15. Let's run away, far away as we can.


やはり手塚国光は強かった。誰もがそういう感激を抱くか、テニスの心得がある者なら武者震いのするような試合だった。多くの強豪校が偵察に来る中、氷帝学園の部長、跡部景吾と青春学園の同じく部長、手塚国光の試合は、両者譲らない技巧の高さが飛び交ったものの、ついには中学テニス界最強と呼び声高い手塚国光がその名に恥じない強さを示してその幕を閉じた。
「今年の青学は手強いかもしれないな。」
立海大付属中テニス部を代表して一緒に試合を観戦した蓮二が喜ばしそうな顔でそう言った。かたや、そうだな、と返した弦一郎は早々にコートへ背を向けた。全てを見届けた今ここにこれ以上用はない。歓喜に沸く青学の熱気と敗北の屈辱を跳ね除けるように響く氷帝の声援、どちらも鬱陶しかった。そう感じた一瞬、靴の爪先がきゅっと音を立てて行き詰った。平静ならばそんなことを思うはずもないのに、と自分への疑いが弦一郎の足を鈍らせてしまい、ついでに未練たらしい首が俄かに背後を振り返ってしまった。
馬鹿馬鹿しい、何がここには用はない、だ。本当は試合後の無意味な場より何より、青学側のベンチの側にいる白い帽子を見ていられなかっただけではないか。
正直、弦一郎は偵察に来るのを少しだけだが、ためらった。とは言え部活のことと私情は切り離している。だから決心して来たものの、いざ彼女の姿を目の前にすると思ったより気が散った。何度たるんどる、と心の中で叫んだことか。今日は、本当にそういう私的な事柄とは無関係の身なのだ。それを示すためにも早くここから立ち去ろうと思った。それなのにそのことさえ冷静な自分を失っていたからだったのだ。まるで恥の上塗りだった。居たたまれない、その感情が鈍っていた足を突き動かす。弦一郎は今度こそ歩み出した。
そして弦一郎のすぐ側に佇んでいた蓮二は、彼の一部始終を見届けると一度だけ青学のベンチを振り返った。爽やかな青と目を刺すほど眩しく白いあのジャージの一団が群れをなして彼らのリーダーを取り囲んでいる。それは何でもない、団体で勝利を勝ち取る経験をしたことがある者なら誰でも知っている光景だ。そんなものに弦一郎が歩みを一度でも引きとめるはずがない。だから原因はきっと一際背の低い、遠目では絶対に少女だとは気付けない彼女に違いあるまい。相変わらず分かりやすい男だ、と蓮二は密やかに笑った。苦笑だった。近頃弦一郎と越前リョーマが接触していないらしいこと、幸村のこと。両方鑑みるとそんな笑顔しか出てこなかった。けれど蓮二は何も言わず弦一郎のあとを追った。

関東大会の会場はさすがに広く、出口が見えたのは歩いて十分近くも経った頃だった。弦一郎は終始無言で、それは別段珍しいことではないが彼の気が散っているのは明白だ。歩く速度がまちまちにになっていた。本人は気付いていないだろうが、三年間彼と苦楽をともにしてきた蓮二にはそのことの重大さが分かっていた。
そんなに、あの越前リョーマが気にかかって仕様がないというのか。そう思って顔を上げると最近日差しがじりじりと厳しくなっていることを蓮二は改めて感じた。あの少女と弦一郎が出会ったのはこの日差しがまだ穏やかだった頃で、その程度の付き合いが目の前の不屈の男をこんなにも揺るがしているのが不思議でならない。
ところがこの日差しの変化すら感じられないでいるだろう幸村は、今までずっと弦一郎と一緒にいたというのに友達のままでいる。どうして、何が違うのか。蓮二ですら気付いている幸村の本心を弦一郎だけが知らない。今まではそれでも仕方ない、きっと時が経つにつれどうにかなることだと見守っていた。けれど事態はあまりにも急速に変わってしまい、聡明な蓮二が出しゃばってはならないと思う隙もないほどだ。
いや、黄色い花の言葉は友情であってほしい。本音はそんなところだ。三人で並んで笑って歩いていた頃が懐かしくて仕方がない。そういう蓮二の中に湧き上がる感傷染みた焦りが迂闊にも親友の名前を呼んだ。
「弦一郎。」
しかし呼び止めても弦一郎はすぐに振り返らなかった。そのまま数歩先に進んでしまい、そして立ち止まった。似つかわしくなく緩慢な動作だった。こんな油断を容易くする奴ではなかったのに、また言い知れない不安が連二の中でゆらゆら立ち上る。
そんなこととは露知らず、同じようにゆっくり振り返ろうとしたとき、弦一郎の胸の辺りに軽い衝撃が走った。ぶつかった衝撃で飛んだ白い帽子が風に乗って随分遠くに落下して、弦一郎が見下ろしたのはあの緑がかった短い黒髪だった。
「……リョーマ?」
激突した鼻を押さえて二、三歩退いた顔はやはりリョーマだった。彼女も彼に気付きくぐもった声で真田さん、と名前を呼んだ。あまりに久しぶりで何と言えばよいか検討もつかない。弦一郎が戸惑って動けないでいると、リョーマはバッと後ろを振り返ってげっと唸った。そして弦一郎を振り返ると久しぶりの余韻もなく噛み付くように言った。
「真田さん、隠して!」
と言ったリョーマが彼の背に回って開けっ放しのジャージに頭を突っ込んだのと、リョーマが走ってきた方向から立て続けに氷帝学園の跡部景吾、樺地崇弘、青春学園の手塚国光が突っ走ってきたのはほぼ同時だった。彼らは目ざとくも弦一郎たちとその陰に隠れるリョーマを見つけ、立ち止まると弦一郎たちに詰め寄った。
「よお、立海大の真田と柳じゃねーの。おい真田、その背中に隠れた女、よこしな。」
「いや、こちらに引き渡してもらおう。」
景吾と国光が交互に言い寄ってくるが、生憎弦一郎は状況が把握できていない。背中にしがみついたリョーマは絶対ヤダと言うし、そうこうする内に景吾と国光がにらみ合いを始めた。
「テメエはすっこんでな、手塚ァ。俺はこの女に大事な用があんだよ。なあ、樺地。」
「…ウス。」
「ほう、越前を口説き落とすのが大事な用とは、随分と暇なようだな、跡部。」
「何だと…!」
火花を散らす二人は収拾がつきそうにない。他人が白熱しているのを見ると逆に冷静になるもので、弦一郎はジャージの中に潜むリョーマに声をかけた。
「おい、これはどういうことだ。」
「知らない…いきなり跡部さんがやって来て、俺のこと捕まえようとして、でも今度は部長が来て、ふたりが喧嘩するから馬鹿らしくなって帰ろうとしたら樺地に見つかって、跡部さんがすごい勢いで追いかけてくるからびっくりして逃げたらアンタにぶつかった。」
そうか、と相槌を打った弦一郎を蓮二は首を傾げて見つめた。何がそうか、なのか。あんな説明で納得がいくのか弦一郎よ、などと言ってやりたい気は山々募るが、蓮二の中からさっきまで溜まっていく一方であった不安は不思議と消えうせていた。むしろ今度は興味と疑問が頭の中を占めていた。それは今まさに弦一郎のジャージの中に頭を突っ込んで纏わりつく越前リョーマという、滑稽ながら驚くべき光景を目にしたためだった。
弦一郎の許婚である越前リョーマは男性恐怖症の気があるらしい。それは憶測だが確信に近かった。まだ弦一郎とリョーマが出会って間もない頃に起こったある騒動を蓮二は人伝えに聞いたことがあった。駅の構内で不良に囲まれた後、正気を失って誰彼構わず彼女は荒れ狂い、相手を拒んだという。弦一郎さえその例に漏れず、そう言えばその頃、学校で見かけた彼が頬に傷をつけていたことを思い出すとその光景が思い浮かばれて空恐ろしいと蓮二は思ったものだ。その場に女性が居合わせなかったから憶測は絶対には成りえない。けれども初めて彼女を目にしたときも、よくよく思い出せば無害にも近い立海テニス部の面子が近寄っただけでリョーマは顔から血の気を引かせていたのだ。対人恐怖症かと言うと、あまり彼女のことに詳しくはないが、青学テニス部には馴染んでいるようだし、弦一郎にもすぐに懐いたようだからそれは違うだろう。リョーマの異変とそれを引き起こしたと思われる人物たちの共通項など、全員が男であったことくらいなのだ。だから蓮二は自分の推測は決して的外れでない自信がある。
唯一の例外があるとすれば、やはり目の前のともすれば込み上げるおかしさで噴出してしまいそうな弦一郎の格好に潜んでいるわけだが。
蓮二は笑いを腹の底に隠して弦一郎に歩み寄った。そして彼のジャージを捲って蓮二は小さな面倒事に問いかけた。
「つまり、とりあえず全員君が目的ということか。」
弦一郎にひっついていたリョーマが多分、と答えた。それも素っ気なくて、返事だけ一応するとリョーマはじりじり体をずらして蓮二の目に映る範囲から逃れようとする。もちろん弦一郎からは一瞬も離れずに、だ。その甘えた仕草を見てしまうと、やはりさっき自分が忠告しようとしたことはもう手遅れなのだと、やたらと素直に悟ることが出来た。
ジャージの裾を離してやると、ほっとしたのかリョーマが弦一郎に抱きつき直すように動いたのが見えた。弦一郎はと言うとこれがされるままになっているのだから蓮二の隠しておいた笑いがまた飛び出しそうになる。皇帝の名が廃ると罵ることも出来るだろうが、生憎そんな意地の悪い性分では蓮二はないし、この二人の間に蓮二や幸村でもが割って入ることのできる隙がまだあるのなら、とっくに弦一郎がリョーマを振り払っているだろう。彼は彼で結構プライドが高い。それがなし崩しになっている様を見せ付けられてはもはや出る幕など、きっとあるまい。
幸村を思うと後ろ髪が引かれるが、おいおいそれとなく話して聞かせてやるしかないだろう。最後の友情でそれくらいはしてやってもいい、この裏切り者め。こっそり弦一郎をねめつけて、蓮二は肩を竦めた。やかましい先を見やれば景吾と国光の毒の吐きあいがまだ続いている。けれど景吾より幾分冷静な国光が次第に弦一郎の方へ目を流し始めているようだ。やれやれ、と言って彼は弦一郎に声をかけた。
「それで、どうするんだ弦一郎。」
「何故俺に聞く。」
外野とでも思っていたのか、蓮二からの唐突な質問に弦一郎が理不尽だと言わんばかりに顔を顰めて振り返った。つられてジャージからひょっこり顔を出したリョーマを見て、蓮二は微笑んだ。リョーマも微笑みかけられて、瞬間はぎょっとしたが、蓮二の穏やかな雰囲気にすぐ緊張を解くと自分も深く微笑んで弦一郎を見上げた。それを見届けた蓮二は改めて弦一郎を見ると笑顔のままさらっと言った。
「馬鹿野郎、決定権はお前にあるんじゃないのか。」
平素は決して口汚くない親友にまさか罵られて弦一郎は目を剥いた。それと同時に下から迫る強い視線に気付いて見下ろせば、いつになくじっと見上げてくるリョーマの瞳とかち合った。
いい顔をしていた。覚悟を決めたような、さっぱりしたリョーマの顔は何か訴えようとうずうずしているようでもあって、期待に満ちた顔はいつか弦一郎を負かすと宣言したあの日を思い起こさせた。
勝負を挑んでいるんだ。挑発の眼差しだと気付くと体の奥が疼いて、この小生意気を説き伏せたい衝動が競りあがってきた。流されるべき情がある。そして我慢して付き合ってやるべき瞬間が待っている。直感は割りと冴えているほうだ。あとは直球で行くしか術は知らないけれど、もう、いいだろう。
「……蓮二。」
ジャージの中からリョーマを引っ張り出して弦一郎が親友を呼んだ。白々しさを感じたが、それでも蓮二は笑ってくれていた。
「うん?」
「…後を任せてもいいか。」
「ああ、たまにはそうしろ。」
すまん、と呟いて弦一郎がリョーマの手を掴むと、きゅっと握り返してきた。
跡部さん、と樺地に促されて彼が振り返るとリョーマを連れて駆け抜けていく立海大のジャージが夏の風に翻っていた。

景吾のヒステリックな怒号が背中を叩いてくるのがいっそおかしかった。走って走って、何を目指しているのかは分からないが、弦一郎の手が引っ張っていく先を疑うこともなくリョーマはついていった。我慢しきれないおかしさが笑いになって時々道の上に零れ落ちていく。段々膝が笑い出して、呼吸さえも苦しいくらい息が上がった。でも愉快な気分がなくなることはなかった。結局勢いをなくして立ち止まったのはテニスガーデンのさっきとは反対の出入り口付近で、数キロメートル駆け抜けたことが分かるとテニスで鍛えていてよかったと思えた。膝に手をついてぜえぜえやっているとさすがの弦一郎も息が上がったのか、近くのポールに軽くよりかかって同じように荒い呼吸を繰り返していた。繋いだ手が解けそうで、リョーマは慌てて息も絶え絶えのまま弦一郎に飛びついた。
初めて自分から、まともに抱き締めた体が大きくて、背中に回した手が届ききらなかったのに驚いた。彼はかすかな汗の湿り気といっぱいの太陽の匂いがした。
「…熱い。」
ドクドクいう体の中の音を心地よく聞きながらリョーマが呟いた。
「だったらくっつくな、愚か者…。」
「ヤだ。」
何気ない叱責にはっきり言い返してやると弦一郎が小さく息を呑んだ。くすくす笑ったリョーマは弦一郎が何事か言いだす前を狙って精一杯背伸びをすると彼の帽子を奪い取った。そしてそれを前後ろ逆に自分で被り、ポケットに手を突っ込んでリョーマはステップを踏むようにして彼の側を歩きまわった。
「ねえ、真田さん。アンタ、俺のこと好きでしょ。」
隠す手段を奪われてあからさまになった弦一郎の顔が面白い。自分の周りをくるくる回るリョーマに何か言おうとして一歩彼が踏み出す。だからリョーマも前へ駆け出すと、自分へ手を延ばそうとしていた弦一郎の首に飛び上がってしがみついた。
くくっ、と笑ったリョーマは弦一郎の体にぶら下がってほとんど浮いた足を片方ぷらぷら揺すりながら告げた。
「俺もね、アンタのこと好きだよ、真田さん。」
嬉しさと敗北感が同時に押し寄せて、弦一郎は声が出せなかった。してやられたのだ、この機嫌よく彼に抱きつく小さな少女に。一生の不覚、と思う反面こうでもしないと自分だけではどうにもならなかったのではないかという気にさせられて、弦一郎は悔しさにうんと顔を歪め、思った。
駄目だ、やはりこんな風につらつら言葉が出ないのだ、自分は。行動では示せるのに情けない。幸村に、弦一郎には分からないと言われた理由が少し分かったような気がした。
体の浮きそうなリョーマのために少し屈んで抱きしめ返してやると至極嬉しそうな笑い声が耳元で上がった。あれだけ遠いと思っていた距離がもうこんなに近くなっている。
ああ、俺はこいつが好きなんだ。ようやくそんな実感が弦一郎の中で湧いていた。

――――――
いきなり関東大会まで話吹っ飛んだ…。
べさま出したくて早まったか。

ちょっと加筆修正しました。雑すぎたので。



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