読み終わった本を静かに閉じた瞬間耳に飛び込んできたのは、いつの間にか大粒の雨が柔らかい色合いの窓を叩いている音だった。この図書館で読む本は家で読むよりも不思議と面白く感じられるものだから、ついつい読みふけっていたらしい。
 凝った体をぐうっと伸ばしながら、見るともなしに窓の外を眺める。
 梅雨のときの雨はじめじめとして好きになれないけれど、一雨ごとに秋の足音が聞こえてきそうなこの時期の雨は好きだ。息が詰まるような夏の終わりを感じてほっとする。
「あら名前ちゃん、いらっしゃい」
「あ、こんにちは…って、なんだか顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
「うーん、大丈夫って言えたらいいんだけど…少し体がだるいみたい」
 季節の変わり目だしね、そう言うと、両手いっぱいの本を抱えていた司書さんは、困ったような、疲れたような表情でほろりと笑った。
 最初にここに来たのはまだ夜でも蝉が鳴いているような頃で、多分そのときの私は室内を照らすステンドグラス越しの陽射しの夏らしからぬ優しさにただ惹かれただけだった。けれど二度三度と足を運ぶうち、大勢の本達が音を吸い込んでとても静かなのにゆるゆると目じりを下げてしまうようなあたたかい雰囲気も、それを作るピースのひとつである司書さんも、当たり前のように大好きになった。そう、だから。
「…あの、何か手伝えることありませんか?」
「え?」
「えっと、学校でも図書委員やっていますし…」
 あんまり難しいことは出来ないと思いますけど、と口の中で呟きながら、じわじわと頬が熱を持っていくのが分かった。いくら体調を崩しているからって、急にこんなこと言ったら困らせてしまうに決まってるのに。
 いたたまれなくなって俯きかけた私に、けれど司書さんはいつかみたいに綺麗に目を細めて笑った。
「本当はあんまりよくないんだけど、少しだけお願いしようかしら」


 そうして私は、返却された本の返納作業を手伝うことになった。司書さんとお揃いの黒いエプロンを制服の上から付けて、ときどき脚立の上に乗りながら、本棚の隙間をまるでジグソーパズルのようにひとつひとつ埋めてゆく。元いた場所に本を戻すたび、その一冊の本とそこにいた本たちとがただいま、おかえり、なんて挨拶を交わしているような気がしてつい楽しくなってしまう。
 そんな私の弾む気持ちとは関係なくざあざあと降り続いている雨に、これじゃあもしかしたら今日は私以外の誰も来ないかも、と思いながら次の本を手に取った、そのとき。
「――済まないが」
「…えっ」
 すぐ近くから聞こえた声に慌てて振り返った。急なことで身体がぐらりと揺れたのは、はっしと本棚を掴むことで堪える。そこにいたのは、すらりとした男の人だった。
 あまり日に焼けていない白い肌に真っ直ぐな黒髪、それからほとんど閉じているような細い瞳が印象的だ。脚立に二段乗った私と目線が同じくらい、ということは、さぞかし背の高い人なのだろう――。
「…その手に持っている本を借りたいのだが」
「え、あっ、はい」
 学校にはいないような雰囲気のひとだなあ、とついじっと見てしまったことに声を掛けられてから気付いて、私はもう今すぐ逃げ出したい気持ちになった。でももちろんそういうわけにはいかず、脚立から降りて本を差し出す。気分を悪くしていないだろうかと恐る恐るその人の顔を覗き込もうとして、あ、と思った。
「ひょっとして、立海の方…ですか?」
 あとになってこの声の掛け方はどうだろう、と頭を抱えたくなったのだけれど、このとき私はいっぱいいっぱいで、どうしてか何かを言わなければいけないような気持ちになっていた。
「ああ、そうだ。…そういうその制服はT中のものだろう」
「そうですけど…よくご存じですね」
「練習試合をしたことがあるからな」
 ふ、と唇をゆるめた表情は嫌味無くやわらかくて、どうやら怒ってはいないらしいことが分かる。ほっと小さく息を吐き出すと、それにしても男の人らしくなく綺麗なそのひとにどうして中学生の私が司書の仕事をしているのか、といったことを聞かれて、大人にいたずらが見つかったときみたいに胸がどきりと震えた。本当はあんまりよくないんだけど、そんな声が頭に残っていたからだろう。
「えっと、司書さんがあんまり具合良くないらしくて…何か出来ることは無いかな、って思って」
「成る程。…ああ、申し遅れたが、俺は立海大附属中3年の柳蓮二だ」
「私は名字名前です…って、同い年…?」
「やはりそうだったか」
 司書さんのことについて何も言われなかったことは安心したけれど、それ以上にこの目の前のひとと私が同い年、というのは驚きを通り越して衝撃的で、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。だって、そこまで他校の制服に詳しいわけでもない私は、立海は立海でも高等部のほうだろうなあ、なんて思い込んでいたのだから。
 よっぽど私が変な顔をしていたのか、そのひとはまた声を出さずに小さく笑う。はっと慌てて我に返って、ぺこりと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。大人びているからてっきり高校生かと…」
「謝らなくてもいい、よく言われるんだ…と、悪いがもう行かなくては」
「あ、引きとめてしまいましたね。すみません」
「謝るなと言っただろう。ではまたな、名字」
 最後にもう一度ゆるりと笑うと、そのひとは司書さんのいるカウンターへと歩いて行った。
 ぱっと顔を見たときは失礼にもちょっと神経質そう、くらいのことしか思わなかったけれど、笑った顔はターコイズグリーンそのもののようにさらりと涼しくてやわらかい。なんだか奥行きがありそうで、不思議なひとだ。
 柳くん。その名前を、飴を転がすようにそっと口の中で呟いた。


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