「名字さん、名字名前さん」
『……』
 聞き逃しようがないくらいはっきりと呼ばれた自分の名前。嫌だなあ、と深い溜息を一つついて重い腰を上げた。
 今日は月に一度のカウンセリングの日。けれど私はこの時間がとても嫌いだ。
 触れたくもない過去を無理矢理乗り越えさせられようとしている気がして――私がとても『可哀相』な人にされている気がして、ほっといてくれればいいのにと思うから。でもこのカウンセリングはお医者さんである里沙ちゃんのお父さんが担当だから、行かないわけにはいかない。別に里沙ちゃんのお父さん自体が嫌いなわけではないけれど。
 すぐに指定の部屋に着いてしまったせいで零れそうになる溜息をぐっと堪えてノックをすると、やっぱり返事はすぐに返ってきた。
「こんにちは、名前ちゃん。そこに座って。…調子はどう?」
『いつも、どおりです』
「いつも通りか…里沙からは最近楽しそうって聞いているんだけど」
『…?』
「この頃よく屋上でサボってるんだって?」
『!』
 その言葉が耳に入った瞬間ジローくんの笑顔を思い出して頬に熱が集まる私を先生はからかうかと思えば、ひどく真剣な顔で私を見ていた。
 その瞳に集まった熱はすぐに冷め、今度は胸騒ぎに心臓がどくどくと音を立て始める。
「名前ちゃん、その人は大事な人かい?」
『……』
 否定する気は無いというのに、心臓が五月蝿く騒ぐせいでこくりと小さく頷くのも大変だった。けれど先生は微妙に開いた間に構うことは無く、それどころかさらに瞳が真剣味を帯びる。
 そうして先生は、刃物よりも鋭い言葉で私の弱さを突き刺した。
「…もう、いいんじゃないかな?」
『……?』
「そろそろ…取り戻すときだ」
『………』
「君が声を敢えて捨てたのも、今はまだそれを要らないと思っているのは知っているよ。…ただ、君にとって大切な人が出来たというのなら、その人の為に乗り越えたいと思う気持ちがどこかにあるはずだ」
 違うかい?と諭すような口調で語りかける声に、私は俯き気味にゆるく首を振るので精一杯だった。
 それと同時にタイミングが良いのか悪いのか、カウンセリング終了の時間を告げる人が現れると先生は立ち上がってくすりと笑う。
「自分の気持ちには素直な方がいい」
『…………』
「…そこから失うものもあれば得られるものもあるからね」
 たくさんの言葉に何も返すこと無く、辛うじて頭を下げてその場を後にした。ガチャリと音を立てて閉めたドアとは反対に、私自身の奥底に仕舞っていた記憶が鮮明に溢れてくるのを感じる。
 無意識にたどり着いた院内のベンチに腰掛けながら、私は真っ黒な記憶に押し潰されないようにただただ精一杯だった。


 
(だっていつもみたいに綺麗事だと笑う余裕なんて、どこにもない)


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