1. Toward the end of March, in a train


真田弦一郎はその日、彼にしては珍しいことだがひどくそわそわしていた。部活の午前練習が終わるや否や、早々と帰途に着こうとした姿はきっと他の部員たちに訝しがられたに違いない。その反応さえ推測の域を出ないのは彼がいかに茫然自失としたまま行動していたかを露にしている。
サイドバッグを激しく揺らしながら飛び乗った土曜の電車はがらんと空いていた。普段使わない路線なのでそれが当たり前なのかどうかは分からない。それどころか目的のプラットホームを探すのに手間取ってしまい、危うくこの電車を逃すところでさえあったのだ。
まったくロクなことがありはしない。息が落ち着き始めると、弦一郎は若干浮いた黒い帽子の前鍔をぐっと握った。襟足にうっすらと感じる汗が鬱陶しい。もう四月目前、全力疾走したあとだから仕方のないことだとは思うが、嫌だと感じるのをどうすることもできない、それも事実だ。
どうして自分は今、縁も所縁もなかった場所へ向かっているのだろう。見えなくなりだした神奈川の海を見つめていると余計気分は鬱屈とし始めた。

その話はもう一月も前にもらっていた。家の離れで座禅を組んでいたらいつの間にか側に祖父が立っていて、何事ですかと聞けば彼は好々爺のように笑って言ったのだ。

「今時、許婚などと…。」
うっかり声に出してしまい慌てて口を塞ぐ。と、ガラス窓に映る情けない顔をした自分と出くわした。実にたるんどる。そう思って、弦一郎はムッと眉間に皺を寄せ、怯む心まで引き締めた。
弦一郎は小さい頃から祖父にひどく懐いていたから、口調が些か古風だ。そのために周囲からはお堅い、とか、古臭い、とか言われたい放題であるし、一分の隙も彼はなくそういう気質の男だと思われている。
けれどそう言ったところで中学生で十四歳。弦一郎だってありがちな少年らしいところはいくらも持っている。それが突然許婚になる人が決まったから会いに行って来い、というのは彼にとって、それこそ時代錯誤もいいところだった。確かに真田の家は祖父も父も早くから結婚相手を決められていた。しかし弦一郎に対して今までそんな話は微塵もなかったし、実際祖父に許婚のことを告げられるまで家族の誰も、そんなものへ興味も示したことはなかった。
廃れた風習だ、と思っていた自分が間違っていたのだろうか。電車の揺れと共にじわじわとそんな考えが弦一郎の心を揺すぶりだした。おかげで何度も、知らず知らずのため息が出た。そのたびに口元を引き絞って、でもまた弛んで。
そんなことを何度も繰り返していると、急に、少しばかり周りがうるさくなったことに弦一郎は気がついた。

「どーよ、この俺のスイング!」
ブンッと空気を断ち切って振られたのはテニスのラケットだった。
それが目に入った瞬間、弦一郎の沈んで落ち着いていた気持ちはふつりと沸きだし始めたのだ。
彼の目前では電車内にも関わらず、ラケットを振り回して笑う青年ひとり。それを取り巻く同じく青年ふたり。そしてその脇で容赦なく四方八方に飛び交うラケットの脅威に晒される白い帽子の少年がひとり。けたたましく笑う青年の脇で、帽子の少年は辛うじてその暴力を避けながら、小さな体をさらに小さくして反対側のドアに背を預けていた。彼の表情は帽子の鍔でほとんど見えないがきっと困っているだろう。どう見てもあの体格では小学生かそこらだ。大して青年たちは明らかに高校生以上で、傍目にも少年は不憫な状況だった。
それも少々弦一郎の正義感を煽ったのかもしれない。あとは憂さ晴らしと、何より公共の場で、それも弦一郎の愛するテニスの道具を冒涜するかのような狼藉をしでかす奴らへの腹立ちが大半。
それらを理由に彼はずいと歩み出ると、真っ先に青年の振り回すラケットを掴み上げた。
「やめんか、貴様ら。」
「あ?何だテメー…うわっ。」
ラケットを取り上げられた瞬間、三人の青年がいっせいに睨みをきかせて振り返ったのも束の間だった。彼らの振り向いた先では、彼らの何倍も厚い覇気を放つ弦一郎が睨んでいたのだ。青年たちはまたいっせいにたじろぐ。雑魚が、と弦一郎は軽く鼻を鳴らして思った。伊達に一喝のもと、大勢の部員を纏め上げる鬼の副部長をやっているわけではない。彼は取り上げたラケットのガットを軽くノックしながら言った。
「愚か者が。こんな狭いところでラケットを振り回しおって、人の迷惑というものを考えろ。」
「それもあんな下手くそな素振りでね。」
弦一郎の低い諭す声に、面白がるような調子の高い声が急に混じった。当然弦一郎も青年たちも驚いた。そして見やった先には間違いなく、帽子の前鍔を握って、不適に笑った口元を覗かせた背の低いのが立っていた―さっきの少年だ。
しばらくして弦一郎たちを包んでいた驚きが消えうせると、青年たちは一気に標的をその少年へと絞ったようで、あっという間に弦一郎へ背を向けるとすっかり少年を取り囲んでしまった。中学生だてらに百八十もの長身を誇る弦一郎には敵わないと見たのだろう。弦一郎の喉が一瞬ひくついて、笑い声が漏れ出そうになった。その潔さというか、情けなさというか、いや、そうではなくて弦一郎がそのとき思わず笑いそうになったのは少年の言葉のせいだった。「下手くそな素振り」とはまさにその通り。弦一郎もちょうどそれを指摘してやろうかと思っていたところだったのだ。よくよく見れば少年が持っているサイドバッグはラケットが三本も入れられるサイズのもので、どうやら彼もテニスに関してある程度の心得があるようだ。
そして何よりさっきまで押し黙っていたのが嘘のような少年の度胸がよかった。見ず知らずの子供に思わぬ好感を抱いて、機嫌良く笑いを押さえ込んだ顔を上げた弦一郎はその瞬間、また目を疑った。
青年たちが少年の帽子を取り上げたせいで、今度はよく見えるようになった彼の表情が、あまりにひどく蒼白としていたのだ。大きな瞳は泳いでいて、小さな口元は絶え間なく震えていた。折角の器量よしがもったいない、とすら思える。強気そうな顔立ちに似合わない怯え方を目にすると、そんなもの見たくもない、という衝動が湧いた。だから弦一郎は咄嗟に青年の手から帽子を掠め取ると、少年の頭に乱暴に被せて、彼を自分の背後に匿った。
「やめろっ。こんな子供によってたかって、恥を知れ!」
キンと耳をつんざく怒声に青年たちが一気に怯む。もう一度弦一郎が強く睨むと、もうそのプレッシャーに堪えられなかったのだろう、青年たちはすごすごと別の車両へと逃げ去っていった。そしてその車両には、もう弦一郎と少年の他に誰もいなくなった。
くっきりと窓の形をして射し込み、車内の床を昼の明かりが流れていく。ガタン、ガタンという規則的な音と相まって、逆に静かで心地良く、ほっと弦一郎は息をついた。それと同時にとんとん、と背中が叩かれるのを感じた彼は、身を捩って後ろに首を巡らせ、下に目を向けた。
「潰れてるんだけど…。」
そう文句を溢す先に、弦一郎の背とドアにぎっちりと挟まれ、身動きが取れないでいるあの少年がいた。ああ、と言って弦一郎がどいてやると、少年は適当に被せられて歪んでいた帽子をきっちり被り直した。そして目深なそれでまた表情を見せることなく、彼は口を開いた。
「アンタ声デカすぎ、力強すぎ。耳も頭も体もどこもかしこも痛いよ。」
言って彼は右肩ををぐるぐると回し、首を二、三度鳴らした。弦一郎はと言えば、呆気に取られてそのさまを見ていた。助けてやったのになんという言い草か。それにさっきまであんなに怯える小動物のように振舞っていたのが、今は百獣の王か、何様か。言いたい放題なのは生意気な後輩たちのようでもある。
しかしながら彼の態度の変わりようが、弦一郎にはいっそ異様なほどに思われてならなかった。どちらの態度も不自然さはなかったのだが、その両方を同じ人間が数瞬の間に示してみせたのが不思議だった。二重人格か、と思わず言いかける。しかし結局言葉にしなかったのは、行きずりの他人事にあまり首を突っ込むものではない、と思い至ったためだった。
それはともかく、今の少年が取った態度はやはり問題がある。お節介と言えばそうだが、弦一郎は無遠慮に、一言だけ言葉を返した。
「それは悪かったな。だがお前も悪い。分かるな?」
冷静だが、なかなか重みのある声だった。丁寧に問い掛けたのは弦一郎の年上らしさのおかげだったのかもしれないが、一方で。
「…さあ。」
と答えた少年は、結局肩を竦めただけだった。言っても無駄のようである。弦一郎はやれやれと首を振って放り出していたサイドバッグを取り上げた。所詮他人だ。もう会うこともないだろう人間に構えるほど、弦一郎は暇ではない。
「…まあ、いい。今度から気をつけろよ、坊主。」
厄介ごとのあった場所は気に食わない。そう思って立ち去ろうとしたとき、弦一郎は少年の頭に手をやろうとした。悪意も何もない。無意識でのことだった。
が、弦一郎の手に走った感触は鋭い痛みだった。バシン、と手が弾かれたのだ。目をむいた。それと同時にいくばくかの怒りも湧いた。
仕方なかった。感謝の言葉はもらえなくても構わないが、礼としてこの痛みはいただけない。いくら何でも失礼な子供だ。行きずりでも少し叱るくらいはした方がいいかもしれない。それはきっと彼のためになるはずだ。弦一郎は膝に手を当て、少年と目の高さを合わせてやった。
「おい、坊主…。」
ある種の親切心、そんなつもりだった。ところが少年は弦一郎の行動に気が付いた様子もなく、搾るような声で訴えあげた。
「…触んないで!」
弦一郎が何事か言う間もなかった。少年はそう叫ぶと必死に大きすぎるジャージの袖で目元を拭う。それを見てしまっては、弦一郎にはもう言うべきことが何か分からなくなる。一体自分が何をしたというのか。
今はもう窓の方を向いてしまって、その雰囲気からして拗ねているような彼を見た弦一郎は、ぼんやりと思った。
本当に、不可解な少年だ。


――――――
真田だって男の子。
だからコンビニでジャ○プだって買う。
と聞いて母親とふたりで「嘘やー!」と叫びました。

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