8. I'll dream of you saving me someday.


「何で降るかな…。」
電車の中でリョーマは呟いた。青春台駅を出てから雨脚は強くなる一方で、床を見ると泥で汚れていて気分が悪い。汚いのは嫌いだ。ムッとして窓の外を睨むがこちらも雨ばかりで灰色に煙る街は眺めてもちっとも良いものではなかった。
ついため息が出て、思った。折角のデートに雨なんて台無しだ。
「…デート?」
ふと、呟いてみた。そしてリョーマは急いでぐっと帽子の前鍔を握り締めた。心の中でないない、と叫びながら。その証拠に自分の格好を見下ろせば納得がいく。デートにジャージで行く女なんているわけがない。部活が終わってそのまま来たのだから当然で、青学の青と白で塗り分けられた目も覚めるような配色のそれはぶかぶかで実に不恰好だ。我ながら全然かわいくないと思う。そう言ったところでリョーマの私服にかわいいものがあるわけではないから、本当のところはよく分からない。スカートさえ、青学に入って着なければならなくなった制服のプリーツくらいのもので、実に数年ぶりの代物だった。
そんなことを思いながら、ちらりと横目をくれてやれば、反対側のドアの前に駆け込んできたばかりの女性がふたりいた。旅行者だろうか、大きな鞄を提げているが器用に片手で提げ、もう片方の手はしきりに乱れた髪や衣服を整えていた。リョーマ自身はファッションに疎いが、女性たちはよく見かけるようなワンピースを太いベルトで締めるスタイルをしていた。多分流行なんだろう、似合うかどうかはさておきそういうものへの関心の高さを感じさせた。ああいうのが女の人なんだなあ、とリョーマはぼんやり思う。と、女性のひとりがこちらに気付いた。すぐに隣の女性をつつき、ふたりしてこちらを見てくるのでリョーマは慌てて俯く。耳に届いた声はかすかな笑いとリョーマを見た感想だった。かわいいとか、小学生か中学生かとか、最後にちょっと好み、と言ったのを聞く限りリョーマを少年だと思ったようだ。
この間まではそう聞くとほっとしたものだった。でも今は、じわじわと腹が立っていた。どうせちっとも女らしくない。かわいくない。よしんば少女らしい髪型や服装にしたところで、大して変わり映えもすまいとは自分で思うものの、急に少年としてしか見られることのない自分がリョーマは恥ずかしくてしょうがなくなった。
肩を竦め、ぶかぶかのジャージの立てた襟に顔を埋めて出来る限り余計なものを見ないようにする。恥ずかしいと思うことさえ恥ずかしいのは何故だろう。慣れないからか。かわいくありたい、だなんてそんなこと、どうして願うのだろう。
ぎゅっと目を瞑って考えようとすると、リョーマの脳裏をひとり過ぎる人がいた。途端、はじかれたように目を開けばピンボケした世界でひとり顔が熱くなった。しばらく呆然としたリョーマはやがてドアに体重を預け、膝を軽く曲げると長く深いため息をついた。赤らんだままの複雑な表情で目の前のガラスの向こうを気だるく眺めれば、さっきよりいくらか雨脚が遠のいたように見える。雲の薄いところは日の光を漏らしたがっているようで、ああ、晴れるんだ、とわざわざ呟いた。胸の高鳴りはそのことへの期待だと思い込みたい。
そうでなくては困ってしまう。こんな宙ぶらりんの気持ちを抱えたまま、彼にどんな顔して会えというのか。泣きそうな目で悩もうとした。
そのとき帽子の中に篭っていた熱がふっと消えてしまった。
「キグーじゃん、チビがき。」
前より一段と嫌な声だと思ったのは、思い出していた人が絶対にこんな調子で話す人ではないからだ。無意識に比べてしまったらしい。振り返るともう忘れかけていた紺色のブレザーが三着、着崩されていた。顔を上げるのは億劫だったけれど、退路を探すためには必要なことだから仕方ない。そうでなければいいのに、と思った通り、数週間前電車で絡んできた高校生の顔がずらりと並んでいた。
「あのデケー兄ちゃんはいねーみたいだな。」
「好都合だな、この間のこと忘れちゃいねーだろ?」
くちゃくちゃとガムを噛み締めながら、ひとりがリョーマの顔を覗きこんできたので思わず露骨に嫌な表情をしてリョーマは仰け反った。もちろん不良三人がそれを見逃すはずもなく、いい口実を見つけたと言わんばかりに眉を吊り上げたまた別のひとりがリョーマの襟を掴み挙げた。
「あんだ?その顔は。」
踵が浮いて爪先立ちになると、屈みかけた不良の肩の向こうで不安そうにこちらを見て、どうしようとヒソヒソ話し合うさっきの女性たちが見えた。そんなことをしてる暇があるなら金切り声の悲鳴でも上げてくれればいいのに。唯一の救いは電車の中が明るいことだろうか。不良たちの詰め寄り方も前より甘い。けれど平常心の糸がぎりぎりなのもリョーマにはひしひしと感じられていた。逃げなきゃ、と思うと無感情なアナウンスが次の駅名を告げた。目的地の名前が読み上げられた瞬間、逃げ出すタイミングが決まった。ドアが開いたら振りほどいて走り抜けよう。走り抜けたらもう大丈夫だ、と妙な安心感が生まれて、リョーマはあと少しの間自我を保つ決心がついた。決心の先に待っている人が、確かに今のリョーマを繋ぎとめていた。

弦一郎が駅まで走って辿り着いた頃には、小雨になっていた。彼は肩で息をしながら辺りを鋭く見渡す。その視線にさらされた人々は一様に怯えたが、彼は構うことなく、ただ自分と同じ色のジャージの一団がいないことだけ確認が出来ると、過剰に取り込んでいた息の残りをたっぷりと吐き出した。よし、確実にまいた。心の中で呟いて安堵するとやっと駅の時計や自分の携帯電話を見る余裕が出来た。思ったとおり携帯にはリョーマからのメールが届いていた。それは「今から電車に乗る」というだけの簡素なもので、今から三十分ほど前に受信されていた。ブン太たちをまくのに、実に三十分近くも要していたことに今更ながら気がつき、弦一郎は一抹の悔しさを覚えた。普段の練習でもあれほどの粘りを見せたことはないくせに、野暮なことをしてくれるときだけ実力を発揮するとはどういうことだ。たるんどる、といつもの決まり文句を弦一郎は呟いた。
「ぶえっきし!」
「丸井さん、しーっ!」
赤也がブン太の目立つ赤髪を押さえるようにして言うと、ブン太は苦笑いしながら軽く謝った。
「真田のヤツ、なんかそわそわしとるのー。」
目の前のウッドボックスから軽く顔を覗かせ、雅治がいくらか面白そうな調子で呟く。それに倣ってブン太や赤也もしゃがんだ腰を軽く浮かせて弦一郎の様子を窺ってみる。三人は弦一郎の後方五メートルあたりで植え込みの影に隠れていた。
「ほんとだ!キョロキョロしてる…ありゃ絶対デートだな。」
にやりと笑ったブン太の横顔を見てから赤也は目を見張りながら意外そうな声を上げた。
「真田さんがデートで待ち合わせ…想像つかねー…。」
「現に目の前でそうなってるだろ…ってそうじゃない!」
しゃがんでいた三人がいっせいに振り返ると、そこには焦げ茶の肌が健康的なジャッカルが勇んで立っていた。追っ手をかく乱するための弦一郎の機敏な逃亡に、置いていかれまいと潜在能力を発揮してみせた雅治とブン太と赤也の三人を、放っておけないと一生懸命後を追ってようやく追いついたジャッカルは珍しく息を切らせていた。
「ジャッカル、しーっ!」
「真田さんに気付かれちゃうじゃないスか!」
「まあお前さんも座れ、座れ。」
しかし彼のそんな健気な姿を見ても一向に意に介さないブン太たちは、もうジャッカルさえこの無粋な行いをする仲間と思い込んでいるようだ。呆気にとられて声も出ないジャッカルは頭を抱えた。雅治はともかく、ブン太と赤也にいたっては本当にジャッカルの心配などどこ吹く風と思っているのだろう。多分自分が何を言っても意味をなすまい。そう思って彼は弦一郎を呼ぶため顔を上げた。こいつらに必要なのは間違いない、鉄拳制裁だ。
けれどジャッカルの願いは空しく散った。声をかけようとしたまさにそのとき、かすかに増した雨の勢いを気にしたのか、弦一郎は駆け足で駅の構内へ入ってしまった。真田、と言うための息がかすかにその音を成して、大概は空気の中に散らばっていく。もちろんそんなものが何かの効力を持つはずもなく、ブン太たちの興味は駆け出した弦一郎にばかり注がれた。
「おー!いよいよ許婚ちゃんとの対面かー!」
行こうぜ、という元気なブン太の声に合わせて雅治と赤也が立ち上がる。そのまま駆けて行こうとする彼らの背中を見ていると、ジャッカルは激しくもう放っておきたい衝動にかられた。が、途中振り返った雅治がぴよっ、と言って、その手にきっちりデジタルカメラを持っているのを目にするとやはり使命感が湧いた。もれなく弦一郎への同情だ。それだけを頼りに彼は自分を奮い立たせ、小さくなっていくブン太たちの背中を見事なフォームの走りで追い始めた。

真昼間とはいえ雨の日の駅はいつもより混雑しているように思われた。改札の前にある柱の側で立ち止まった弦一郎は、湿り気を帯びたまま人の動きにつれて流れていく空気の多さをじわじわ受け取っていた。足音の多くはざりざりと濡れた泥の粒を擦っている。きゃっ、という子供の甲高い悲鳴に多少驚いて目をやれば、濡れた床に足を取られた少女が母親に助けられていた。諌められているからきっとこんなぬかるんだ床にも関わらず、走ってしまったのだろう。軽く叱られてしょんぼりしたさまが微笑ましかった。ああやって反省するならかわいいものだ。ブン太や赤也だったら床や雨に謂れのない喧嘩でも売っていることだろう。自分が卒業するまでに、特に赤也などはまだまだ精神上鍛え直してやる余地が多分にありそうだ。自然と腕組みをしながら弦一郎はそんなことを考えて暇を潰していた。そうするうちにまた、わっと人の数が増えたから電車が着いたのだと分かった。時間からしてそれにリョーマは乗っているはずだ。そう意識したら腕が組んでいられなくて弦一郎はぶっきらぼうに片手をジャージのポケットに突っ込んだ。スポーツバッグを背負いなおしてみたり、軽く俯いてシューズの先を睨んでみたり、やっぱりポケットから手を出したり。それでもその合間には帽子の前鍔の先を見つめ、背の低いのを見逃さないようにしていた。姿が見えないな、と一息つけば、自分の動悸が感じられた。柄にもなくまた緊張をしている。そして頭の中ではいつの間にか、目の前に来たリョーマがそそくさと帽子の前鍔を握る姿が浮かび、その瞬間に訪れるだろう嬉しさが胸中を渦巻いていた。リョーマのことを幾度となく思い出すうちに弦一郎はいい加減気がついていた。あれは精一杯の照れ隠しなのだ。本当に素直じゃないやつとは思うが、そこがいい。そういう少し奥手で慎重なところを見るとなんだか胸の奥がぎゅっとなる。そこで頭を撫でてやったら彼女は、また前唾を握ってくれるだろうか。
ドン、と軽い衝撃が肩に走って、誰かがすみません、と言った。弦一郎がはっと気がついて反射的に口先だけで謝罪しても、ぶつかった相手なんかはもう全く分からなくなっていたが、人ごみは相変わらず動いていた。突然居たたまれないような気分に襲われて弦一郎は無駄に咳払いをしてみる。きっと誰も気にしないだろうが、弦一郎は知っていて、自分が知っているだけでもう十分許せなかった。今、明らかに自分は妄想をしていた。それもこんな白昼の人が大勢いるところで堂々と。だからなんだと言えば本当はそこまでなのだが、弦一郎は彼だからこそ、それをけしからぬことと思っていた。
苦虫を噛み潰すような顔をして、弦一郎はギッと前方を睨む。妄想などしている暇があったらとっととリョーマを見つけることの方が今は大事なのだ。しきりに白い帽子の頭を探す。けれど人の波は大分まばらになっていて、弦一郎の気合は次第に緩みだしていった。この電車には乗っていなかったのだろうか。天候とか人身事故とか、理由はいくらでも思いつくからその可能性は十分にある。思わずついた息は落胆の色をしていた。だからまた顔を歪めて弦一郎は首に手など当ててみたけれど、やはりこの気持ちに嘘はないようなので妥協するしかない。諦めてついたため息はさっきと同じ調子で、彼は思った。早く会いたい。何故そう思うのかは今ひとつよく分からなくても、とにかく会いたいのだ。電光掲示板で見た次の電車は五分後でも、そんなにかかるのかと思ってしまった。さっき高鳴っていた胸が疲れて柱にもたれかかる。ついでに目も閉じる。時間が早く過ぎないか、とばかり弦一郎は願ってみた。
遠くで何かが落ちる音がしたがわざわざ目視する大儀だった。けれども、まるでリョーマのツイストサーブを避けたときに働いた勘と同じようなもののせいだったのかもしれない。何故か目を開けた。
最初に目に入ったのは駅の奥の階段で、人はみんなあそこから流れ出ていた。今は冷たく静かになりだしたその階段の前で蹲っていたものが蠢き、立ち上がる。緑がかった髪が構内の蛍光灯の明かりを跳ね返し、遠目でも分かる、あのつりあがったどんぐり眼が潤むように自分を映した。
「真田、さん…っ。」
吐息だけの声は聞こえないのに届いた気がした。

ほっとしたのも束の間だった。彼の名前を呼んですぐリョーマは振り返り、そして間髪入れず駆け出した。バタバタと後ろでうるさい足音は、駆け出すリョーマを怒鳴ってなじる。人が近づいてくる圧力のようなものを小さな背で受けながら、リョーマはただ真っ直ぐ走った。ただ、ただ、真っ直ぐでいい。真っ直ぐ行けば待っている人がいる。助けてくれるあの人がいる。湿った床に足元を掬われないように、最初は気を払いながら一歩を大きく踏み出す。けれどその内、光とか声とか、そんなものが一切合切どうでもよくなった。息を吸って見た先で、改札を飛び越えてこちらにやって来ようとする彼がいた。その側で駅員が驚いている。ああ、無茶する人だな、と思って、嬉しかった。
「捕まえた…っ!」
ブチ、という嫌な音と一緒に頭に鋭い痛みが走り、ぶれた視界で少し彼が遠のいた。次に待っていたのはタイル張りの床の硬さと衝撃と痛み。そしてざらついた泥が手や頬をする、久しく感じていなかった一番嫌いな感触だった。呻いてリョーマが仰向けになると人の隙間から自分に光が降り注いでいた。暗い人の形が結構な高さから自分を見下ろしていて、全員愉悦に顔をゆがめている。
こういう奴らって何が楽しいんだろう。影の中から伸びてくる手を見つめてそんなふうに思ったら、急激な嫌悪感が全身を包んだ。総毛だった体と心がその奥底から拒絶していて、リョーマは小さく嫌、と言ったあと全部の意識を放り出した。
その後は何も覚えていない。

駅員の制止の声なんて聞いていられなかった。見覚えのあるブレザーの一群が、ちょうど弦一郎が邪魔な改札を飛び越えたところでリョーマに追いついていた。そのまま髪を掴まれ引きずり倒された彼女を見ると、こめかみの辺りで何かがぷちん、と切れた。やっとその騒ぎに気付いた人々がざわめきだし、リョーマたちの側で立ち止まっていく。そういう人々の邪魔な肩を掴んでは突き飛ばし、弦一郎は一心不乱に駆けた。ようやく目の前が開け、弦一郎はどうしてかリョーマから後ずさったブレザー姿のひとりに掴みかかった。
「貴様ァ!」
「ひっ…!?」
駆けつけた勢いのままに振り上げた拳が大きな反動を食らう。結局それは振り出されなかった。
「よせ、真田!」
「副部長!落ち着いてください!」
離せ、と怒鳴って身じろいだが、弦一郎の体を包んだ戒めはなかなか緩まない。そうして段々と正気が戻ってくると、いつもは憎たらしい表情ばかりする赤也が青ざめて弦一郎の体を押し留めていた。
「…赤也…。」
「落ち着いたか、真田。」
荒い呼吸を繰り返しながら振り向くと、弦一郎の固い拳を取り上げたジャッカルが真摯にこちらを見ていた。
「大会前じゃき、暴力はちっといかんぜよ。」
また振り向けば今度はいつもより笑みの薄い雅治が横目に弦一郎を眺めている。
「駅員さーん!こっちこっち!」
そして大手を振って声を張り上げたのはブン太だった。弦一郎の乱入で腰を抜かしていた高校生たちはその声にまた驚いて、すぐさまよろけまろびつ駆け出していく。それを数人の駅員が追いかけていき、面々がほっとすると、すぐブン太の明るい声やジャッカルの呆れたため息が飛び交った。
「うっへー、びっくりしたー。真田急に走り出すし、なんか不良が騒いでるし、やれやれだぜー。」
「お前なら殴ると思って止めに入って正解だった…。」
そんな言葉を聞いて初めて弦一郎は我を忘れて暴力沙汰を起こそうとしていた自分を知った。本当に、彼らが止めてくれなければひょっとして立海大の全国三連覇は水泡に帰していたかもしれない。そう思うとぞっとしない。責任を感じてすまん、と弦一郎が深刻な面持ちで呟くと、一瞬呆気にとられたブン太たちはすぐに笑った。
「いーじゃん、結局大したことになってないんだし。」
「まあ、真田があんなふうになるならよっぽどのことだろ。」
よほどのこと、と言われてはっとした。ふたりの優しさに感じ入る間もなく弦一郎が振り返ると突然、赤也の情けない声が上がった。
「うひゃっ…!」
「赤也!」
「どしたんじゃ。」
驚いて弦一郎と雅治が尻餅をついた赤也の側に寄った。赤也は不可解そうな顔をして弦一郎たちを振り返るとしどろもどろ訴えた。
「どしたも何も…俺はただ大丈夫かって聞いただけなのに、こいつ…。」
赤也がそう言って指差した方を弦一郎は目で追った。そしてそこで蹲り、小さな頭を抱える小さな手を見ると、今度は慌ててそちらに駆け寄った。
「おい、どうした越前!」
弦一郎の手が彼女の肩に触れる寸前、ひっと息を詰めたリョーマは激しくその手を叩き落とした。弦一郎が驚いたのはそんなことをされたからではなく、リョーマがひどくひきつった、恐怖に支配されただけの憐れな顔をしていたからだった。次に声をかける暇も与えず、彼女は過剰に息を吸いながら喚き散らした。
「いや…いやっ!いやっ!おねが…だから、さ、わら、ない、で…っ!!やだ…イヤだぁあああぁあぁああァァアア!!」
悲痛だった。耳の奥に刺さるようなその声も、焦点の合わない大きいばかりの瞳から留まることなく流れる涙も、訳も分からず振り回すだけのか細い腕も、全部が見た者の胸を切り裂かれたような心地にさせた。そして誰よりそのさまに心が痛んだのは弦一郎だった。なまじ彼女の気丈な普段を見ている分、今のリョーマの姿は異様にしか見えない。
けれど彼は歯を食いしばった。そして暴れるリョーマの腕を引っつかむと肩を押さえ込み、大声で呼びかけた。
「越前!落ち着け、俺だ…真田だ!分からんのか!」
同じようなことを弦一郎は幾度も繰り返してみたが、リョーマは気がつく素振りも見せず、むしろ近寄ってくる弦一郎により激しく抵抗した。彼の肩を押し、腹の辺りを足蹴にし、肘で側頭部を殴りつけると弦一郎の黒い帽子は無力にも床へ落ちた。根負けすまいと弦一郎はそういう抵抗を一々抑え込むが、滅茶苦茶に首を振って嫌がるリョーマを見ると手の力は緩み、またリョーマの暴力を一身に受けた。
「真田、よせよ!そいつなんかおかしいぜ!」
見かねたブン太が血の気の引いた顔で叫んだ。ジャッカルや赤也もそうしろ、と弦一郎の背中に言い放ち、彼を引きとめようとその肩を掴みさえした。
それにも関わらず、弦一郎は仲間の心配してくれる気持ちを全てなぎ払った。大きく振られた弦一郎の腕に差し伸べた手を弾かれた面々は顔を見合わせて戸惑ったが、弦一郎はいたって正気だった。正気で、怒っていた。当然自分を心配してくれる部員に対してなどではない。自分自身に、だ。
どうしても許せなかった。一瞬でも、普段と違う様子の彼女を異様だと思った自分が、情けなくて仕方なかった。そんな半端な気持ちを持つ気は毛頭なかったのに、それでも彼女との間に線を引こうとした自分が悔しくてたまらない。真田弦一郎という男はその程度の精神の持ち主か。そんなことがあってたまるか。こうして彼女の姿をよくよく見れば、なんてことはない、怯えてパニックに陥っているだけのかわいそうな少女に過ぎないではないか。
頬を抉るような痛みが走るので、掴んでやればリョーマの爪の先に血がついていた。ひっかかれたか、と弦一郎は冷静に思った。不思議と、怒るほどに気分は冷静になっていった。そしてリョーマを見ると未だ我を忘れて泣き叫ぶ彼女を掻き抱きたくてたまらない、その割りに穏やかな衝動にかられた。
泣くな、怖がるな。大丈夫だ、守ってやるから。言いたいことが山ほど浮かんで、結局弦一郎がかけてやったのはたった一声だった。彼は回りくどいことが苦手だったのだ。
「…リョーマ!」

何かが弾けたように、リョーマの目に映るものが全部、日焼けた写真のセピア色のようになった。そこはひどくぼやけていて、人がいるのは分かるけれど誰かは分からない。けれど今確かに、自分の名を呼んだのは目の前の人で、力強いのに自分を思ってくれる優しい声だった。その人の向こうの光が眩しい。まるであの日の、馬鹿に綺麗な青空のようだ。だけど声の主は優しいようだから、きっと自分を助けてくれる人なんだ。そう理解するとまた違う涙がどっと溢れて、あ、と声を漏らしたリョーマは必死に目の前の人に縋りついた。

弦一郎は硬直していた。卑しい気持ちではなく、リョーマを抱きしめたいとは思ったが、いざ彼女の方から飛びついてくると自分にはない軽く、柔らかい感触が自分の中を大きく揺さぶった。弦一郎の首に手を回したリョーマは呻いて泣いていた。その声をしばらく聞いているとさすがに弦一郎の気持ちは落ち着き、ずり落ちそうな小さな体を支えてやると、真横に見えるやはり小さな頭をぽんぽんと叩いた。
「…なんかよく分かんねーけど、真田いいことしてんじゃん!」
と雰囲気をぶち壊す明るさでブン太が大笑いしつつ言った。思わず弦一郎がぎくりとして反応してしまったので、便乗して赤也や雅治までからかいの文句を浴びせてくる。しかし腹が立ってもリョーマが抱きついているので制裁を食らわすことも出来ず、弦一郎が煮え返る腸を持て余していると突如、ジャッカルの手刀がブン太と赤也の頭に振り下ろされた。
「お前らいい加減にしろ!それより真田、その子…。」
心配そうな顔でジャッカルが覗き込むので弦一郎もまだ首にしがみついたままのリョーマを見やった。そして声をかけ、軽く揺すってやるがリョーマは声ひとつ立てない。息はしているものの、まるで死んでいるようにリョーマは反応しなかった。
「…こりゃ気絶しとるの。」
唯一ジャッカルの制裁を逃れた雅治が指で顎を摩りながらさらりと言った。
「き、気絶って…そんな副部長にしがみついたまま…。」
「あー、でもなんか様子変だったもんな。」
頭をさすりながら赤也とブン太が言った。それを見届けて弦一郎はまたリョーマを見下ろした。試しに引っ張ってみた腕はびくともせず、駅のど真ん中で弦一郎はこれをどうしよう、と途方に暮れた。


――――――
微妙に核心回。
三馬鹿プリガムレッドでもプリは痛い目に会わない要領のよさ。




[ 8/68 ]

*prev next#
[back]