3. Don't you embarrass me, please. 「越前リョーマ、十二歳。」 「真田弦一郎、十四だ。」 「十四?もっと歳食ってると思った。」 「…悪かったな、老け顔で。」 弦一郎の返した言葉が気に入ったのか、リョーマは少しばかり口の端を吊り上げた。一方の弦一郎は一体何が起こったのか、まだうまく理解すらできていなかった。 ずっと男だと信じて疑わなかった少年が実は少女だっただけでも十分驚くべきことなのに、その上実は少女だったその人が越前南次郎の一人娘の越前リョーマ、つまり弦一郎の許婚候補だったとは。こうやって頭の中で一応整理は出来るのだが、驚きすぎた衝撃で弦一郎の思考回路のそこから先はほとんどストップしていた。だから話が出来るように自己紹介しようとリョーマに提案されても弦一郎は機械的にしか返せなかったし、不躾なリョーマの冗談にはいつも部員に切り返すような気安い言い方をしてしまった。しかしその程度は瑣末なことで、問題はここから何をどうすればよいのか途方に暮れている今の弦一郎自身だ。そんなかわいそうな彼の様子をてんで気づくことも気にする風もなく、リョーマは頬杖をついたまま彼に話しかけた。 「親父が何言ったか知らないけどさ、気にしないで断ってよ。もともとそのつもりなんでしょ?」 「あ、ああ……いや、待て、しかし南次郎さんにも相当の理由があるようだし、それを汲まんわけにも…。」 「…アンタ、人の話聞いてた?」 「話…?」 弦一郎は眉間を押さえ込んでいた手を放して呆然とリョーマに聞き返した。リョーマはと言えば厳しそうな性格だと思っていたのに随分とぼんやりした態度しか取れない弦一郎を変なヤツと思い、またその意外な一面に一抹の興味を覚えつつあった。リョーマ自身にも弦一郎と幼馴染という記憶はほとんどない。だから今日は初対面のようなものだ。それにしては電車に乗り合わせたときから今までお互い晒すところが多く、もう大分真田弦一郎という人間にリョーマは慣れてしまったような気さえしていた。あまり人付き合いが好きでないリョーマにとってそれは結構なことである。変なの、とリョーマがひとり小さく笑っていると、弦一郎が唐突に頭を下げてきた。彼はいつの間にか神妙な顔つきになっていたのだが、勝手にほくそ笑んでいたせいでちっともそれに気が付いていなかったリョーマはひどく驚いてしまった。 「な、何。」 「すまなかった。」 「だから何が。」 全く何に対して謝られているのか見当も付かないリョーマが聞き返すと、顔を上げた弦一郎がごくごく真面目に言った。 「女だとは微塵も思わなかった、だから何か失礼なことをしたかもしれん。すまん。」 そしてまた頭を下げてしまった彼を呆気にとられて見ていたリョーマは、次第に笑いをこらえるのが苦しくなってきたので慌ててそっぽを向いた。そんな取るに足らないことで真剣に謝る弦一郎の不器用さが面白くてたまらない。また同時にその生真面目さがちょっとくすぐったかった。嬉しい、と言ったら近いかもしれない。 「いーよ、別に。全然気にしてないし、俺あんまり女扱いされるの好きじゃないんだよね。」 やっと笑わずにものを言えたリョーマがそう告げると、弦一郎はそうか、と言って居ずまいを正した。リョーマはその背筋の伸びた姿を見て目を細めた。 変な人、でも多分、いい人。 「ねえ、真田さん。そう言えば俺も言ってなかったね。」 棘のないリョーマの声が珍しい。それどころか今弦一郎が背に受けている午後の日差しのようにその声は穏やかで、どこかうきうきと浮ついた声のようにも聞こえた。もう帽子を被っていないリョーマは長い前髪の間から円くて大きな瞳を緩やかに細め、微笑んで言った。菜々子とはまた違って、むしろこちらの方が妙に目の奥に焼きつくような顔だ、と弦一郎は思った。 「ありがと。電車で、助けてくれて。」 前鍔がないので仕方なく、リョーマは俯いて照れくさくなってきたのを隠した。伏せた睫の間から瞳へ光が漏れ落ちて視界に納まる世界だけは煌いているようだ。やや間を置いて、弦一郎の低い声がぽつんと、礼には及ばない、とだけ言ったのをリョーマはしっとりと目を伏せたまま耳にした。 部屋が暑い、とリョーマが立ち上がって弦一郎の後ろの障子を開けると眩むような日差しの中に一瞬彼女が消えたように見えた。そのまま目が慣れてくると再び細い体の線が蘇ってわけもなくほっとしてしまい、弦一郎は慌ててリョーマが開けたばかりの窓から庭へと意識を移した。そこには古びた建物が少しある。それらが彼の興味を引いた。 「奥は寺か?」 「え、ああ、そうだよ。この家親父の知り合いの住職さんのなんだ。用事で空けてるからその間親父が預かってんの。」 「そうか、いいな、静かだ。」 そうかなあ、とリョーマは弦一郎の感想に賛成しかねる様子で呟く。弦一郎はリョーマの隣に立ってみた。足の裏に感じる温もった板張りの床が心地よく、春の陽気を含んだ風がゆったりとふたりの隙間を縫って流れ込んだ。そのまま寺の方をよく見てみると鐘楼の奥にその場には似つかわしくないが、よく見慣れたものが目に入って弦一郎は驚いた。 「おい、あれはテニスコートじゃないか。」 「うん。親父が勝手に作った。」 借り物の家でそんなことをしていいのかは甚だ怪しいが、テニスと聞くと弦一郎の心が踊る。そのせいで言葉もすらすらと出てきた。 「そう言えばお前もラケットを持っていたな。やるのか。」 「へえ、よく分かったね。そうだよ、打った帰りだったんだ、あの電車に乗ってたの。」 アンタもテニスするの?と付け加えたリョーマの目はしっかり輝いていた。弦一郎が頷き返せばニヤリと笑ったリョーマの次に放つ言葉は決まっていた。 「ちょっと、打ってかない?」 ネットを挟むと相手がよく見える。それは目に見えるものではなくて、力量が感じ取れるということだ。自分に及ぶヤツか、そうではないか。たとえば今日電車で絡んできた奴らはリョーマの敵ではなかったろう。テニスでならボコれるのになあ、と今思えば口惜しい。 それはさておき、では今目の前にいる奴はどうだ。リョーマはラケットをどちらの手で持とうか悩んだ。中途半端な実力のものを相手にするならば右手で十分だが、あの黒い帽子の男にそれが通用するとは、どうにも思いがたかった。多分、弦一郎は強い。構えを取っただけでアンタ武士か、と言いたいほど隙がない。アメリカで幾度もジュニアの大会を荒らして回ったリョーマでもあまりああいう人物に巡り合ったことはなかった。だから今リョーマは肌がびりびりするほどの予感を持っていた。相手の実力のほどが測りきれないのだからまずは小手調べすべきだ。行くよ、と声をかけてからリョーマは左手でトスをした。 ボールを追ったリョーマが飛んだ瞬間、あの小さな体が何倍にも大きく感じられて、弦一郎の体に一際力が篭った。肩の振りぬき方が素人でもなければ女の癖あるものでもなかった。リョーマは弦一郎が思っていた以上にテニスを知っている。サーブが弾丸のようなスピードで足元に食い込んだ。強力、だが打てる。そう確信してラケットを振りぬこうとした瞬間、これは勘としか言いようがなかったが、過ぎった違和感に何故か体は半歩退いていた。その脇を寸でのところで逆まくボールが飛び上がり、頭上へと過ぎ去った。弦一郎の視界は明るくなっていた。 「ごめんね。」 呆気にとられていた弦一郎の耳に、ちっともすまなそうではないリョーマの声が入った。見れば彼女はラケットで肩をとんとん叩きながらこちらを指差している。 「帽子、飛ばしちゃってさ。」 リョーマの指先は、正確には弦一郎の足元を指していて、そこには彼の黒い帽子がひっくり返って風に震えていた。仰け反った姿勢のままだった弦一郎は真っ直ぐ立つと帽子を拾った。土ぼこりを軽く払ってリョーマに「構わん」と言ってから改めてそれを被る。ぎゅっと力いっぱい被って自分に気合をこめた。らしくないが、やはり油断していたらしい。リョーマの見た目や性別にとらわれていた自分が恥ずかしかった。 「たわけが。」 自分にそう言って弦一郎はサーブのタイミングを計るリョーマに向かい直った。次こそはあのツイストサーブを打ち返す。そういう鋭い目をしてみせた。 ビシッと土が跳ね飛ばされたらリョーマの膝から急に全部の力が抜けた。へたり込むなんて父親との勝負でも滅多にしないのに、悔しいと思っても立てたラケットに縋って上半身を支えることすらやっとだった。 「大丈夫か。」 声をかけられて見上げると、ちっとも疲れた素振りさえ見せない相手にリョーマは大きな瞳をギロリとくれてやった。それでも勝負は決したし、結果は変わらない。完敗だった。 リョーマが弦一郎から取れたポイントは最初のサーブひとつのみ。あとは悉く打ち返されるかノータッチエースさえ何度もやられてしまった。弦一郎は本当に、リョーマが足元にも及ばないと思わせられるほどに強かった。 「…初めて。」 リョーマが俯いて言った。 「何がだ。」 拗ねているのだとしたら仕方ないやつ、と弦一郎は少し呆れた様子で尋ねた。 「親父以外に負けたの、初めて。」 リョーマが顔を上げた。すると弦一郎は呆れるのをやめて、代わりに軽く笑みを浮かべる。リョーマも笑っていた。それも挑戦的で野心に燃えるような顔。これはまず間違いない。いい顔だ。証拠にリョーマは弦一郎の手も借りずに立ち上がるとラケットを振りかざして彼をビシリと指した。 「アンタ、次は負かすよ。」 越前リョーマ、とんでもない女だ。リョーマの自信と可能性に満ちた言葉に軽く圧倒されるのを覚えながら弦一郎は低いところにある瞳を見つめ返した。 「せいぜい精進しろ。」 そう言ってリョーマの頭を軽く撫でた。 ―――――― 手塚より先にリョマさんの初めてを持って行ったまさかの真田。 [back] |