13. Suddenly came the hurricane!


中間テストの期間には部活動の自粛が促される。それは青春学園テニス部でも例にもれないもので、早く家に帰ってテスト勉強しろよ、とホームルームの終わりに担任が言ったまま、リョーマは挨拶が終わるとさっさと鞄を取り上げた。そして教室の後ろのドアに手をかけたとき、計らったようにバン、とそれが開いた。
「わ!リョーマさま!ちょうどよかった!」
どうやらリョーマと同じように驚いたようだが、それに臆することもない元気さはこの小坂田朋香特有のものかもしれない。向こうもホームルームが終わったところか、それにしては素早い到着だが、彼女は依然呆気にとられたままのリョーマの手をとって目一杯笑った。
「リョーマさまっ、遊びに行きましょう!」
リョーマが反論を言う隙もなかった。繋いだ手を放すことなくくるんと振り返った朋香は猛スピードで廊下を駆け出し始めた。リョーマの体は角を曲がる度、左右にぶんぶん振り回され昇降口で靴を履きかえるため立ち止まったときには胃から何か逆流してきそうな気がして声も出せなかった。
「リョーマさまっ、どこ行きます?あ、ゲーセン行ってプリクラ撮りません?」
リョーマさまとの愛の記録、などと叫んで分厚いプリクラ帳を引っ張り出した朋香を見るとリョーマから深いため息が出た。すると隣からおずおずとした声がかかる。
「リョ、リョーマちゃん、やっぱりスポーツショップなんかのほうが、いいかな…?」
鬱陶しいながらも尋ねられたほうを向くと眉尻を下げて相変わらず頼りない顔をした竜崎桜乃がリョーマを覗き込んでいた。おどおどした姿を見るといつもなら適当な言葉でからかってやりたくなるが、今は生憎そんな気分ではない。
「別に、ていうかどこにも行きたくな…。」
「あ!リョーマさま、アイス食べましょう!」
またも反論を阻まれた。歩いていた歩道の先に見つけたアイスクリーム屋に向かって、再びリョーマと桜乃の手を掴んだ朋香が弾丸のように突っ走り始める。振りほどくにも随分とパワフルな彼女の手は強敵だ。朋ちゃん、と悲鳴のように友人の名前を呼ぶ桜乃をちらりと見て、朋香こそテニス部に入ればいいのに、とリョーマはぼんやり思った。
いざアイスクリーム屋に到着してもいいことはなかった。既にうんざりしているのに、適当に朋香に任せて注文したアイスクリームがサービス期間だかなんだか知らないが三段重ねで余計うんざりした。土台がコーンで三段なんて物理的にどう食べればいいか分からない。店の前に置いてあるベンチに三人で並んで座り、リョーマはただその背が高いアイスクリームを眺めた。色もオレンジやピンクと派手で毒々しい。あ、と情けない悲鳴が聞こえたら案の定、隣で桜乃が一番上のアイスクリームを食べ損なって落としていた。
「もー、何してんの桜乃。」
世話焼きの朋香が立ち上がってティッシュを手渡してやった。そして桜乃のアイスクリームを持ってやって、その間に桜乃はスカートに零れたアイスクリームの一部を半泣きで拭った。はあ、とまたため息をついてリョーマは呟いた。
「ドジ。」
「ううっ…。」
「まあ桜乃だし、しょーがないですよ。」
そうかもね、とリョーマが相槌を打つと桜乃はまた弱弱しく唸っていたが、朋香は器用に自分と桜乃のアイスクリームを持ったままずい、とリョーマの顔を覗きこんできた。
「…何?」
怪訝な顔でリョーマが聞くと、朋香は小首を傾げた。
「んー、リョーマさま元気出たかなーと思って。」
そうでもないか、と残念そうに言って朋香は後始末を済ませた桜乃にアイスクリームを返した。そして何事もなかったようにリョーマの隣にぽすん、と座った彼女を、今度はリョーマが凝視した。
「どういう、意味?」
「え?あー、だって最近リョーマさま全然元気ないから、桜乃のドジ見たら元気にならないかと思ったんですけどー。」
「と、朋ちゃんそれで私も呼んだの…?」
そう、と元気一杯に朋香が親指を立てて桜乃につきつけた。途端本格的な泣きに入りそうになった桜乃を慌てて朋香は宥めにかかったが、リョーマは顔を顰めたまま見向きもしなかった。腹のそこでムカムカと湧いてくるよく分からないもののせいで急速に機嫌は悪くなっていく。さっと立ち上がったリョーマは脇に置いてあった鞄に手をかけ、すると不意にアイスクリームを持っていた手が軽くなった。
「おチビちゃんアイス溶けちゃうよーん、もーらいっ!」
振り返ると茶色の髪を跳ねさせたやんちゃな風貌の少年が、既にリョーマのアイスクリームを舐めにかかっていた。
「あ、菊丸先輩…。」
「あー!リョーマさまのアイスー!」
「こら、英二!」
朋香の非難の声と共に、少し離れた書店からバタバタと駆けつけて英二を叱りつけたのは大石秀一郎だった。だが彼の忠告にもあくびれることなく英二は笑った。
「だっておチビちゃん全然食べてなかったからさー。大丈夫だって、一口だもん。」
そう言ってはい、とアイスクリームをリョーマに差し出した英二に再び秀一郎と朋香の罵声が飛んだ。
「そういう問題じゃないだろう!越前をびっくりさせたんだからちゃんと謝るんだ、英二。」
「ていうかそれをリョーマさまが食べたら間接チューじゃん!」
それを聞いた英二は尚のことげらげらと笑って言い返した。
「まさかー、おチビちゃんそんなこと気にしないってー。」
軽薄な言葉を散々もらす英二に秀一郎と朋香はやっきになってまた何事か訴えた。一方ヒートアップする周囲に怯えた桜乃がリョーマに縋りつきにいくと、彼女はリョーマの沈黙に気がついた。それが怒気だと分かるとひやりとして、桜乃はリョーマの名前を呼んだが遅かった。だん、と力いっぱい地面を踏みつけたリョーマに驚いて騒いでいた三人はぴたりと大人しくなった。
「…いい加減にしてよ。人のことで勝手にぎゃあぎゃあ騒いで、何で…。」
握り締めた鞄の持ち手がぎゅう、と音をたて、リョーマは乱暴に朋香や桜乃を押しのけると足早にその場を立ち去ろうとした。それを止めようと朋香がリョーマの腕を引っ張ったが、それも粗野に振り払ってリョーマは叫んだ。
「…もう、放っておいてよっ!」
背後の全員を睨んでリョーマは駆け出した。鬱陶しい。何もかも、まとわりついてはリョーマですら分かっていないリョーマ自身のことをさも知っているように語って、腹立たしいといったらない。どうでもいいやつに限ってそうだ。そして分かってほしい人は何故か一番分かってくれない。人と関わるのってなんて面倒臭いんだ。もう嫌だ。
駆け抜けながらずっとそんなことをループするように考え続け、息が切れると夕日で一面眩しい土手にやって来ていた。今日一日天気が良かった。どうでもいい日は晴れるくせに、世界の全部が敵みたいに思えた。はあはあ、と荒い息を整えながらリョーマは夕日を、赤い空を、赤に染まった鉄橋を、薄い朱色に煌く川を順番に睨み倒していった。そして河原に視線を移すと力任せに腕を振りぬき続ける人影を見つけて、あ、と小さく声がもれた。
102回目の素振りをしたとき、一度リズムが乱れた。腕を止めた海堂薫が土手の方を見ると階段にちょこんと座り込んだ生意気な顔が見えた。
「…何見てんだテメェ。」
「…いいじゃないッスか。気にしないで続けて。」
「気が散る。帰れ。」
そう地を這うような声で呟いて薫は再び腕を振り始めた。長い腕が繰り出すスイングは迫力があって、けれど淡白で単調で、そいうものを見ているとリョーマの乱れた気持ちは落ち着きを取り戻していった。あまり人に絡む性質ではないこの少年は、普段ではリョーマとそりが合わず衝突を繰り返すが、今のリョーマにはその淡々とした接触がありがたい。誰かと関わるのは鬱陶しいけれど、同時に人恋しい。本当にちょうどいい人がいたものだ、とリョーマは機嫌を直して薫の動作を見守った。
バックハンドもちょうど200回振って終えると、薫は汗を拭って空を見た。随分夕日が遠くなった。薄い青と紺色が空を蝕み始めている。
「靴紐、解けてるよ。」
ずっと大人しかったリョーマが唐突に言った。薫が足元を見下ろすと確かに右足の靴紐はだらしなく垂れている。うるせえ、と返してしゃがんだ薫はぎゅっと強く紐を縛り上げながらちらりとリョーマを見た。
「いい加減帰れ。」
「ケチ。」
「馬鹿野郎、暗くなってんだろ。」
え、とリョーマは顔を上げた。じっと薫ばかり見ていたので周囲の変化には気付いていなかった。確かに、あれだけ赤く光っていた川がもう黒ずんでいる。対岸の家並みに明かりが灯り、帰らなければいけないんだ、と感じられた。リョーマは無言で立ち上がり、階段を上ろうとして一度足を止めた。
「先輩って素直じゃないね。」
「あ?」
いつもの調子を取り戻したようなリョーマの言葉に薫が睨み顔を向けると、リョーマは薄く笑っていた。
「暗くなると危ないから早く帰れ、ってそこまで言えば済む話じゃん。」
「…ウルセー、男なんざ皆こんなもんなんだよ。」
吐き捨てるように言って柔軟体操を始めた薫の表情は暗さが邪魔して見えないが、リョーマはきょとんとして、そして軽く俯いた。そうなんだ、と小さく呟いたのが薫には聞こえ、彼は顔を上げたが、リョーマはもう土手に上がっててくてくと歩き出していた。
近頃少し様子がおかしいと思っていたが、今日は大人しいながらもわずかばかりにいつもの調子を取り戻していたように感じた。生意気なくらいがやはり越前リョーマらしい。それはそれで問題だが、と薫は苦笑して遠ざかるリョーマから目を離した。

薄暗い土手をとぼとぼ歩きながらリョーマはしまった、と思っていた。がむしゃらに走ってここまで来たので今ひとつ、どう帰ればいいのかが分からない。大体の方角は予想がつくが暗いのが痛い。風景の詳細が分からないとどこで曲がるかなど判断がつけにくいのだ。今更引き返して薫に聞くのも格好悪いし、どうしようか、と立ち止まっていると後ろから自転車のベルが聞こえた。振り返ると自転車が慌ててリョーマを避け、ふらついたので止まって声をかけてきた。
「おいおい、危ねーな、危ねーよ…ってあれ?」
「あ、桃先輩。」
「何やってんだよ越前、お前ここ通るんだったか?」
「ちょうどいいや、桃先輩。乗せて帰って。」
そう言ってさっさと後ろに跨るリョーマにぎょっとして武は反論しようとしたが、小さな手に肩を掴まれると急に声が喉の奥に引っ込んだ。早く、と図々しく催促してくる後輩に何か言ってやるべきだとは思う。けれど軽い体重の重みと柔らかい手の感触に抗えず、武は素直にペダルを踏みしめた。
「桃先輩って優しいッスよね。」
「な、何だよ、急に。」
住宅街に入る前の最後の信号で止まるとリョーマが突然そう声をかけた。武が後ろを見上げるとリョーマは前方を見つめているだけで拍子抜けしたが、彼女はそのまま話を続けた。
「みんな、お節介だけど優しい。誰も頼んでないのに心配してくるし、桃先輩なんか結構俺のわがまま聞いてくれるし。」
信号が青になった。足に力を込めるとチェーンがギッと音をたてる。油を差したほうがいいかな、と思いつつ、武はリョーマの言葉に対して不思議そうに返した。
「んなもん、みんな越前のこと気に入ってっからだろーよ。それに別にお前わがままじゃねーだろ。」
俺の下の兄弟くらいじゃねーとわがままとは言わねーよ、と武は笑った。それにリョーマは半ば驚いて武の耳もとに顔を寄せた。
「ほんと?」
「へ?」
あまり急に声が近くなったので武が横目にそちらを向くと、見たことないほどリョーマの顔が側にあった。
「俺、わがままじゃない?」
いつもは生意気につりあがった目が今は丸く見開かれていて、ぱちぱちと瞬きをする度、彼女の睫毛がぱさぱさと小さく音をたてるのまで聞こえた。息が詰まった。多分、これ以上見ていたら窒息死する。慌てて前を向いた武は大声でおう、と返事をした。
自転車の加速で体を取り巻くように流れていく風を受けて、はらはらと遊ぶ短い髪をすり抜ける涼しさが心地いい。同じように風に乗って全身に届いた武の肯定が嬉しくてリョーマはそっと微笑んだ。
「じゃあ桃先輩も俺のこと好きなんスね。」
「なっ…!」
元々かけようとしていたブレーキを急激にかけてしまい。前のめりそうになった自転車を武は急いで足で押し留めた。が、幸か不幸か、その反動をもろに食らった背中のリョーマがぎゅっと武に抱きついた。落ちるまいと咄嗟の行動だったのだろうが、武の思考を混乱させるには十分だった。首に回された手が少し苦しいのだが、首筋に当たる頬の柔らかさとかふわっと漂ったリョーマのほのかに甘い香りとか服越しに接触した体の小ささとか、全部が目の前をくらくらと歪ませた。
「うわ…びっくりした…。」
呟いて元の位置まで姿勢を戻したリョーマは、ふと自分からならもうかなり人に、男性に触ることが出来るようになったものだと感心した。前なら抱きつくなんてもっての他だったろうが、考えてみれば部活では英二が隙あらば飛びついてこようとするし、武の自転車に乗せてもらうようになってからも随分経つ。慣れたんだ、と感慨深くさえあった。それもそうだ。この間だって抱きしめられたのに大丈夫だったのだから。
そう思ってはっとした。そして首を振った。嫌になる。油断するとすぐ思い出すのだから、この頭はどういう構造をしているのだろうか。はあ、と息を吐いてリョーマは自転車を降りた。けれど少し、思い出しても前より心苦しくない気がする。何だか彼のことがいくらか分かった気がするようで、不思議だ。ちょっとゆっくり彼のことを考えようかな、と気持ちが持ち直している。白くて大きな背中を見つめていたときの気分がじわりと体のなかに滲み出してきて、恥ずかしいが、ああ、でもやっぱり、と尖っていたものが剥がれ落ちていく。
言えば良かったのだ、あのとき、理屈に依らないで衝動に身を任せて。だって仕様がない、自分は彼のことが。
「す、好きだ!」
え、と声をあげると夢想から帰ってきたリョーマの目の前に自転車を乗り捨てて立ちはだかる武がいた。今浴びせられた言葉の経緯が分からずリョーマが首を傾げると、武は業を煮やしたようにリョーマの肩を掴んでもう一度繰り返した。
「越前、俺…お前が好きなんだよ!」
ぎゅっと力の篭る手に恐怖が募った。肩に置かれた手をなけなしの正気でリョーマが放すよう引っ張ると、そうされまいと反対に武がリョーマを引き寄せた。他人の肩に顔を埋めたのは二度目だけれど、今度は前のような安堵感も高揚感もなかった。ただ、怖い。
「あ、い、嫌だ!」
震える手でリョーマが武を突き放したとき、冷静な声が二人にかけられた。
「越前、桃城…?」
はっとして二人が同じほうを振り向くと越前家の門の内で少々驚いた面持ちの国光が立ち尽くしていた。
「ぶ、部長…!」
「え、何で手塚部長、が俺ん家に…?」
「お前たちこそ何を…。」
瞬間全員が絶句した。誰も、何か言えようはずがなかった。武は赤面しているしリョーマは青ざめていた。そして国光は無表情だったが大分落ち着いたので状況が大体把握できてしまった。間の悪いことだ、とため息をつくと、今度は国光の後方からひょうきんな声がした。
「お。遅かったじゃねーかこの不良娘が。」
「親父…。」
「今日早く帰って来いっつったの忘れやがって。」
そう言えばそうだった、とリョーマは急に今日を振り返った。教室を出ようとしたら朋香に捕まって、連れまわされて、構ってくれる人たちから逃げて、だけど寂しくてぶっきらぼうな先輩の側で時間を潰して、優しい先輩と一緒に帰ってきたのに、変なことを言われて、怖くなって、やっぱりまだ男の人って苦手だ、と肩を落とした。ああ、もう男の子なんか嫌いだ。
「せっかくお前の新しい許婚紹介してやろうと思ったのによ。」
まあちょうどいいか、と言った南次郎が今、何かおかしなことを口走らなかったろうか。は、と呟いたのはリョーマだけではなかった。武もそうだったし、声こそ出さなかったが国光にも一瞬緊張したような気配が漂った。
「ちょ、っと待ってよ、親父。誰が、何だって…。」
うん?と応えた南次郎は笑って傍らの少年の肩を叩いた。
「だから、国光くん。お前の新しい許婚な。」
言葉の理解を頭が拒絶するのでリョーマは機械仕掛けの人形のようにぎこちなく首を巡らした。見上げた国光は少し気まずそうな顔をしていたが、眼鏡に軽く手をやったあと頷いた。
「そういうことになった。よろしく頼むぞ、越前。」
目の前が真っ白になった。そんな気がしてふらついたリョーマは家の塀に縋って何とか立っていたが、全く状況が飲み込めず、放心していたせいで武が悲鳴じみたものを上げながら逃げ帰ったのにも気がつかなかった。


――――――
なんかますます愛米展開。



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