気持ちひとつで晴れた空もくすんでしまうのを、私はもう知っている。指先にもやもやと白い息を吹きかけながら、そっと唇をほころばせた。今日はちゃんと、いい天気。
 全然知らなかったひとが、私の嫌いな季節に追いかけていたものがある。それを知ったとき私はただ嫌なものから逃げていただけの自分に気付いてしまったけれども、俯いたままでいるわけにはいかない。だってそのひとは、私の心臓に繋がっているひとなのだから。
 うん、と小さく頷いて、マホガニーの扉に手を伸ばす。両手にも収まりきらない不思議と、目に痛くないきらきらが詰まっている、その入り口。そうしてまたあの体に自然となじんでしまう匂いが鼻をくすぐる――はずだった。けれど、とんとんと肩に触れた何かのせいで、びくりとその手を離してしまう。
「…え?」
「済まない、驚かせたか」
「や…柳くん」
「久しぶりだな、名字」
「う、うん…ちょっといろいろあって」
 おっかなびっくり振り返った先にいたのは、この先でしか会うことのないそのひとだった。私の一番素直なところがきゅうと縮こまって、それから耳の奥まで聞こえるような音を立てて動き始める。口から出てきそう、って、きっとこういうことだ。
 じわじわと体じゅうに嬉しさが流れて、冷たいばかりの指も耳も頬もあたたかく染まってゆく。ほう、と大きく息を吐いて、久しぶりだねと笑った私に、柳くんもああ、と口元をほころばせた。
「…学校が忙しかったのか?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけど」
「そうか。…名字、良ければ少し歩かないか?ここで話していると体を冷やす」
 えっ、と目を丸く見開くと、実は見せたいものがあるんだと柳くんがどこか得意げに笑う。滅多に見ることのできないこの年らしい笑顔につられて笑いながら、分かった、と頷いた。
 ここのすぐ近くだと言いつつ駅の反対側に向かって歩き出した柳くんの、隣に並ぶにはまだ少し勇気が足りない。だから斜め後ろを歩いているのに、それでもそわそわと落ち着かないのは、ちょっと早い冬が来たみたいにぴんと張り詰めた空気のせいだ。喉の奥、言葉ごとからからに乾かして、話すことさえ出来なくなる。
 どうしよう、と、そればかり考えて、そういえば見せたいものってなんだろうと今更のように思ったちょうどそのとき、柳くんがぴたりと足を止めた。
「着いた。…これだ」
「え?…あ、いい匂い…」
 ついと指で示されたのは、言われなければ通り過ぎてしまうような、どこにでもある道の一角だった。近寄って見てみると、そこには力を入れたらすぐ折れそうな細い枝と、それに沿ってぽつぽつと反り返って咲く小さな白い花が植えられている。そして、その頼りない枝たちを守るようにぎざぎざと刺をつけているつるりと硬い葉には見覚えがあった。
「柳くん、これ…ひょっとして柊?」
「ああ、知っていたのか」
「葉っぱは見たことあったけど、花は初めて見たよ。…なんか、金木犀みたいな匂いするんだね」
「柊は金木犀と同じ木犀科だからな。…名字は金木犀が好きなのだろう?」
「うん、好きだけど…私、柳くんに話したっけ?」
 ふと首を傾げた私に、柳くんは難しそうに眉を寄せて、そのまま何とも言えない顔で笑った。というよりむしろ、笑おうとして失敗したように見える。どうかしたのだろうかとその表情から目が離せないでいるうちに、柳くんは秘密を打ち明けるようにそうっと話し始めた。「――俺は、初めて名字と話す前から名字のことを知っていたんだ」
「…え?」
「部の全国大会が終わって、頭では負けたこと、三連覇を成し遂げられなかったことを理解していたが、心はそう簡単にいくものではない」
「………」
「普段自分が負けたときは練習を重ねるうちにこれからの糸口が掴めるものだが、全国では一応俺は勝っている。しかし、だからと言って三年間共に戦って来たチームメイトを責めるつもりは聊かも無い。ならばどうやって気持ちの整理をつけるか――外を歩きながら考えて、たまたま目に付いたのがあの図書館だった」
「…そう、なんだ」
 堅く閉ざした箱の中にある気持ちを淡々と教えてくれる柳くんは、うんと大人びているようにも、小さな子供のようにも見えた。準優勝で終わったと聞いたあのときにもこの胸が衝かれる思いをしたけれども、今はそれ以上に悲しくて、じくじくと痛みを覚えてしまう。
 ぎゅっと唇を噛みしめた私を見た柳くんは、強張っていた顔をややゆるめて、その日に私を知ったのだと小さく笑った。
「…たまたま他の利用者がいなかったからか、名字はあの人と秋について話していた」
「秋について…?」
「ああ。金木犀の香りがすると秋の訪れを感じて安心すると言っていたのだが…覚えているか?」
「あ…そんなこともあった、かも」
「それを聞いた俺は、夏の終わりを嘆く人間もいればその逆の人間もいると言うことを今更知った。…そして、そんな人間ならもしかしたら俺が前に進むための何かを持っているかもしれないと思ってあの日名字に声を掛けたんだ」
 ふうと一息ついた柳くんの息が白く揺れて消えるのを見るともなしに眺めながら、心の中でそうか、と頷いた。
 ――柳くんも、おんなじだったんだ。
 そう思うとずっと固まっていたものもほぐれてゆく気がする。力が抜けたように笑った私に、今度は柳くんが首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「…なんか、柳くんの言葉は魔法みたいだなあって」
「…魔法?」
「うん。…この前柳くんの部活の話聞いたとき、嫌いなものから逃げるだけの自分がすごく情けないって思ったんだ。だけど、もしその話を柳くん以外の人から聞いてもそんな風には感じなかったと思う」
「名字…」
「本当はね、最近図書館行けなかったのは、先生に勉強教えてもらってたからなんだ。勉強もあんまり好きじゃないんだけど…柳くんのおかげでちゃんとやろうって思えるようになったよ。…夏も、これからいいところを探したいと思う」
「………」
「柳くん、私に頑張る力をくれてありがとう」
 少し恥ずかしかったけど、言いたかったことを全部言いきった私の体はぽかぽかとしたもので満たされていた。こうやって自分の気持ちを伝えられるようになったのも、柳くんからもらった勇気のおかげに違いない。
 そうだ、とここに連れて来てくれたお礼も言うために顔を上げると、柳くんが私に向けてすっとその大きな掌をさし出した。
「…柳くん?」
「今日は、俺も名字のおかげで先を見ることが出来るようになった礼を言うつもりだった。先に言われてしまったがな」
「え、私は何も…」
「いや、俺が部の話をしたとき、名字が言ってくれた言葉に救われたんだ。…ありがとう、名字」
「あ…もしかしてここに連れて来てくれたのも…?」
「そういうことだ。…それはさておき、名字、俺はまだお前のことをほとんど知らないだろう」
「…?うん、そうだね」
「俺はもっと名字のことを知りたいし、それから俺のことも知ってほしいと思っているのだが…どうだろうか」
 そう言うとなんだか困ったように笑う柳くんに、ぐうっと喉が苦しくなった。だから声に出す代わりに、私もそう思っていたのだという気持ちを籠めて頷いて、差し出されたままの左手にそろそろと右手を重ねる。
 柳くんと初めて話したときはターコイズグリーンみたいな人だと思った。でもこの始まりには、濃いと言うより深みのある、あの優しくやわらかなブルーがしっくりくる。だって、そっちのほうが、柳くんにもよく似合う。
 冷たかった手を少しずつ二人の熱で溶かしながら、私たちは、どちらからともなく今来た道を戻り始めた。


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