのかなぁ…。

はぁ…と疲労のため息をつきながら自分達に用意された部屋へと戻るべく、長い長い廊下を歩く。
ふと、廊下にある立派な大鏡に自分の姿が映った。

「……ん?」

何を思うこともなく通りすぎようとしたが、勇者は鏡に映った自分をまじまじと見つめた。
口の端。
先程まで血が滲んでいたそれが、綺麗に元通りになっている。

「まさか…」

勇者は少し自分の服を魔王にされたように捲り、腹を見る。
…あれほど酷かった腫れや裂傷が、嘘みたいに元通りになっていた。

…世話焼かれた?

「もう、何なんだよマジで!」

此処に来てからというもの、自分はどうにも情けない。
変な奴に不意を打たれたり、変な魔王に好かれたり。…後者はどう考えても勇者のせいではないのだけど。

…こんなことしている場合じゃないのに。
俺は、勇者と言われて生きてきて。
だから、一刻も早く平和な世を作り、人々を救わなければならないのに。

「…早く、和平ならその条件とか、決めなきゃ…」

もっともっと、身を粉にしても、頑張らなくてはならない。
…だって俺は、救世主なのだから。
救世主は、淡々としていなければならない。
この境目の無い世界で、前だけを見つめながら。









吐き気と随想録











身を粉にする系勇者





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