たとえば今、私の心が殻のようなもので覆われているとしたら、それはきっと淡くやわらかなピンクに染まっているのだろう。ふと思って、それから、すっきりと晴れた空を仰いだ。息を吸うたび入ってくる空気は冷たいのに程良くからりと澄んでいるものだから、つい足取りも軽くなってしまう。
 相変わらずこっくりとした、けれどここ最近に比べて心なしか明るく見えるマホガニーの扉をぐっと押し開けた。この独特な本の匂いを感じた瞬間の数は、とうに両手を越している。
「こんにちは、名前ちゃん」
「こんにちは。…もう具合は大丈夫ですか?」
「ええ、すっかり。この間はありがとうね、すごく助かっちゃった」
「いえ…そんな」
「あ、そうそう、今日は名前ちゃんにって預かってるものがあるの」
「…え?」
 ちょっと待っててね、なんて笑う司書さんの言葉に、喉と心臓がいっぺんにきゅうっと縮こまった。
 だって、ここの図書館で私を知っている人は、司書さんと彼しかいないのだ。
 緊張で外にいた時よりも冷たくなった指先を、抱えるように握りしめる。そうしているうちに差し出されたものは、透明な瓶に入った、砂糖で出来た星屑たちだった。
「これ…金平糖、ですか?」
「うん、柳君からこの間のお礼に、ですって。次に会えるのがいつになるか分からないから…とも言ってたわ」
「そうなんですか…ありがとうございます」
「大丈夫よ。それじゃあ、ゆっくりしていってね」
「はい」
 何がどうしてこうなったのかをうるさく聞いてこないところはクラスの子たちと違って大人だなあ、と思う。まだ彼と会ったのは片手で足りてしまうほどなのだから、どっちにしろ答えられっこないのだけれど。
 小さく頭を下げて、もうすっかり定位置になっている場所へと向かう。隅っこの、ステンドグラスのすぐ隣。
 眩しいくらいのその席に座ってから、受け取ってすぐポケットにしまっていたそれをそうっと取りだした。掌に収まるほどの瓶の中にあるものは多分本当に何の変哲もない金平糖なのに、今にもきらきらと光り出しそうに見える。まるで、今はもう忘れてしまった、小さいころだけの宝物みたいに。
 周りを一つ見渡して、どきどきうるさい胸のために深呼吸をひとつ。そうして、いけないことだとわかっていたけど、静かにその蓋を開けた。掌に転がしたミルキーホワイトやミモザのかけらに混じって、たまたま一つだけ出てきたシェルピンクの粒をそっと摘まんで口に入れる。それは、びっくりするほど甘かった。


「名前ちゃん、そろそろ閉館時間が近いけど…大丈夫?」
「…えっ?あ!」
 遠くから聞こえたような司書さんの声に、慌てて真後ろの壁、綺麗な装飾が入った大きな時計を見上げる。細く尖った二本の針は七時五十分を指していた。いけない、怒られる。
 相変わらずのここの空気のおかげか、それとも口の中で溶けていったかけらのおかげか。なんとなく選んだ本はとても面白くて、すっかり時間を忘れていた。
 急いで本を元の場所に戻して、ばたばたと鞄を肩に掛ける。また来てね、と笑う声に頷いて、片腕では少し重いドアを開けた。ぴゅううと体じゅうにぶつかる風は、あたたかい部屋に慣れてしまったせいで痛いくらいに冷たい。はあ、と吐きだした息はうっすらと白かった。
「さむ…」
「…名字、か?」
「え?」
 外に出るなり耳にすんなり入ってきた、落ち着いた声。それをそろそろと辿った先にいたのは――
「…柳くん…どうしたの、こんな時間に。図書館もう閉まっちゃうよ」
「いや、俺は部活に顔を出した帰りだから、特にここに用事があったわけでは無い。…名字こそいつもはこんな遅くまでいないだろう」
「うんまあ…、あっ!柳くん、金平糖受け取ったよ。ありがとう」
 ごそごそとブレザーのポケットから瓶を取り出すと、柳くんはほんの少し唇をゆるめた。でもすぐに、駅まで送るとだけ言ってすっと歩き出してしまう。びっくりしてぽかんと固まった私を二、三歩先から振り返った柳くんは、今までに見たことの無いような顔で小さく溜息をついた。心臓が、すうっと冷えてゆく音が聞こえる。
「名字」
「…なに?」
「今日のような寒い日にこんな時間まで出歩いていては風邪を引きかねない。何よりも危ないだろう。…俺が言うべきことではないかもしれないが」
 一気にそう言った柳くんはまた溜息をついて、今度は少し困ったように笑った。また、今までに見たことの無い顔。なのに、私の心臓は、熱いんだとでも言うようにどんどん騒ぎだす。
 それって、つまり。
「あの、柳くん」
「…どうした?」
「えっと、今日はたまたま本を読んでいたら時間を忘れちゃってて…でも、これから気をつけるね。…ありがとう」
 ごめんなさい、と付け加えると、謝らなくていいと言っているだろう、と柳くんはやっといつもみたいなやわらかい笑顔を見せてくれた。ほっとさっきよりもさらに白い息を吐き出して、走りがちに柳くんの横に並んだ。
 何か話したいと思うのに、隙間を埋める言葉を上手く探せないまま見るともなしに空を見上げる。吸い寄せられるように目がいってしまうのは、ぽつんと浮かんでいる星ばかりだ。そういえば掌に持ちっぱなしだった瓶の中身がこつんと音を立てて、はっとこれをもらうことになったときのことを思い出した。
「…柳くん、ケーキどうだった?味見したときはけっこうおいしく出来たと思ったんだけど…」
「ああ、美味しく頂いた。ありがとう。…今日会うと分かっていたなら直接手渡していたのだが…済まないな」
「金平糖のこと?とっても嬉しかったから、大丈夫だよ」
「そうか、なら良かった」
 ――私の心臓は、どうしてしまったんだろう。
 柳くんが笑うとつられてふわふわと浮き立って、冷たい顔をされるとつぶれたみたいに苦しくなる。こんなの、まるで私じゃなくて柳くんに繋がっているみたいだ。ただでさえ、心を覆う殻は柳くんに染められているというのに。
 駅まで歩く道の途中に聞こえたこつん、こつんと響く音は、星屑が転がる音とも、私を覆う殻を破ってしまう音ともつかなかった。


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