7. My mind may fly to you before me.


リョーマは空を見上げっぱなしだった。土曜の今日、曇天が低く垂れ込め、もう雨が降り出すのは時間の問題としか言えない。そんな空気がずっと纏わり付いている。冗談じゃないよ、と不貞腐れて前を見るとコートの向こうでぶんぶんラケットを振る上級生の姿が目に入った。ひとつ上で、今のところリョーマと一番に仲のいい先輩の桃城武だ。
「コラー!越前、打つなら打て!」
「…今打つとこッスよ。」
トスをしようと上を向いたまま、またリョーマは固まっていたらしい。そんなことばかりするので今日の部活ではロクに先輩たちに付き合ってもらえず、結局武で落ち着いたもののもう何回叱られたか分からない。テニスに集中できないリョーマの姿は珍しかった。そのため練習終了の号令がかかると心配したのか、三年の菊丸英二が真っ先に駆け寄ってきた。
「どしたのー、おチビちゃん。」
「別に。」
急ぐんで失礼します、と流すように言ったリョーマはさっさとコートを後にしてしまった。そのいつも以上につれない仕草を見て、英二は指を頬に突き立てて首を傾げた。
「どしたんスか、英二先輩。」
すると今度はそんな英二の姿に気づいて、コートの反対側から戻ってきた武が声をかけた。
「にゃーんかさー、今日のおチビちゃん変じゃない?」
かわいがっている後輩にあっさり振られて英二はむうっと頬を膨らませた。一方、武は英二の主張に強く同意した。
「やっぱそうッスよね。あいつ全然練習に集中してなかったッスよ。」
「おまけに急ぐーって言って帰っちゃったしー。」
あの授業は居眠りしてほとんど聞いていなくても、部活の時間には人が変わったようにはつらつとしているあの越前が、一体どういうことだろうか。うーん、と英二と武が腕組みをして悩む。と、彼らの背後から長身の影が降りかかった。ふたりが振り返ると、四角い眼鏡がきらりと光っていた。
「うわっ、乾!」
英二が叫んで呼んだのは青学のブレーン、乾貞治だった。大柄な彼の唐突な出現に英二と武が慄いていると、貞治は眼鏡を押し上げながら、さらりと言った。
「『急ぐ』と言って女性が帰った場合、デートに行く確率、八十二パーセント。」
「確率高っ!」
「ど、どうやってそんな確率測ってんスか…って、デート!?越前が!」
謎の情報を披露した貞治よりも、デートと越前リョーマが結びつけられたことに、殊更武は驚きを隠せなかった。英二もそれなりに驚いていたものの、ただ驚いただけの表情しか浮かべていない彼と違い、武はだんだん俯きがちになっていく。そうしてとうとう彼はぼそりとこう言った。
「あいつ、彼氏いんのかな…。」
「どうした桃城、越前のことが気になるのか。」
え、と顔を上げると、武の言葉を耳聡く聞きつけた貞治がノートを開いている。おまけに何か書き付けている。途端、武は慌てて手を振った。
「ち、違いますよ!俺は別に越前のことなんか…!」
「え、なになに、桃ってばおチビちゃんのこと好きなのー?」
逆効果だった。武の慌てぶりと物言いがあからさまなせいで、今度は英二まで食いついてきてしまった。おまけに彼はきゃあきゃあ言いながら大手を振ると、他の部員まで呼び集めようとする。
「みんなー、ニュースニュース!桃がおチビちゃん好きだってー!」
「ぎゃあああ!だから違いますって、えーじ先輩!」
「へえ。桃、そうだったんだ。」
いつの間にか側まで来ていた三年レギュラーの不二周助までが、そう言ってあっさり認めてしまう。武は苦し紛れに何か否定の言葉を口にしようとした。ところが今度は英二がふともらした一言にあっさり興味を持っていかれてしまった。
「でもさー、誰かにゃ?うちのアイドルの大変なものを盗んだのはー。」
英二の言うとおり、確かに越前リョーマは青学男子テニス部のアイドル、と言って過言ではない。全米ジュニアの優勝記録があるため、特例として男子テニス部での練習を許されているリョーマは、風貌こそほとんど少年のようだが、女子であるという認識が全員にあるので当然紅一点。それに目つきは鋭いが、かわいい顔立ちと卓越したテニスのセンスもあいまって密かに男子部員たちの憧れの的だ。
しかし武にとって、英二の適切な表現などよりも、今重要なのはそのアイドルたる彼女の心を射止めた人物が誰なのか、だ。
「ま、全くッスよ!大体越前がデートしてもいいと思うやつなんてこの世にいるんですか!?」
「それは、いるんじゃないかな?」
周助が苦笑いしながら言った。が、じゃあ誰ですか、と武に標的扱いされてしまう。軽率だったか、と思いながらも、改めて聞かれると面白い質問であることに気づく。そういうわけで彼は少し考えてみた。
「まあ…。少なくともテニスが出来ないと駄目だろうね。」
「越前の興味のとっかかりはそこだからな。」
貞治が周助の意見に同意した。ふーん、と相槌を打った英二も頷いたあと発言する。
「でもおチビちゃんがデートするくらいなら、すっげー強いやつじゃないとって気がするー。」
「だーかーらー!そこッスよ!越前より強いなんて男子でも滅多にいないじゃないッスか。そんなヤツがそこらへんにごろごろしてるわけ…。」
「おい、お前ら。」
推理に盛り上がる四人を諌める声が鋭く響いた。見るとコートの入り口で腕組みをした、しかめ面の男が立っている。とても中学生に見えない見掛けをしているが、中学テニス界最強との呼び声高い、青学テニス部部長、手塚国光、その人だ。
「もうすぐ雨が降る。早く部室に戻って着替えろ。」
部長らしい忠告を彼がする中、四人は四人とも押し黙って国光をとくと眺めた。
「これは…。」
「なんともお誂えむきなのがいたね。」
「か、適わねーな、適わねーよ…。」
「手塚とおチビちゃんかー。へー、意外ー。」
英二たちの経緯不明な感想を浴びて国光はさらに顔をしかめる。
「何の話だ?」
そして彼は軽くあたりを見回した後、彼らに尋ねた。
「そう言えば越前はどうした。」
「ほえ?もー帰っちゃったよ。」
英二が何気なくそう答えると、そうか、とだけ言った国光は四人に背を向けた。それが部室があるのとは別の方へ歩いていってしまうものだから、再び四人の中に憶測の嵐が巻き起こった。
「ほほう。」
「これはこれは。」
「確実ってか、確実ってか!?」
「手塚もおチビちゃん好きなんだー、そうなんだー。」
散々誤解した面々がニヤニヤと、一部がっくりとして話していると、ぽつんとコートに丸い染みがひとつ浮いた。

「うひゃー、降り出したー。」
部室に駆け込んだ赤也の肩は少し濡れていた。部活が終わる寸前に降り出した雨は、今では強く地面を叩き、傘のない者は帰りをどうしようかと悩んでいる。
「どーせ降るなら朝から降ってくれりゃー部活ねーのにさー。」
「んなこと言ってると真田にどやされっぞ!」
軽薄な赤也の言葉にブン太が調子に乗って彼をからかう。言われてみればその通りだ、と自分の失態に気付いた赤也は恐る恐る振り返って真田の様子を窺ってみた。
「…って、あれ。」
ところが予想に反して弦一郎はただ黙々と荷物を片付けているだけで彼らには微塵も気がついているふうではない。それに驚いたのは赤也と一緒になって弦一郎を見ていたブン太も同じことだ。ふたりは顔を見合わせたあと、そっと弦一郎に近づいた。
「おーい、真田ー。」
至近距離でブン太が声をかけるとロッカーばかり見つめていた弦一郎もさすがに気付き、少し目を見開いてブン太と赤也を見下ろした。
「…何だ。」
「いや、何だっていうか…。」
「真田さん、どーしたんスか?ボーっとしてらしくないッスよ。」
そう言われ、弦一郎が周りに目をやると、やはり同じように思っていたのか、幾人かがこちらを見ていた。そんなにおかしいくらいぼんやりしていたのか、と弦一郎は戸惑って目をそらす。するとそのそらした先に立っていた人物がぴよっと言った。
「真田、女でもできたんか。」
仁王雅治だ。彼は食えない笑顔で真っ直ぐ弦一郎を見ていた。同学年だから彼がそういう男であることは分かっていたものの、ある意味言い当てられた衝撃が加わって弦一郎は思わず絶句してしまった。そこで雅治の細目が輝いて、ついと後ろにいる部員たちに目配せする。
「女って、真田さん…まさか、この間の…!」
その視線に気が付いたかは定かではないが、赤也が驚きながらそう言った。どんどん正確さを増していく部員たちの発言に弦一郎はますます居たたまれなくなっていく。
そこで無言でサイドバッグを取り上げる。
瞬間、部室のドアがバン、と開いた。水浸しの道をばしゃばしゃと駆けて行く背中は間違いなく立海大付属中テニス部の副部長だった。
「さ、真田が逃げたー!」
「追うぜ!」
降りしきる雨も何のその、好奇心に火がついた一部部員、内訳すれば筆頭にブン太、赤也、そのふたりを心配したジャッカル、暇つぶしになるかと思ってついていく雅治らは、猛烈なスピードで駆けて行く弦一郎の背中を見失わないように全力で追跡を開始した。


――――――
女の子リョーマなので「おチビ」じゃなくて「おチビちゃん」。
アニメしか観てないので仁王さんの口調がさっぱり分かりません。



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