「ああ、困ったことになったな」
「…ちっともそんな風には見えないよ」
 はぁ、と溜息ひとつ。僅かに空気を揺らしただけのそれは強くない、けれど決して弱いとも言えない雨に溶けて消えた。
 二人とも今日に限って折り畳み傘を持っていないし、けれども此処はもう蓮二の家の最寄り駅だから置き傘も無い。
 何も電車から降りた途端に降り出さなくてもいいのにとまた溜息を吐き、止むのを待つのだろうかと隣で空を見上げている蓮二に目を遣る。蓮二は顎に指を添えながら当分止みそうに無いな、とつぶやいた。
「え、本当?」
「ああ。…仕方ない。名前、走るぞ」
「わ、ちょっ…蓮二!」
 言うが早いか、蓮二は私の腕を掴んで走り出した。運動部、しかも毎日毎日厳しい練習を熟している蓮二の速度や体力に文化部の私が着いて行ける筈も無く、だからぐんぐんと変わって行く景色を見る余裕なんてものも無い。ただ引っ張られるがままに走る、走る。
 暦の上では春とは言っても雨は冷たくて、蓮二の家の軒先に着いたときには体が小さく震えていた。走って体が温まる程、駅からの距離は長くなかったらしい。
「…名前、済まない。少し速かったか?」
「はぁっ…ううん、大丈夫」
「ああ…それよりも寒いのか」
 軽く私を抱き寄せた蓮二は、とん、とん、と一定のリズムで背中を撫でてくれた。それに甘えてきゅっ、とブレザーを握る。瞬間、少し濡れたそこからふわりとお香の匂いがした。白檀だろうか、上品で爽やかなそれは蓮二によく似合っている。
「ね…蓮二」
「ん?どうした?」
「匂い袋、胸ポケットに入れてるの?」
「ああ」
 くすり。涼し気に笑う声が耳をくすぐって、少し体が熱くなった。蓮二はそれを知ってか知らずか、まだ私の背中を撫で続けている。どうして家の中に入らないんだろうとか、蓮二が風邪引いたらどうしようとか。そんな疑問や不安さえも雨は溶かしてしまったらしい。むしろその仕種と香りがあまりに心地良くてとろとろと眠気を覚え始めた頃、ふとどこかで目にした和歌が口をついた。
「春雨の…」
「名前?」
「春雨の、花の枝より流れ来ば、」
「…なほこそ濡れめ香もやうつると…か」
「うん。…ふふ、さすが蓮二」
 藤原敏行が詠んだその歌は、まだ桜も咲いていない今口ずさむには少し早い。でも雨だとか蓮二のお香の匂いがなんとなくこの歌を思い出させたのだ。
 ほんの些細なやり取りが嬉しくてもう一度蓮二に擦り寄ると、蓮二は私を撫でていた手をぴたりと止めてしまった。どうしたのだろうと仰ぎ見た彼の耳は、まさにほんのり桜色に染まっている。
「…蓮二?どうかした?」
「…名前。一応聞くが、それは歌の意味を分かって言っているのか?」
「え?うん、もちろん」
「……この状況だと、俺が花…桜ということに、なるな」
「…あ、確かに」
 そう考えると、というより、どう考えても私は深く考えずにかなり恥ずかしいことを口走ったことになる。急激に体温が上がるような感覚に、思わず強くブレザーを握りしめた。俯いた首筋すらも紅く染まっていたのか、意地悪そうな顔で熱でも出したか?と笑う蓮二に、けれど私も負けじと笑った。
「…違うよ、蓮二」


 


「…お前は時折、本当に予想外のことを言うな」
「…そ、そう?」
「ああ。…本当に、敵わない」
「蓮二?」
「何でもない。そろそろ入るぞ」
「あ、うん」



 title by 空想アリア
 ※春雨の〜:出典は後撰和歌集。大意は「春雨が桜の枝から零れて来るのならもっと濡れましょう。花の香りが移るかもしれません」


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