5. I come here to hit you!


越前家訪問の翌日、不思議なほど全ては元に戻っていた。弦一郎はいつも通りの午前四時きっかりに起きたし、家族にも特に変化はなかった。部活に行けば何事もなかったようにプレイも出来たし、部員たちもいつも通りと変わらず、それは当然のことだが余計に弦一郎を安心させてくれた。だからその日の練習が済んで帰宅する時間にはまるで昨日のことなど夢だったのではないかと思ったほどだった。
そういうわけで弦一郎は普段通りに部室を後にした。すると同輩の柳蓮二、丸井ブン太にジャッカル桑原、おまけに後輩の切原赤也もくっついてくるような形で出てくる。それも別段珍しいことでもなく、そのままぞろぞろと校門まで全員連れ立って歩いた。騒ぐブン太や赤也をたしなめたり、静かに蓮二と話したりするとその男っ気のみの感覚が遠い昔のことのように懐かしく感じられた。そういう意味では嬉しいような、その割りにどことなく悲しいような、なんとも言えない気持ちだ。しかし慣れているものへの気の置けなさには本当に感謝したいほどだった。
やがて煉瓦作りの厳かな校門が近づいてきた。そうか、このまま平穏無事に今日は終わるのか。弦一郎がそう思って最後に残っていた表情の緊張を解いたとき、さっと彼の脇を赤也が走り抜けた。後ろでブン太が何か騒いでいるから、いつものくだらない喧嘩でもしたのだろう。へへっ、と笑いながら駆け抜けていく赤也を見る限り、非は彼にありそうだ。呆れたやつだ、とため息が出そうになったときだった。
「ねえ、アンタテニス部?」
ふざけた赤也が校門を飛び出したところで立ち止まった。予期せぬところで声をかけられ戸惑ったのだろう、校門の柱に向かって間抜けにもぽかん、と驚いた顔をした赤也が見えた。
「は?そーだけど、なんだお前。」
「真田、って人知らない?」
真田さん?と聞き返した赤也が不意にこちらを振り返る。何となく立ち止まっていた弦一郎を取り囲むように、蓮二たちもまた赤也と同じように彼を見てきた。じわじわと、だが確実に胸の辺りがもやもやしてきて、弦一郎は緩んでいた表情をきつく曇らせた。
耳を澄ませばかすかだが聞き覚えのある少し高い声。ハスキーなので少年のようだが、これが意外とそうではないことを弦一郎は知っている。だからこれはもう覆しようのない事実で、自分は観念しなければならない。分かっている。分かっているが認めたくない。そんな、まさか、こんなところで。そうであってくれるな、と心中は激しく祈っていたものの、事実は小説より奇なり、現実は想像より残酷、予想は的中だった。
「いるぜ、ほら。」
赤也が弦一郎を指差した。人を指してはいけないと叱る間もなく、柱の向こうからひょこっと小さな頭が覗く。もれなく白い帽子を被って猫のように釣りあがった目が片方、弦一郎をとらえた。
「え、越前…!」
驚愕の表情で弦一郎が名前を呼んだ。
「…ちっス。」
リョーマは前鍔を握って軽く頭を下げた。
実に奇妙な光景だった。焦ってリョーマのもとまで駆けつけた弦一郎に続いて、蓮二たちもリョーマの周りを取り囲み、また一様に興味津々の眼差しを向けてくる。背の高い男ばかりがぐるりと囲むのでリョーマは実に居心地が悪そうだ。いや、本当は軽く青ざめても居たのだが、弦一郎にはそれを気遣うゆとりがなく、愕然としたまま彼はリョーマを問い詰めた。
「どういうことだ、何故お前がここにいる!」
「真田さん、このチビ誰なんスか。」
弦一郎が問いただした瞬間、赤也が割り込んでそう尋ねた。順番も空気も待てない傍若無人っぷりは彼らしい。が、今だけは本当に迷惑で、弦一郎はカッと目を剥いて赤也を睨みつけてやった。途端にひぃっ、と悲鳴を上げてブン太の後ろに隠れた彼を憐れに思わないでもないが、蓮二たち三年の面々は弦一郎がこれだけ必死なのには相当の理由があるのだろうと思い、特に口を挟むことなく適当に赤也を慰めていおいてくれた。おかげで改めてリョーマに向かい合える、と弦一郎が思ったちょうどそのとき、リョーマが何の前触れもなく言い放った。
「随分な言い草じゃん、許婚なのにさ。」
リョーマの来訪を察した時点から弦一郎の胸の辺りを襲っていたもやもや、もとい嫌な予感がついに、さりげなく、かつ豪快にさらけ出された。
まさに場が凍った。
弦一郎は衝撃のあまり、力が篭りすぎて身動きひとつとれないし、同じく周囲にいたテニス部の面々も、今しがたリョーマから発せられた言葉の意味がすぐには飲み込めず、ぼんやりと立ち尽くしていた。
しかしそれもしばらくのことで、この中で一番冷静な蓮二が「許婚?」と静かに問い返せば、堰を切ったように、今度は驚きの嵐が巻き起こった。
「許婚!?真田、お前そんなのいたの!」
「これはまた…時代錯誤だな…。」
「ま、まあ真田ならありうる気も…。」
「ていうかこいつ女!?」
ブン太、蓮二、ジャッカル、赤也、それぞれがそれぞれの感想を叩きつけてきた。それを一身に受け止めて、弦一郎は息をつめた。
バレた。やってしまった。違う、やられてしまった。辛うじて動く瞳をじりじりと下の方に向ければ、しれっとした顔で騒ぐ立海大の面子を眺める白い帽子がひとつ。しばしの間、彼女を見ていると、すぐに馬鹿騒ぎを見物するのにも飽きたのか、のんきに大あくびなどしてくれた。それがきっかけだ。もともとギリギリまで張り詰めていた弦一郎の堪忍袋の緒が、あっさりと切れた。
「えちぜぇええん!!」
全員鼓膜が破れるか、と思うほどの怒鳴り声だった。そのせいで皆が皆耳を塞いだ。その隙に、息つくまもなく弦一郎は同じように耳を塞いでいたリョーマの腕を取った。そして目にもとまらぬ速度で彼らが遠ざかっていくものだから、蓮二たち四人は耳を塞いだまま立ち尽くすのみで、とうとうふたりの姿などは影も形も見えなくなってしまった。あとに残ったものと言えば、今のは何だ、あの子は誰だ、とどのつまり二人の関係とはどうなのか、等々、たくさんの疑問と好奇心ばかりであった。

宛てもなくとにかく人から離れようとしていると小さな児童公園が弦一郎の目に入った。もう夕方も過ぎようかという時間帯なので人の影はなく、これ以上息んで歩くのも限界だと思った彼はやみくもにそこへ侵入した。そして手近にあったブランコの支柱に手をつくと、詰まっていた分を取り戻すように激しく呼吸をした。その後ろで、滅茶苦茶に引っ張りまわされたリョーマは同様に荒い息を整えながらも、袖をまくって赤くなった腕をさすり、冷めた目で弦一郎の背中を見ていた。
「アンタ、焦りすぎ。力強すぎ。で、やっぱ声デカすぎ。」
「…っ誰のせいだと!」
怒鳴って弦一郎が振り返ると、少しびっくりした様子のリョーマが腕を摩っているのが目に入った。薄暗いのでよく見えないのだが、そう言えばここまで振り返ることなく勝手に歩き回ったから、さぞかしリョーマをひどく振り回してしまったことだろう。今更ながらそのことに気づいて、弦一郎は急激に怒りよりも申し訳なさを覚えてしまった。また無意識にリョーマへ手を伸ばすと、弦一郎は覇気なく謝った。
「すまん、痛かった、な。」
ちょうど指先がリョーマの腕に触れた。
「…いーよ。大したことないし。」
そう言ってさっと手を引っ込め、リョーマは後ろ手を組んで弦一郎に触れられたそれを急いで隠した。そのまま俯き、帽子の前鍔で表情も隠す。怒らせてしまったのかと一瞬弦一郎は慌てたが、しばらくするとリョーマの方から口をきいてくれた。
「…ていうか、こっちこそ、急にごめん。一応アンタの家に連絡取ったんだけど、いなかったし、親父からアンタが立海大のテニス部だって聞いてたから…。」
来ちゃった、と顔を上げて言ったリョーマはどうやら上目を使っているようだ。はっきり見えない分、想像してしまった弦一郎の頭の中が一気に真っ白になった。たとえあまりよく見えなくても声の具合からリョーマがどんな顔をしているかは容易に想像できる。そしてそんなことばかり簡単に予想がつく自分が激しく恥ずかしかった。だから思わず、どうせ見えないだろう顔なのに、弦一郎も帽子の前鍔を触る振りをして己の恥を隠した。
「か、構わん、が、何の用だ。」
何とか言葉を繋ぐと、リョーマはああ、と言ってポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは昨日着ていたTシャツのように味も素っ気も飾り気もかわいげもないただの携帯電話で、リョーマは軽くそれを振って言った。
「アドレス交換してよ。連絡とりたいから。」
がくっと肩透かしを食らった気分で、弦一郎は唖然とリョーマを見下ろした。たかがそんなことか、とも思った。しかしリョーマがじっと待っているので、呆れながらも弦一郎は頷いて自分の携帯を取り出した。そして手元でそれをいじりながら、寡黙な彼らしくもなく、弦一郎は喋りだした。リョーマとだけは、色々余計なことを考えてしまうから沈黙の間を持ちたくないのだ。
「意外と律儀だな、わざわざ本人に聞きに来るとは。」
「アンタの生真面目がうつったのかもね。」
うっかり黙ってしまった。
「ああいうことを、公衆の面前で言うのは、いただけんぞ。」
「そういうことにしといたら都合がいいじゃん。」
どくん、と心拍が乱れた。
「…何の都合だ。」
「アンタとテニスする都合。」
二度目の肩透かしだ。
「…そんな理由でか!」
自分のアドレスを送信し終わったと同時に弦一郎は叫んだ。すると今度は自分のを送る準備をしながらリョーマが弦一郎を見上げた。
「他に理由、いる?」
「…………。」
いる、とは言えない。当然、リョーマの言うような関係の方が自分にとってもありがたいはずなのだから。じわじわ顔を赤くしながら弦一郎はデータ受信を待つだけのディスプレイをじいっと見つめた。そして唐突にパッと明るくなった画面に「越前リョーマ」の文字が浮かび上がると、本物のリョーマはくすりと笑った。
「アンタ、案外やらしいね。」
「ちっ、違う!」
「何が?」
弦一郎は口を開けはしたが言葉が出ない。その間にリョーマは肩を震わせてくつくつと笑い続け、踵で地面を蹴っ飛ばすとそのまま回れ右をした。
「サンキュ、気が向いたら連絡するから。」
またね、と今度は嬉しそうに言ってリョーマは薄暗がりの中に溶け込んでしまった。弦一郎はまた呆然とした頭で、明日部活に出たらどんな憂き目に会うのだろう。そんなどうにもならない心配をした。


――――――
立海ファミリー。良心はきっとジャッカル。

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