三人だけの家族の間にひびが入っていたことに気がついたのは、名前が小三のときだった。ある日、仕事を終えて帰って来た母をいつものように玄関まで出迎えた名前に、彼女は言ったのだ。
「お父さん、週末にここ出ていくから」と。
 それでもそのときはまだ、名前も〈きっとすぐ元通りになるだろう〉と思っていた。二人が子どもみたいに些細なことで喧嘩してはいつのまにか仲直りしているのを、何度も見ていたからかもしれない。果たして名前の予感は当たった。別居してから一年後、父が帰ってきたのだ。
 けれど名前の知らないところでひびは止まることなく進んでいて、また一年後、今度は母が薄っぺらい紙を持って家を出ていくことになった。「前はお父さんに出てってもらったから、次はお母さんの番なの」と唇をゆるめていた母の顔を、名前は今でもくっきりと思い浮かべることができる。
 だってあの瞬間、名前の胸の真ん中はぱちんと弾けてしまった――

「…最悪」
 体中にじっとりとくっついてくるような息苦しさで名前は目を覚ました。まだ夜明け前だ。おでこの汗をぐいと拭い、クーラーのスイッチを押す。ごおっと音を立てて流れてきた風に当たりながら、名前はなんとはなしに真っ暗な部屋を見渡した。
 母が出て行ってしまった日、もう家族がひとつになることがなくなってしまったのが悲しくてただずっと泣いていた。そんなことはないと頭では分かっているのに、それでももしかしたら二人の離婚は自分がなにか悪かったせいじゃないかと思ったら止まらなかった。そのうち泣き疲れて眠ってしまった名前が目を覚ますとすっかり日が暮れていて、明かりのついていない部屋はまるで黒い絵の具で塗りつぶされたように見えた。あのときから名前は、暗い部屋にいると不安でたまらない。ぽっかりと大きなうろに一人きりで放り出されて、右も左も分からないのに出口を探して歩いている――そんな気持ちになる。
 名前はきつく目をつぶって抱えた膝に頭を押しつけながら、空から夜が抜けていくのをただじっと待った。


 混みあった電車の中で名前はため息をついた。頭が重い。喉の真ん中がなにかでこすられたみたいにひりひりする。あのあとクーラーの下でそのまま寝たからに違いない。やっぱり学校に来るんじゃなかった、とこめかみのあたりをそっと押さえたとき、電車ががたんと大きく揺れた。思わずバランスを崩してよろけた名前の二の腕を誰かがぐっと引っ張る。掴まれたそこからゆっくりと視線を上へ移動すると、前からずっと変わらない冷たそうな黒縁眼鏡が目についた。
「名前、大丈夫か?」
「…貞治…」
 口の中で「ごめん」とつぶやいた名前に、貞治はなにも言わなかった。腕も掴んだままだ。いぶかしんだ名前がもう一度名前を呼ぼうと顔を上げると、眼鏡の奥の少し怒ったような瞳と目があった。
「…貞治?」
「ちょっとごめん」
 そう言うと貞治は腕を掴んでいた手で名前の額を覆い、すぐに「やっぱり」と眉をひそめた。「熱がある」
「ああ…そう」
「気づいてたのか?」
「…なんとなく」
「ならどうして学校に来たんだ」
 名前は答えようと開きかけた口をまた閉じた。隠しているわけではないけれど、説明しようと思えば長くなってしまう。それに、たくさんの人が乗っている電車の中でするような話でもない。唇を引き結んだ名前からなにかしら察したのか、貞治はあきらめたようにため息をついて、今度は名前の手首を掴んだ。
「もう駅着いたし、とりあえず保健室行こう。歩けるか?」
 小さく頷いた名前は人ごみを器用に避ける貞治に手を引かれながら、ぷしゅうと気の抜ける音を立てて開いたドアから降りた。ホームの脇からふりそそぐ朝陽と、目の前を歩く彼のワイシャツの白が混ざってまぶしい。じっと見つめていると目の奥がちかちかしそうだけれど、決して嫌いな色じゃない。名前はその輝きを胸の深いところに染み渡らせるように、微かに瞼を伏せた。


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