2. Who are you?


「ねえ。」
弦一郎は歩いていた。駅に着き、見慣れぬその構内に少し戸惑いつつ表に出た。渡された住所のメモと走り書きの地図を頼りに彷徨いつつもどうやら正しい道を行っているらしい。とにかく黙々と歩いていた。それだけだった。
「何でついてくるの?」
「…付いていってるわけではない。」
それだけなのに何故か曲がる角も渡る橋もことごとくあの謎の少年と同じだったのだから、むしろそう尋ねたいのは弦一郎の方だった。

あれから泣き出しはしなかったものの少年は何も言わず、弦一郎に背を向けたままひたすら電車のドアとにらめっこしていた。弦一郎としても、もう放って置いてもよかったのだが袖擦り合うも多少のなんとやら、やはり少年のことが気がかりで、反対側のドアを背にしてずっと彼を見守っていた。駅に着くと少年も同じところで降りたので少し驚いたが、彼はすぐ軽快に駆け出していったので、もう大丈夫か、と安堵したものだった。
ところが慣れない街を五分も歩いていると弦一郎は再び少年の背中を見つけてしまった。そのあとも一体どういうわけか、弦一郎には少年を追いかけていたつもりはないのに、何故か行く先々に彼の背中があるのだ。その小さな背中も人通りが少なくなってくるとずっと背後に居る弦一郎に気がついたらしい。しばらくは我慢して何も言わなかったがついさっき、とうとう痺れを切らして尋ねてきたのだ。
昼過ぎの閑静な住宅街で小さな少年と大きな弦一郎が対峙するさまは妙な緊迫感をたたえていて、いっそ滑稽だった。どちらも訳が分からないのだ。これまでの経緯が果たして偶然なのか、そうではないのか。それでも昼の眩しい太陽は刻々と傾いてしまう。ふたりとも先に進むより他なかった。

少年がある家の門に手をかけたので、弦一郎も思わず立ち止まった。そして弦一郎が立ち止まるので少年は彼を見上げた。
「ここ、俺ん家なんだけど。」
「そうか。」
促されたように思って弦一郎は手元のメモを見た。住所はこの辺りに詳しくないのでよく分からないが、地図を見る限りでは明らかにこの近辺が目的地であるのは間違いないようだ。とりあえずこの目の前の家屋に住んでいるなら地の利があるだろう少年へ弦一郎は住所を書いたメモを見せてみた。
「ここに行きたいんだが、知らんか。」
しばらくメモを見つめたあと、少年が弦一郎に向けてきた目は実に胡散臭いヤツ、と訴えていた。
「……なんで、アンタうちの住所知ってんの?」
「お前の…?」
状況が飲み込めない弦一郎と、何故だかうんざりとした様子の少年が向かい合って立ち尽くしていると、門の奥にある玄関ががらりと開いた。
「おー、リョーマ遅ぇーぞ。…っと、あれ、ひょっとして弦ちゃんか!」
扉の中から現れたのは黒の甚平を着崩し、ぼさぼさの短髪に無精髭を生やした、少々だらしない風貌の男性だった。中年を過ぎたところだろうか、その割にははつらつとしたようすで、彼はひょいひょいと飛び跳ねながら弦一郎たちの元へやってきた。
「かー、弦ちゃんってばまあデッカくなっちまって…、昔はこのチビすけとそういくらも変わりゃしなかったのによー。」
時の流れってのは恐ろしいねえ、と言って男は少年の頭を帽子ごとぐしゃぐしゃに掻き回した。やめろ親父、と少年が悲鳴を上げるのを聞き流しながら弦一郎は居心地悪く感じつつも尋ねた。
「あの、南次郎さん、でしょうか。」
「おーおー、そーよ。『ナンジロのおじちゃん』よ。」
越前南次郎、元プロテニスプレイヤーであと一歩のところで獲れた世界ランク一位を目前に突如引退をした謎の天才。弦一郎が持っているこの男、南次郎に対する知識など一般的なその程度のものだった。だから今こうしてそんな大物に気安く話しかけられているのが信じられなかったし(このだらけらおっさんが本当にあの伝説の南次郎なのかとも思うし)、正直、弦一郎には南次郎に「弦ちゃん」などと呼ばれるような覚えがなかった。祖父が言うには弦一郎が幼かった時分、親とアメリカに旅行へ行った際、南次郎に会ったのだという。そのとき彼のプレイを見て痛く感激したからこそ弦一郎はテニスを始めたそうだが、当人は物心が付いた頃にはラケットを振り回していたのでそんな由来にむしろ驚いた。そしてその折に今回許婚として候補に挙がった女性、南次郎の一人娘とも弦一郎は会っていたそうだ。歳が近かったこともあってアメリカに滞在中はよく遊んだと聞かされたがそういう記憶もやはりさっぱりなかった。
とは言え一応そういう流れが前提にあるのだと自分に言い聞かせて弦一郎は改めて南次郎を見た。彼はまだけらけら笑いながら少年の頭を撫でている。さっき「親父」と呼んでいたからこの少年は南次郎の息子なのだろう。そうすると彼の姉あたりが自分の、と考え付いたところでようやく当初の目的を思い出してまた気分が沈み始める。が、弦一郎は不意に顔を上げた。視線だ。見下ろせば案の定、少年がじっとりと彼を見つめていた。父親に嬲られた頭は帽子も髪もぐしゃぐしゃで迫力など欠片もないが、とにかく彼はすこぶる不機嫌そうで、ただただ腹立たしそうに弦一郎を睨んでいる。父親からの微笑ましい暴力の八つ当たり、にしては些か理不尽な気もする。しかしながらそんなことに構ったところで状況を打破できるわけではない。刺々しい眼差しはとりあえず捨て置き、弦一郎は咳払いをひとつして南次郎に話しかけた。
「それで、南次郎さん。あの、本題なのですが…。」
「おお?あー、そうだったな。まあ立ち話もなんだから上がれや、弦ちゃん。」
南次郎はあっさりと弦一郎の言わんとするところを察したらしい。にこやかに手招きをした彼はさっさと家の中に入ってしまった。弦一郎も仕方ないのでそれに倣おうとしたが、戸口では依然として仏頂面の少年が通せんぼをするように立ちはだかっている。どいてくれないか、と言っても彼は相変わらず弦一郎を睨むばかりでどうしようもない。彼も越前家の人間であるならきっと弦一郎のことを話くらいには聞いているだろう。確かに、必ずしも自分の兄弟の許婚候補を手放しに喜んで迎えられる、などということはないだろう。そんな風に彼の気持ちを察した弦一郎は、仕方なくため息混じりにぽつぽつと話した。
「そう、不機嫌な顔をするな。お前の気持ちは分かるし、俺だって本当は許婚なんて嫌なんだ。」
「え…何それ。」
弦一郎の本音で一転、少年が不思議そうな顔をした。怒りはどこかへやってしまったようで、彼は首を傾げて素直に言い返してきた。
「俺、アンタが大喜びで来るって親父に聞いてたんだけど。」
「まさか、こちらこそ先方が是非にと言ってきたと聞いたぞ。」
ふたりはしばらく黙った。当人同士の腹のうちなどやはり分かるものではない。この期に及んでそれぞれの言い分が捻じ曲げられたのが分かって弦一郎も少年もほっとしたような、やりきれないような、何ともいえない気分を味わう。その内先に深い息を吐いたのは少年の方で、彼は体をずらすと門を開いて弦一郎に道を譲った。
「そういうの、ちゃんと親父に言ってよね。」
「そうするつもりだ。」
果たしてあの奔放そうな男が落ち着いて聞いてくれるかどうかはともかく、弦一郎はやっと越前家の敷地内へ一歩踏み込んだ。

案内された客間は畳張りで、静かな庭に面しており、なるほど見合いだとか内々の大事な用事にはぴったりの場所だと思えた。いや、冗談ではない、見合いなんてことになってたまるか。逃避しそうになる頭の中の自分をしっかり掴んで、弦一郎は南次郎と対峙した。相変わらず彼はちゃらんぽらんな態度ではあったが、段々と弦一郎の真剣さに押されたのか、やれやれと呟くと徐に目の前の座卓へ肘を置いた。
「よう、弦ちゃん。うちの、気に入らないか。」
「いえ、決してそういうことでは、大体まだまともに会ってもいませんし。そうではなくて俺が言いたいのは…。」
「まあ十四そこらで嫁さんのこと考えろってのはキツイとは思うけどな。」
許婚なんて嫌なんだろう、と見透かすような目で問われ、弦一郎はぐっと唸った。そう、まさにその通りなのである。そして南次郎はどうやらそんなことは承知していたようで、弦一郎の態度をやっぱりな、と言って笑い飛ばした。それからふっと黙った彼は今度は弦一郎よりも真剣な眼差しに転じると、軽く身を乗り出しながら言った。
「でもな、弦ちゃんよ、俺はこればっかりはふざけて言ってるわけじゃないんだぜ。お前さんはガキの頃からよく出来た子だったし、今もお前のじいさんから話を聞く限りじゃ立派なやつだ。うちのには勿体無いくらいだとも思ってる。だからこそ俺はあいつをお前に任せらんねえかと思うのよ。お前だったら、ってな。」
それは圧倒的な信頼だった。どうして、もう何年も会ってない弦一郎に大事な娘を任せようと思えるのか。その理由は定かではないが、ともかく彼は明らかに弦一郎を信頼していて、その事実はてこでも動きそうにないようだ。ここまで言われると弦一郎は何と返せば良いか分からなくなってしまう。流されて南次郎の期待に応えたくもなるし、頑として許婚なんてまだ早いと突っぱねることも出来る。だが、どちらかの選択をとるだけの十分な理由が今ひとつ弦一郎にはない。そうしてしどろもどろ押し黙っていると不意に南次郎の背後の襖が開いた。
「おじさま、お茶です。それと…。」
スッと開いたその向こうには髪の長い清楚な女性が居た。年は弦一郎より少し上か、穏やかそうで感じのいい人だった。
「おー、菜々子ちゃんサンキュウサンキュウ。」
先ほどまでの深刻さをコロッと投げ捨てた南次郎がチャラチャラと言った。そんな彼にもふんわり優しく笑う菜々子と呼ばれた女性は弦一郎にも目をやると微笑み、軽く頭を下げた。一瞬心臓の飛び跳ねた弦一郎は慌てて頭を下げ返したが、俯いた隙に思った。状況から言って彼女がその、許婚なのだろう。予想の斜め上を行く美人であったのは嬉しいが、彼女が出てきてはいよいよ引き返せないのだという気がしてじわじわと冷や汗が垂れるのを感じた。するともう居たたまれなくて顔も上げられず、弦一郎はひたすら膝の上で作った握りこぶしを睨んだ。
「ほーら、こっち座れって。なんだもっと色気のある格好すりゃあいいのによう。」
上げられない頭の向こうで南次郎が立ち上がり、代わりに誰かが座る気配がした。断罪の時が近づいている、そんな心地だ。胃が痛い瞬間なんて生まれて初めてかもしれない。次第と握った手まで震えるのが情けなく、もういっそこのまま逃げ帰ってやろうかなどと飛躍したことを弦一郎が思い始めたころ、ぽんと肩が叩かれた。はっとして弦一郎が叩かれた先を見上げると南次郎が庭からの光を背に受けて彼を見下ろしている。不思議とそれは懐かしいような感じであった。
「久しぶりなんだ。とりあえずまともに会って、話のひとつもしてみろ。それでも万に一つもこいつを受け入れられないと感じるようならそう言ってくれていいからよ。」
じゃあ、後は若いおふたりで〜、と決まり文句をふざけて言い残し、南次郎は庭に面する障子の向こうに消え去った。拒否する余地を与えられたからか、南次郎を見送ったあとの弦一郎は比較的落ち着きを取り戻していた。言われてみれば彼はほとんどと言っていいほど許婚となる相手のことを知らない。覚えはいないがどうやら幼馴染のようなものらしいし、ほんの少し言葉を交わすくらいはしてみてもいいかもしれない。何より会わない内から嫌だ嫌だと言うのはみっともないし、相手に失礼なことだ。冷静さが戻った頭が常識的なことを次から次へと提案し、結局弦一郎はわりと気楽な気持ちで机の向こう側に座る人を振り返った。
「案外根性ないね。」
そこには期待していたあの長く綺麗な髪もなければ、心落ち着くような微笑もなかった。代わりに待ち受けていたのはやたらと低い座高に緑がかってさらさらとした短い髪、つりあがって生意気そうで、そのくせどんぐり眼の大きな瞳と憎まれ口しか知らない小さな口元。さっきまで着ていたジャージはさすがに脱いでいたが、どの道今着ているのも味も素っ気も飾り気もかわいらしさもないTシャツ。それでありがたかったことと言えば、薄手の服のおかげでようやくその骨格や性別上の身体的特徴が明らかになったことくらいか。別に目を見張るほどもないが、それを確認して弦一郎が言えることはひとつだった。
「お、お前…女か!」
思わず机にバン、と強く手をついた。ついでに軽く腰も浮かしてしまい、もう存分に全身でその驚きを表してしまうとあの少年、もとい少女もさすがにムッとしてこう返した。
「誰も男だなんて言った覚えないんだけど。」



――――――
まったくです。

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