16. Together, we are alright.


真田弦一郎のテニスは神速も持ち味のひとつだが、この逃げ足の速さは一体何だ。三十分近くもテニスガーデンの中を駆け回ったが一向に消息が掴めず、暴言を吐きながら景吾は顎に伝った汗を拭った。
「大体、手塚ァ!テメエが出てこなきゃこんなことにはならなかったんだよ。」
景吾が振り返ると息も乱さずついてきている国光がいて腹立たしい。そもそも何故自分の後をついてくるのか、鬱陶しいこのこの上ないではないか。けれど国光はしれっと言った。
「お前をひとりにしたら越前に何をしでかすか分からないからな。」
平静な顔をして随分なことを言う。唖然としたが景吾は鼻を鳴らすと腕を組んで国光を見下すような視線を送った。
「何だよ、あんなガキにご執心じゃねーか。どうやらテメエの言ってた許婚ってのはあながち嘘じゃねえようだな。」
「それはお前が言えた義理か?」
不思議そうに小首を傾げる国光の様子が憎たらしくて景吾は黙れ、と一喝した。

弦一郎が手渡そうとした缶を落とした。それを見事にキャッチしてリョーマは平然とプルトップを開ける。ファンタがいいと言ったけれど運動の後にそんなものは体に毒だと怒られて、結局スポーツドリンクに落ち着いた。けれど確かに走った後の喉には染み渡って気分がいい。快適なため息をリョーマがつく一方、弦一郎は衝撃の余りまだリョーマの目の前で呆然と立っていた。
「許婚、それも…手塚だと…!」
「うん、さっきも言ったじゃん。」
「何故だ!」
「俺が知るわけないよ、親父が勝手に決めたんだもん。」
ほんと相変わらず声デカイんだから、と小言をもらすリョーマは冷静で、弦一郎はその方が寧ろショックだった。
「お前、それでいいのか?」
思わず尋ねるときょとんとしたリョーマが、直後缶を一瞬メキッと言わせて声を荒げた。
「はあ?そんなわけないじゃんっ。絶対ヤダよ!そうでなきゃ部長と試合なんてしな…、あ。」
「…手塚と試合?」
聞き返すとリョーマが目をそらした。そのまま何でもないように缶の中身を飲み下すが、あからさまに目が泳いでいる。弦一郎はしばらくその様子を見ていたが、自分の缶をリョーマが座っているベンチに置くと両手の拳でリョーマの頭をがっちり挟み込んだ。力を入れれば途端にリョーマから悲鳴が上がった。
「いだっ!いだだだだだ!真田さんちょっ、まっ、ほんとに痛い!」
「痛くしておるのだから当たり前だ!お前はこの期に及んでも俺に隠し事をするつもりか!」
しばらく足をばたつかせて抵抗していたものの、弦一郎の腕力に頭が割れると思って観念したリョーマが降参と叫んだ。聞き届けてすぐに放してやると頭を抱え込んでリョーマは蹲った。少しかわいそうだがこういうことは早いうちから正していかなければならない。自分と付き合う以上、誰にも隠し事はさせないと決めている。話すか?と弦一郎が尋ねると頭を押さえ込んだままのリョーマが、それでも渋々といったようすで頷いたので、弦一郎はやっとリョーマの隣に座った。

リョーマは見つからないが、これ以上部員たちを放っておくことは出来ず、国光は景吾と分かれて元のテニスコートへ向かっていた。とは言え日差しが強く、あの小さな子はバテていまいかと心配だ。林で作られたブロックの角を曲がると線路が近くなり、電車の通る轟音が響いた。あの日が思い出される。高架下はもっとうるさかったけれども。
五月も末のことだった。リョーマに呼び出されて向かったテニスコートで勝負を挑まれた。1セットマッチ、リョーマが勝ったら許婚の話はなしだ、という条件だった。
自信に満ちていたあの表情が印象深い。電車が通るたびに巻き起こる人工的な風に揺れる髪の隙間から鋭い瞳が煌いていて、多くの人が彼女に惹きつけられるのも頷けると思った。もちろん宣言しただけの腕を彼女は持っていて、青学テニス部に入ったばかりの頃に比べると格段に強くなっているのが分かった。正規の試合には出られないものの、自分が気に入った選手は一々捕まえて勝負を挑んでいたそうだから、リョーマは手塚の知らないところでどんどん成長していたのだ。けれどこの煌きが手元から離れていくのはあまりに惜しい。
試合が長引くにつれ、手の内を晒し出した手塚にリョーマがついてこれなくなる。リョーマの口癖ではないが、まだまだだ。お前はまだここにいるべき存在だ。誰もがそれを望んでいるんだ、と伝えたい一心で打った最後の一球がリョーマのすぐ脇を射抜くように駆け抜けた。

弦一郎は額を押さえた。リョーマは話し終わると不貞腐れたような顔をしたが、そんな顔をする権利はない。弦一郎はうんざりしながらも叱り付けるための息を深く吸った。
「この…たわけ!お前が手塚に敵うわけがなかろうが!」
「なっ…そんなのやってみなきゃ分かんないじゃん!」
「現に完敗して許婚の話を断れなくなったお前が言うな!」
そのものズバリと言われ、リョーマは唸って大人しくなった。
試合の前に条件を出したのはリョーマだけではなかった。リョーマが勝って許婚の話を帳消しにするのなら、国光は自分が勝ったら自分を許婚だと認めるようにと申し出ていた。そのせいで今日も氷帝学園の跡部景吾に(彼は反抗的な態度を取ったリョーマを気に入ったとか何とかで彼女を追い掛け回したのだが)追い詰められたリョーマを助けがてら、国光が自分はリョーマの許婚だと言って景吾を黙らせようとしたとき、それを否定しきれなかった。
どうしてこんな目にあっているんだろう。リョーマは項垂れて唇を尖らせた。すると弦一郎から奪ったまま被っていた帽子を彼に奪い返された。そして自分の帽子を無くしているのに気がついた。頭を押さえると弦一郎にも自分の帽子はどうしたのか、と聞かれた。
「分かんない、落とした、かな。」
「俺にぶつかったときにはもうなかったと思うが。」
するとここから随分遠くで落としたことになる。お気に入りだから探しに行くつもりだが些か面倒だ。あーあ、と大儀そうな声を上げると弦一郎が立ち上がった。
「探しに行くか。」
「え…一緒?」
「お前のせいで今日を棒に振ったからな。」
大きな手を差し伸べられてリョーマの気持ちが急上昇した。弦一郎が一緒なら面倒でも話は別だ。やった、と言ってすっくと立つと現金な奴めと小突かれた。
弦一郎の一歩はリョーマにとっての一歩半だ。並んで歩くと分かったことで、そんなことが実は初めてであることに苦笑した。
「何を笑っている。」
目聡い弦一郎にあっさり見つかった。頑張って歩幅を合わせながらリョーマは首を振った。
「ううん、別に。それにしてもどうしようかな、部長のこと…。」
「南次郎さんと、手塚にも俺が直談判してやる。」
繋いだ手に力が篭って弦一郎の気合のほどが伝わった。覗き込んだ横顔が試合前かと思うくらい険しい顔で、リョーマからまた笑いが零れた。
「だから何故笑う。」
「え、うん、まあ、嬉しいってコト。」
軽く駆け出したリョーマが繋いでいる方の手にもう片方も重ねて引っ張ると、弦一郎の表情が緩んだ。あ、絆された、と微笑んでリョーマは再びぴったりと寄り添って弦一郎の隣を歩き始めた。


――――――
第一部終了、というところです。
まじ部長どうしてくれよう。



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