4. See you later.


弦一郎が行きとは逆に流れる景色を電車から眺めるころ、外は日の光を失いつつあった。薄い紺と名残りのオレンジに空も街も僅かな間染まる。それも次第に黒に飲み込まれるのを弦一郎は黙して見つめていた。体も精神もほどほどに疲労し、ぼんやりする頭でそれでも思った。あれでよかったのだろうか。

リョーマとの野試合のあと、ふたりが縁側で休みがてらぼつぼつ話しているとしばらくして南次郎が現れた。そろって無駄に汗をかいている少年少女に何をやっているのかと苦笑して、彼は弦一郎だけ誘い出そうとした。ほぐれていた胸のうちがまた緊張するのを弦一郎は感じた。十中八九リョーマのことを聞かれる。そして同時にまだ自分の中に何一つ答えらしいものなどないのに気がついた。それは当然で、せっかく与えられた時間をテニスに費やしてしまったのだから自業自得である。そのことにはすぐ気が付いたものの、彼はひどく焦って、戸惑った。そして挙句、何故かリョーマの方を見てしまった。決して助けを求めたわけではない。ただ、答えを出すにはもっとまともに彼女を見る必要があるのではないか。不意にそんな気がしただけだった。一方でリョーマの頬は心なしか赤らんでいた。ただ火照っていただけか、なんなのかよく分からないが、彼女は一瞬気まずそうに目をそらした後、唇を真一文字に結んで急に立ち上がった。
「親父、ちょっと。」
そう言って父親の手を引いたリョーマが廊下の向こうに姿を消した。何が起こるのかと思えばすぐに、今度はリョーマだけが戻ってきて、彼女は弦一郎の側に立つと相変わらず目を合わせないでぼそりと言った。
「今日は、もう帰っていいよ。」
弦一郎は目を丸くした。南次郎と話さずに帰る、という展開は全く予想していなかった。今日、もう全てに決着をつけなければならないものと思っていたが、そんな覚悟に反して気持ちはついていってなかったし、それに合わせるかのようにリョーマから帰宅の許可が下りてしまったのものだから弦一郎はつい呆然として動けなくなった。見かねたリョーマはと言えば、彼のサイドバッグを取ってくると持ち主に押しつけ返し、そのまま暮れ始めた街並みの中へ弦一郎を放り出した。混乱した弦一郎は上手く言い返せず、おい、とか、待て、とか口先だけの反論はしてみたものの、最後にドンとリョーマに背を押され、振り返った瞬間、リョーマの顔を見るのが精一杯だった。それはまるで何かを堪えるような複雑な顔で、彼女は一言、またね、と少しばかり声を張ると、あとは背を向けて駆け出してしまった。脱兎のような速さだった。
思い返せばそれだけ分からなくなりそうだ。帰りは帰りで心晴れない重苦しい顔をした弦一郎がまたガラス窓の中にいた。そいつを睨んでも何にもならないが、せめて今日自分が何をしにいったのかまで分からなくなるのは嫌で、とにかく意味がなくてもいいから弦一郎は何かをしていたかった。出来ればリョーマを思い出さない何かを。

バスタブに腕を置いて、それを枕に頬を乗せて、リョーマは湯気の中でぼんやりしていた。湯は少し熱いくらいにしたが、何気なく開いて閉じてを繰り返す手のひらの方がよほど熱い気がした。手にまだ彼の背の温もりが残っているのだろうか。ラケットを振るよりはるかに、弦一郎の背中を押すほうが大変だったのだ。
いや、違う違う、とリョーマは誰にでもなく首を振る。すると逆上せかけた頭がくらくらしてまたばったりと腕枕に顔を沈めた。そして熱いと言えばここもそうだな、とリョーマは何気なく頭に手をやった。ここも弦一郎に触れた、いや触れられたところだ。あの瞬間彼はなんとも思っていなかったろうが、その実、リョーマは雷に打ち抜かれたくらいの衝撃を受けていたのだ。
成り行きで弦一郎とテニスの試合をして、完敗して、そして頭を撫でられた。そのあとの記憶などほとんどない。気がつけばふたりで縁側にいて、いつの間にか父親も側へ来ていた。はっきり意識が戻ったのはその直後、弦一郎がリョーマを見つめてきたときだった。やめてよ、と思った。弦一郎の目は戸惑っていて、その割には真っ直ぐで、リョーマは突然追い詰められたような気がしていた。そしてそれだけならよかったのに、とも思った。何故か相反する気持ちが同時に湧いて、実のところ弦一郎よりもずっとずっとリョーマのほうが混乱していたのだ。
弦一郎はリョーマを許婚にするかどうか見定めるために越前家を訪れたのであって、彼の一言で状況はどんな風にも一変しただろう。色々な人の思惑も絡んでいることだから、弦一郎が迷うのは分かる。でもリョーマには彼自身が戸惑っているように見えてしまったし、リョーマもそうだった。短い時間だったけれど一緒にいて、彼は決して不快な人物ではなかった。それにテニスで次こそは勝つ、と宣言した手前、これっきりで会いませんというのは困るし、何より頭を撫でられたときの心地よさがいやに体へ焼き付いていた。
そんなはずないのに。そんなこと、あるはずがないのに。
素直なものの言い方をリョーマは知らないから、あのとき何と言えばよいかさっぱり分からなかった。だが逃げる、というのとはまた違う意味で時間がほしいとは思った。結局、弦一郎の視線にそれ以上囚われているのが苦しくてたまらず、父親に声をかけるふりをしてリョーマはその場を脱した。父親はリョーマの奇行に驚いていたが、彼女がきっぱりと返事とか色々は今度にして、というと一瞬目をむいたあと、ニヤニヤと笑ってきた。顎に手を当てていやらしい顔をした南次郎はわざわざ「今度、ねえ」などと言いなおしてきたが、リョーマは言い返すことすら億劫で顔を背けた。
南次郎の反応は実に鼻に付いたが、少しだけ仕方ないとも思う。弦一郎との「今度」を作ったのはリョーマだ。それもテニスうんぬんが理由ではなくて。揚げ足をとられたら口では違うと言いそうだけれど、心の中ではそのことを認めていた。
もうちょっと、じっくり時間をかけて弦一郎という人間と向かい合ってみたい。それだけは正直な気持ちだ。他意はない。それだけのことなんだ、と言い聞かせているといよいよ逆上せた頭で視界が揺らいできた。ヤバイ、と思ってリョーマは湯船から上がった。

「越前、リョーマ?」
渡された用紙に書いてある名前を慣れないふうにしか読めなかったのは、カタカナの表記を随分無国籍だと思ったためだった。ほとんどの教師が帰ってしまった職員室に呼ばれ、顧問である竜崎スミレにその用紙をもらった手塚国光はこの新入生が何か、と聞き返した。
「そいつはアメリカのジュニア大会で立て続けに四連覇した猛者でね、アタシの知り合いの娘でもあるんだが、恐らくテニス部に入るよ。」
「それはそうでしょうが。」
国光は不可思議そうに言った。スミレの言ったことの成り行きは理解できるが、何故男子テニス部の自分に女子である彼女のことを教えるのかが不可解だった。スミレもそれは承知しているのか、肩を竦めたあと実はね、と切り出した。
「表向きはあんまりの実力者だから、女子テニス部では持て余すだろうって理由だ。だからその子はウチの部で預かることになる。面倒見てやっとくれよ。」
「表向きは、ですか。」
聞き漏らさずに国光が聞き返すとスミレはうん、と頷いて渋い顔をする。
「…リョーマのね、父親に頼まれたんだよ。男子の方でその子を慣らしてやってくれないか、と。」
テニスの腕のことを言っているのなら、スミレがここまで苦しい表情を見せることはないだろう。国光は詳細を聞くため、スミレに勧められた椅子に腰掛けた。

サイドバッグをゆっくり立てかける。本当は放り出したいくらい重たく感じていたが、いつもの習慣が許さなかった。それでも疲労からベッドの縁に腰掛けると弦一郎はすぐ仰向けになった。そして蛍光灯の明かりに手のひらをかざす。今日のことを頭の中で反芻する内に、彼はふと思い出していた。一度目は拒まれたのに、二度目はこの手が受け入れられたことを。激しく動いたあとの体の熱と、ほんの少し湿り気を帯びて柔らかくなった髪の感触がまだそこに宿っていた。あのときはリョーマの挑戦的な瞳に心を奪われていたが、今思い返すと手のひらの感触と一緒に蘇るのは、頬を赤らめて自分を見つめ返していたときのリョーマの姿だ。彼女がどんな気持ちであんな顔をしたのか分からないが、あれほど戸惑っていた弦一郎の目にもあれはひどく魅力的に映ったように思う。
電車の中では男と思っていたものの、器量よしだとすぐに分かった。はっきり言ってボーイッシュだがリョーマは、かわいい。普段は強気な態度や言葉でそれを覆い隠しているが、ふとすると見せる弱ったり無防備だったりの顔がやはり彼女が少女なのを感じさせる。あのまま、周りに誰もいなくて、ずっとふたりで向かい合っていたらどうなっていただろう。宙にかざした手が一瞬、何かを求めるようにうごめき、はっとして弦一郎はその手で自分の額を殴った。実に痛い、がこれぐらいでちょうどいい。自己嫌悪の念がそうさせたのだから。なのに反省の色もなく、また思い返すのは同じ状況で、勘弁してくれ、と弦一郎は頭を抱えた。珍しいことなどそう立て続けにするものではない。今日一日の多大なる苦労のおかげで彼は存分にそう思い知った。
その日はそのまま色々な疲労で半ば意識を失うように眠ってしまい、着替えもしなかったのは、やはり彼らしくなかった。


――――――
離れたら悶々しだしたふたり。

[ 4/68 ]

*prev next#
[back]