柳くんが教えてくれた、小さな白い花はいつの間にか消えていた。まるで雪が溶けたみたいに、ひっそりと。なんだか寂しいね、なんて喉の下に悲しさを隠して笑い交じりにつぶやいた私に、柳くんはほんの瞬間目を見開いてから、来年は本物の金木犀を見よう、と今までで一番やわらかく笑った。
 思い出しては体の中にふつふつと積もってゆくものをほう、と吐き出して、コートの下の腕時計に目を遣る。待ち合わせまで、あと十分。そわそわと飛び出してしまいそうな心臓に手を当てたそのとき、ふと正面の植え込みに咲く、沈みがちな冬の景色をうるさくなく彩る濃い紅色が目に付いた。手袋を忘れた指先で撫でた花びらは、気のせいかほんのりとあたたかい。
「…きれい」
「名前?どうかしたのか?」
「あ、柳くん!」
「済まない、待たせたな。…椿か」
「うん」
 こうやって花ひとつを取っても、もうすっかり柳くんというひとに触れた秋が過ぎてしまったのだと分かる。惜しむ気持ちもあるけれど、でも、柳くんが隣にいてくれるからこそそんな風に思うことが出来るのだ。
 最後にもうひとつだけ花びらを撫でて、行こうか、と笑って顔を上げると、柳くんは少し難しそうな表情で顎の下に手を当てていた。
「…どうかした?」
「いや…名前、手袋はどうした?」
「え?ああ、忘れちゃって」
 柳くんはそうか、と頷いて、そっと私の掌を掬い上げた。これなら寒くないだろうと小さく唇をゆるめたその顔がどこか楽しげだったせいで、私の口元もつられてほころんだ。冷たいばかりの指や掌がじわじわとあたたまってゆくのを感じながら柳くんの横顔を見ると、当たり前のように目が合う。
 ――今はたったこれだけで頬を熱くしていても、いつか顔なんて珍しくもなんともない、と笑う日が来るのだろうか。
 それはとても贅沢なことだけれど、同じくらい何か大事なものを無くしてしまうことのようにも思えて、少し寂しい。
「…名前?」
「え?あ、ごめん…ちょっとぼうっとしてた」
「謝らなくていい。…何か悩み事でもあるのか?」
「うーん、そういうわけじゃ、無いんだけど…」
「そうか。ならいいが、何かあったら言ってくれ」
「…ありがとう、柳くん」
 礼を言われることはしていないと笑った顔があんまり優しくて、心臓、それから鼻の奥がつんと痛む。いとしいって、こういうことを言うのかもしれない。歩きながら一瞬だけ目を伏せると、それを見計らったように繋がった手に力が籠った。
「…名前、今度の夏のことだが」
「うん?」
「俺は高等部へ行っても必ずレギュラーになる。だから、試合を見に来てくれないか?」
「柳くんの、テニス?」
「そうだ。…それまでに、俺のことを名前で呼べるようになっていてくれると嬉しい」
 内緒話をするような声でそう囁いた柳くんは、いつの間にか目の前に会ったマホガニーを押し開けた。その耳が紅くなっているのは、ぴゅうぴゅうと吹きつける風のせいなんかじゃないのだろう。本の森の匂いとあたたかい空気を吸い込んで、私はほっと肩の力を抜いた。
 夏も、何かが当たり前になってしまうことも、柳くんと一緒ならちっとも怖くない。それどころか全部宝物になるような、そんな予感がする。
 穏やかに差しこむステンドグラスの光りに軽く目を細めて、もう寒くないのに離れない手をぎゅっと握る。首を傾げながら振り返った彼の、その名前を呼んだらどんな顔をするのだろうかと考えた心は、ゆっくりと季節を待っていた花がようやく咲いたようだった。


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