きんきんと耳につく声の担任に呼ばれて、名前は教室の扉に手をかけた。
 緊張はしていない。不安もない。期待なんて、しようとも思わない。
 だって名前は、自分でいやと言いたくなるほどからっぽなのだ。
「名字さん、自己紹介してくれる?」
「…名字名前です。よろしくお願いします」
 わっと一気に騒がしくなる教室は、名前の目にはまるで雨が降っているかのようにけぶって見えた。


「――名字さん」
 前の学校よりもいくぶん気の抜けたチャイムで授業が終わると、この年頃にしてはやや低い声が名前を呼んだ。黒縁の眼鏡のせいかどことなく冷たそうに見える、隣の席の男の子だ。
「なに?」
 感情のない名前の態度や声を特に気にしたふうもなく、彼は中指で小さく眼鏡を押し上げる。
「次の時間は今までの授業で配られたプリント使うんだけど、もうもらった?」
「ううん、まだ」
「そう。見る?」
「ありがとう」
 小さくつぶやいてがたがたと机をくっつけた名前がまた席につくと、こちらを見ていたらしい彼とふと目が合った。頭を傾げた名前に、彼は少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「ああ、ごめん。名字さんってどこから来たのかな、と思って」
「神奈川のほう」
「…ふうん」
 それきり彼はなにか考え込むように黙りこくってしまったから、名前も何も言わずにランドセルから新しい教科書を取り出した。つるりとした表面は撫でると指先がひんやり冷たいけれど、すぐに熱を湛えてしまう。そのまま痛いほど冷たくなればいいのにと、名前はぼんやり考えた。暑いと感じるような季節は、とうに過ぎているけれども。
 やがて始業のチャイムに合わせてゆるゆると立ち上がった名前は、まるでなにかを懐かしむように、ほんの少しだけ目を細めた。


「ちょっといい?」
 給食を食べ終えた名前がクラスメイトの誘いを適当に断って文庫本を開いていると、また隣の席の彼に声を掛けられた。うつむけていた顔を上げた名前は小さく息をつく。「…今度はなに?」
「先生にさ、昼休み中に名字さんに校内を案内してほしいって言われてるんだけど」
 俺一応学級委員だから、と話す彼への返事の代わりに本を閉じると、彼はちょっと口許をゆるませて笑った。なんとなくあんまり笑わなさそうだと思い込んでいた名前が小さく目を見開くのに、彼は今度はどこか面白そうに笑う。
「そうだ。今更だけど――俺は乾。乾貞治。よろしく、名字さん」
「…よろしく」
 握手のためにすっと差し出された右手は、ところどころにマメがある、思っていたよりもずっとあたたかい手だった。


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