10. Why don't you hold me tight?


雨の粒がぱたぱた傘の表面を叩く音ばかりが聞こえた。新緑に包まれた公園の中を通る遊歩道を行けば駅まで近いと教えられ、リョーマは色違いのブロックを敷き詰めた道を黙々と踏みしめていた。雨を吸ったもので溢れる風景はどんよりと重たい色に包まれていて、気が晴れるものと言えば道の両端を埋め尽くす整備された木々か、もうひとつあるとすれば数歩先を同じく黙々と歩くだけの弦一郎が着ている、あの白いTシャツくらいのものだった。会話はなく、歩くばかりはつまらないのでそういうものを交互に見比べてみる。けれど、弦一郎の背を見て、Tシャツの白を眺めていると顔が熱くなってくるので辛い。つい数分前まであの中に飛び込んでいたことがありありと蘇るのだ。苦しくならないわけがなかった。
あれから今まで弦一郎とは何も言葉らしいものを交わさずにいる。
あのとき、抱きしめあうことに飽きることはなかったが、お互い半分正気に戻ってくると逆に身動きが取れなくなった。何を言えばいいのか、いつ離そうかなど細々考えれば考えるほど自分たちを客観視してしまって恥ずかしさが募った。羞恥に対する我慢も限界になったころ、ふたりの後ろにあった障子の向こうから弦一郎の母親が呼びかける声がしたので、それをきっかけにふたりとも慌ててお互いを突き放した。そうしたら弦一郎は呼びかけられた方へさっさと立ち去ってしまったので、リョーマは深い茶の色をした冷たい廊下にぽつんと取り残された。けれどどんなに廊下が寒かろうとそのときのリョーマには何でもなかった。上がった心拍数は体中に脈々と血液を送ってくれ、全身すっかり火照ったようなものだった。これを余韻というのだろうか。リョーマは急にぐったり疲れた気がして、気だるい頭を庭の方に向けた。目にも涼やかな造りのこの庭は季節によって表情をくるくると変えるのだろうけれど、きっとリョーマがこの庭をまた思い出すときの様子は今、この瞬間の光景なのだろう。
その後、一服してリョーマは真田の家を後にした。居間で出された茶は温かくて、いつの間にか冷えかけていた体には嬉しかったのだが、またいつでも来てね、と笑った弦一郎の母親には結局最後まで打ち解ける気になれなかった。悪い人ではないと思うし、むしろ親切で、好感を持つべきところであると十分に分かっていたがリョーマにはそれが出来なかった。やはり彼女がリョーマの事情を知っていて弦一郎との関係を許しているのが心に引っかかっていた。同情にしては残酷すぎる。見送られながらそんなことを思ってしまい、不良に因縁をつけられたことよりずっとリョーマは心に重たいものを感じさせられた。
そんなことばかり考えていたせいで、真田家を発ってから随分経って、ようやくリョーマは弦一郎が自分を送ってくれていることを意識し始めた。雨の日の今日、人は皆足早で、すれ違ってもことごとくあっという間に視界から消えていく。そもそも通り縋る人自体が数えるほどしか居なくて、もっと周囲がざわついていればどんなに気が楽か。リョーマは高鳴ったり落ち込んだりを繰り返す苦しい胸の内を嘆くように、ため息をついた。多分それが気がつかないうちに尋常でない数になっていたのだろう。あれ、と思うと弦一郎は立ち止まっいて、心なしか少し鬱陶しそうな、といってもどちらかと言えば無表情が多い彼の顔色の変化は分かりにくいので、見たままだけを言えば少し眉を顰めてリョーマを振り返っていた。リョーマも立ち止まって弦一郎を見つめたが、向こうの視線が強くてたじろぎそうになる。思わずふいと目を逸らすと曇天の中で一際輝く光の輪が突然リョーマの目を釘付けにさせた。
弦一郎は自分から目を逸らされたと思ったらリョーマがあらぬ方を熱心に見つめているのでムッとしてその視線を辿った。見慣れた彼にはいっそけばけばしいほどのあの光の輪は今日もゆっくりと回って暗い空を照らし出している。
「…ここから見えるんだね。」
何気なくリョーマがそう漏らした。呟いた顔を弦一郎が見てみれば、刻々と色を変えるネオンの光にリョーマの印象さえ次々と変わっていくように見えた。きっと今日、空が晴れていて、駅で何もなかったなら、そういうものを実感できるようなことがたくさん起こったかもしれなかった。そのチャンスを奪ったという意味でもあの高校生どもは次会ったらただじゃおかない。弦一郎はひとり腹の底で復讐を誓ってみる。
それはともかくとしてリョーマの執着は結構なものなのか、数分もの間彼女の視線は戻ってくる気配を見せなかった。よほど乗りたかったのか、とその心中を察して弦一郎はもう一度リョーマと同じものを見て、ついでにその中心についた時計に目をやり、かすかに憂慮した。しかし時間の心配よりも、リョーマの喜ぶ顔の方がずっと魅力的なのは間違いない。そんな生易しいことばかりしていいのか弦一郎は自分をたしなめたかったが、今日そういうことが許される時間を奪われたのは不測の事態だった。そう思うと言い訳としては十分成立しそうで、ただ納得がいったわけではない弦一郎は結局ぶすっとしたままリョーマに問いかけた。
「帰るのが遅くなるぞ。」
一瞬、だから早く帰ろう、と促されたのかと思ってリョーマは拗ねた顔をして弦一郎を振り返った。けれど彼は無愛想な顔でじっとさっきまでリョーマが心を奪われていたものを睨んでいたので、リョーマはぽかんとしたあと、くっと笑った。
「アンタさ、やっぱ言葉下手だね。」
「たわけ、お前より語彙はある。」
「そうじゃなくって…ああ、もういいよ別に、何でもない。」
リョーマは綺麗にして返してもらったジャージのポケットから突っ込んでいた片手を出し、前鍔を握った。
「時間だっけ?いいよ、遅くなっても。」
送ってくれるんでしょ?と生意気な声で呟いたけれど、リョーマが帽子の前鍔を離さないのを見とめて弦一郎は表情が上向きそうになるのを歯を食いしばって引き止めた。

最後に乗ったのは去年の夏の終わりだったと記憶している。全国大会二連覇の偉業を成し遂げたあと、部内でも打ち上げを開き、その際ブン太とか赤也とか騒ぐのが好きなメンバーが中心になってこれに乗ろうと言い出したはずだ。あの頃は幸村も元気で、男ばかりで乗って何が楽しいものかとふたりで苦笑したのを思い出すと、弦一郎の口元がかすかに緩んだ。そういう弦一郎の数少ない表情のレパートリーを見分けることが出来るのは幸村や蓮二くらいのものだったけれど、今観覧車のひとつに同乗した少女もまた何気なく言ってのけた。
「何笑ってんの。」
弦一郎が顔を上げると反対の座席に腰掛けて窓の方に体を向けているリョーマがいた。彼女は横目だけ弦一郎にくれていて、弦一郎がなかなか答えなかったのでまた景色に興味を戻してしまった。思ったより高いね、とかあの辺りは他より明かりが眩しい、とかリョーマはとりとめもなく見たものや感じたことを弦一郎に向けて零し続けた。座席から垂れて下についてない足がぷらぷらと機嫌よく揺れている。高所からの景色ひとつで安いやつ、と弦一郎はまたおかしくなったが、リョーマはまだ十二歳なのだから年齢から見れば別におかしなことでもないのだと思い直した。弦一郎はあと一月もしたら十五になるから、そうするとリョーマとは三歳差になる。数字として表せば大したことのない差に思えるが、実際この歳で三歳違うと人間としての出来上がり具合は大きく違うだろう。弦一郎などはもう青年として数えてもよさそうだし、一方でリョーマは当分子供扱いをされそうなものである。そんなことを意識しては家の廊下で自分がとった行動は時期尚早と言えそうで、急に弦一郎は頭が痛くなった。それに自分はともかく、やはりリョーマに許婚の話はこのご時世、早すぎるのではないだろうか。今まで向き合うことを避けて来た分、考えてみればこの話はおかしなところばかりなのだ。当人同士の気持ちを無視していたことは、恐らく一応の解決をみただろうから今は捨て置くとして、最も不可解なのは。
「南次郎さんは…。」
「え?親父が、何?」
弦一郎が突然父親の名前を言うのでリョーマはびっくりして窓から離れた。弦一郎は悩んで唸りながらも続けた。
「南次郎さんは、何を思ってお前に許婚を勧めたか…と思ってな。」
弦一郎が指摘した瞬間、リョーマの表情が僅かながら凍りついたのを弦一郎は見逃さなかった。彼女は間髪入れず俯いてさあね、などと言葉を濁したが、弦一郎は顔をしかめた。こいつ、何か知っている。そう軽い気持ちで見当をつけ、弦一郎はリョーマの表情を隠す帽子を奪ってやった。
「ちょっ…何すんのさ。」
「お前、俺に何か隠しているだろう。」
リョーマの顔はさらに険しさを増した。彼女の目は衝撃とかすかな怒りに溢れ、揺れる瞳には不安も見て取れた。そういう表情が思った以上に深刻で、弦一郎の方がぎょっとしてリョーマを見つめた。
リョーマは固く結んでいた口元を一度引き締め、歯を食いしばった。やはり弦一郎と会って、向かい合うということはこういうことなのだ、と初めて現実をつきつけられた彼女はぐったりとうな垂れた。
そうやってリョーマがあまり落ち込むので弦一郎は戸惑っていた。そんなに困らせるほどのことがあるとは思いも寄らなかったのだ。後悔した。変なことを聞かなければよかった。窓の方を見れば景色は一際高くなっていて頂上も間近なのが分かった。きっとこの辺りでリョーマはもっと喜び勇んで周囲を見渡していただろうに、そして自分はそんな彼女を見守れただろうに、余計なことをしてしまったと悔やまれて仕方なかった。しかしそんなふうに思うことこそ本当は軽薄だった。リョーマの緊張した声が弦一郎にそう教えた。
「多分、聞かれるとは思ってたよ。変だもんね。今時、許婚とかさ。」
一言一言リョーマは精一杯喋っていた。力を入れないと震える唇は自然と閉じてしまいそうだ。でも弦一郎と会いたいと思うなら我慢しなくてはいけない。そう自分に言い聞かせ、それだけを気力の糧にリョーマは話し続けた。
「親父って、馬鹿だけど、やっぱりあの人も父親だから、俺を心配してる、んだと思う。」
迷惑っちゃ迷惑だけどね、と苦笑するリョーマの顔が本当に無理をした笑顔だった。途端、弦一郎は一変して自分をぶん殴りたいくらいの腹立ちに襲われた。彼女はこんなに真剣なのに、軽んじてしまったことが恥ずかしかった。リョーマに関して油断することなど許されないのだ。それはネットを挟んで対峙する瞬間のようだと思った。ならこれは一種の勝負、相手に対して真っ向から立ち向かう姿勢が必要だし、それは弦一郎の信条だ。弦一郎は自分もまた膝の上で拳を強く握り、リョーマと正面から向かい合った。リョーマは彼の雰囲気が変わったのを受け止めて、ぎりぎりの声が消えないように懸命に息を吸った。
「これから、話すことの前にひとつ、聞いていい?」
そっと見上げると弦一郎が黙ったまま頷いた。力強くて、気おされそうな真剣さにリョーマは泣きそうな顔で笑った。目の前の彼は、いつも直球で、その割りに優しさには不器用で遠回りでしかそれを施せない。それが本当にリョーマの心には心地よくて、気がつけば信じられない速度で彼に親しみを覚えていった。だからこそ、その過ぎた親しみを言葉として形作ることはまだ難しい。そうするには恐怖と悲しみの記憶が邪魔をするのだ。けれどそれにも構わずリョーマの中に相反するものが溢れて止まらないのもまた事実で、だから抱いているこの想いはきっとそこにあるのだろう。
声を出さないまま薄く開いていた口を閉じ、リョーマは弦一郎をゆっくりと見つめた。思ったとおり、リョーマの様子をいぶかしみながらも彼はただじっと待っていた。真摯なその姿は彼の険しすぎる表情のせいで圧迫感さえ覚えるほどだ。苦笑いが零れるけども、だからこそ彼に他とは違う何かを覚えるのだし、向こうがあけすけで居てくれるからこそ正面で向かい合うことにずっと不安が少なくて済むのだろう。
それなのに募った想いの丈を乗り越えられないでいるのはやはり、自分が味わったあの恐怖と嫌悪の作り出した深い溝のせいだ。依然としてその底にリョーマはいる。見上げれば乗り越えるべきものは山のようにして居座っているから、こんな小さな体ではとても太刀打ちできそうにないと思わされてしまうのだ。強いものには立ち向かっていく性質だが、もし、乗り越えた先に待っているものが「あのとき」よりも恐ろしいことかもしれないのなら、今持っている勇気くらいではとても足りないだろう。
それを感じて、受け入れて、唇を噛み締めた。負けず嫌いだから悔しさを感じてしまう神経は人一倍過敏だ。悔しい、悔しくてたまらなくて、いっそ泣きそうだけど、それ以上に怖い。だんだん抑えが利かなくなっていくこの気持ちを注ぐべき彼が、リョーマがあの出来事を伝えたとき、自分を受け入れてくれなかったら。そんなことになったら今度こそ立ち直れないに違いないのだ。怖くて怖くて、だから随分経って繋いだ言葉は実にあやふやで、言ったリョーマ自身が苛立ちを覚えるようなものだった。
「俺のこと……どんな風に、思ってる……?」

突然ガタン、と音を立てた壁に驚いて弦一郎がそちらを見やると、睨まれたと思ったのか係員が目を見開いて軽く怯えていた。
「あ…の、どうぞ。」
手で示された先はライトの眩しさの向こうにはっきりと暗闇を従えていた。観覧車はゆっくりと地上の近くを滑っている。弦一郎より先にリョーマが係員に促された通りに動き、つられて弦一郎も湿った空気の中に踏み出した。無言で階段を降りるリョーマを追って二、三歩、弦一郎は振り返った。巨大な観覧車はもう何もなかったように回っていて、それをしばらく見つめてからようやく彼は飲み込めた。いつの間にだろうか、返事もしないまま一周してしまったのだ、と。
不意に切なくて観覧車から目をそらすと、段を降りてしまったリョーマは弦一郎に背を向けたまま立ち止まっていた。弦一郎も何も言えず、その小さくて、闇に溶けそうな背中を見つめた。正直言って頭の中は今も半分働いていない。目の前に立ちはだかったひとつの壁にぶち当たって、どうすればいいのか分からず途方に暮れている状態に近かった。そしてそのこと自体に戸惑っていた。
生来、弦一郎は決して打たれ弱くない。挫折など山のように味わってきた。テニスで言えば幸村に負けたときも、手塚に打ちのめされたときも、自分の力で這い上がった。どうしようもない壁など存在しない。越えられないなら土台を積み上げればいい。そういう当たり前で一番難しいことをずっと弦一郎はやってきている。怖いものがあろうはずがない。
しかし今回はどうだ。目前にあるものに対処の仕様がなくて何一つ答えられなかった。何故そんなことがあるのか、と自分に問いかけている内に観覧車の残り半周は終わった。ところが今冷えた空気の中に出て、暗闇に沈むリョーマの小さな姿を落ち着いて見ていると、また違った疑問が湧き始めていた。
これはリョーマが誘導した道の先にあった壁で彼が選んだものではない。彼女は、何を思って先に弦一郎の気持ちを問いただしたのだろう。順序が違うのではないか。まず彼女との間にあるわだかまりを、打ち明けないでいた秘密を、許婚という肩書きだけの薄っぺらい繋がりをすべて解いて、それからではないのか。リョーマの気持ちも、弦一郎の気持ちも、そうしてやっと始まるのではないのか。
ずるい。子供臭いと思ってもそれ以外リョーマに対して思えることがなく、弦一郎は気分が悪くてぎゅっと顔をしかめた。そしてほどなくため息が出た。らしくなく疲れたようなため息で、リョーマもそう思ったのか、彼女もやっと弦一郎を振り返っていた。
「なに、そのため息…。」
伏し目がちにリョーマが言った。口を開くのさえ億劫で弦一郎が黙っていると、ざり、とリョーマが力を込めて足元を踏みしめた音がした。
「何でため息なんかつくの。」
非難の響きだった。弦一郎の心が微かにざわりと波立つ。苛立ちだ。何で、なんて言えるものならこちらが言いたいのに、リョーマはいつだってこんなふうに一方的だ。彼女に自分の道筋をかき乱された記憶が疲労と苛立ちに縁取られると途端に気に食わないものになってしまって、いっそ戸惑うくらいだった。そんなときにぽつりとリョーマが言った。
「何か言ってよ……ずるいよ。」
一際ざわっという音が体の中から聞こえた。それでも心のどこかは戸惑っていたのに、波立つ勢いに押されて口先だけが勝手に動いた。
「……どっちが。」
「何。」
「……もういい。」
「はあ?何それ、フザけんなよ。」
リョーマの語調が荒くなった。いつも以上に少女らしさの抜けた言葉は棘ばかりで、弦一郎の神経は余計に逆撫でされる。一方で心地悪いわだかまりも胸の奥で膨らんでいくのが分かった。そこからもれるのは違うとかそうじゃないとか、何か訴えるような響きを持った言葉なのに、口から滑り出るのは苛立ちを帯びてしまったそれだから、弦一郎には自分の言葉がリョーマに少しも伝わらないことが十分に分かっていた。それなのに本当の気持ちと裏腹な言葉たちは止まらなかった。白黒付けないもどかしさは何より嫌いだった。
「お前こそその物言いはなんだ。女らしさの欠片もないな。…それに人に聞いてばかりいないでたまには自分から物を言ってみろ。大体お前は勝手だ。我が侭だ。俺のことも考えろ。お前と関わるといつもそうだ。本当に、」

「……疲れる。」
額に手をやってそう言った弦一郎の姿が、まるで本心からそう言っているように見えた。だからリョーマは完全に言葉を失っていた。ちょうど心臓のあたりをナイフで斜めにざくりとやられたようで、思わず胸を押さえるとよろけた足元が数歩後退した。わなわなと唇が震えて、体の中心は鉛を呑んだように重いくせして、頭は空っぽだった。けれど喉の辺りから次第に顔は熱くなり、息を吸うのさえ命がけのような気がした。だから必死に立った。膝が折れたらもうそのまま地面に伏して泣き喚いてしまう自分が分かっていた。けれど感情を表に出すことにリョーマは慣れていない。だからそんなことは出来ない、そんな意地だけが今彼女を支えていた。それほどギリギリのところにいるのに、弦一郎の声が不意に戸惑ったようすで自分の名前を呼ぶから、リョーマはぎょっとして今度は両耳を手で覆った。
「リョーマ…。」
狼狽した声だと思ったがどうにもならなかった。よろけたリョーマが視界の端に映った瞬間、弦一郎の苛立ちは急速に萎れていった。すぐに分かった。またやってしまったのだ。軽率な自分がまた顔を出したのだ。信じられないことだと思う一方で、弦一郎は自分が衝動を抑えるのが実は苦手なのではないかと悟りつつあった。冷静に、慎重に、確実に歩もうと思うのに、激情の強さは誰よりも強くて、事実抑えられないほどのそれをいつも隠さずに晒してしまう。大概の人に自分が恐れられる原因はそこなのだろうか。自覚していなかった自分がひとつ見えた気がして、先ほどとは違った苛立ちが弦一郎の中に湧き出していた。
どうして、何もかも思うとおりにいかない。こんなに必死なのに何故リョーマのことも、自分のことも、掴んだと思ったら指の隙間を砂が零れていくようにすり抜けていく。それはもどかしくて、苛立たしくて、結局どうしたって追いかけずにはいられない悔しさだ。
「リョーマ、俺は…。」
だからもがくように声を出した。何も出来ないと思って立ち尽くすことだけはしたくない。どうか分かってほしい。こういうとき上手い言葉が思いつくならいいのに焦燥感だけが一人前で歯がゆい。
そしてつっぱねるようにリョーマはやたらめったら首を振った。
「もういい!何にも言わないでよ、聞きたくないっ。」
ぎゅっと目を瞑ったまま、耳まで塞いで出来る限り何も心に入らないようにしていたリョーマには、弦一郎の姿が見えていなかった。弦一郎がそのことに気付いて、せめてこの声を聞かせようと手を伸ばし、リョーマの腕を掴む。捕らえることは容易いと思った。けれど何も逃げるのは心ばかりではない。二人の周りが薄暗くて、リョーマの手は小さかった。全ては一瞬だった。腕を掴んだと思ったのに、実際は弦一郎から逃れようとしたリョーマの指先を掠めた程度で、すり抜けた先を追って弦一郎は目を凝らした。暗闇の中でも、確かにリョーマと目があった。それさえ弾くように急いで瞑られてしまったあのどんぐり眼から零れて散ったものは宙でばらばらになってしまったけれど、確かにほんのわずか、煌いた。
必死の足音も遠のいて、弦一郎は再び呆然と立ち尽くしていた。リョーマはもうそこにはおらず、背後で色を変え続ける観覧車の明かりだけが暗闇にその大半を飲まれながらもどうにか彼の元へ辿り着いている。その輝きの変化が絶え間ないのでそれにさえ腹が立ちそうだった。時の流れとそれに伴う大小さまざまな移ろいは弦一郎からも容赦なく大事なものを奪っていく。無性に幸村に会いたくなったが、時刻を思い出すとあからさまに無理なことだ。それがひどく残念で、自分が今怯えていることを覚えさせられた。女を泣かせたことなんて、一度だってない。そもそも今までろくに関わったことのないものだから、果たして自分がどの程度のひどいことをしてしまったか見当もつかない。だがとにかくリョーマは泣いていたのだ。少なくとも女を泣かせるのは最悪なことだと思っている。それも一番泣いてほしくない人を、だ。自己嫌悪が湧くから、自業自得と言えばそうなのだろうけれど、そんなふうにあっさり片付けられなくてまだ足は動かない。リョーマは自分を、嫌ってしまっただろうか、でも。
ぽつんと思い浮かべた最悪の結末に鼻頭がツンとした気がして、それで弦一郎はやっと半分気を持ち直した。顔を上げると血の気が引いているのが分かった。よほど嫌われることが恐ろしいと思っている自分に覇気のないあざ笑いが浮かんだ。
肩にぼたりと重く圧し掛かったものがしとどに降りだしても、そこから動きたくなくて弦一郎はしばらく雨に打たれ続けた。

再び鐘楼の屋根をたたき出した雨音で南次郎は浅い眠りから現に戻った。横になっていた体を起こし、あぐらをかいて背伸びをする。大あくびをすると湿った空気が肺を満たして微かに痛んだ。しみじみと雨だなあ、などと思って首を掻いた。辺りがすっかり暗いのでそろそろ家に入ろうかと思うが、生憎雨脚が強いのでそれは躊躇われた。さて、どうしようか、とぼんやり水気を帯びた街の明かりを見下ろしていると、暗がりをばしゃばしゃと元気な足音が駆け抜けた。こんな時間に誰だろう。寺に詣でるには些か遅すぎるその来訪者は、その家のもの以外めったに近寄らない寺の脇にあるテニスコートまで走っていって、突然立ち止まった。思わず濡れるのも構わないで南次郎は身を乗り出し、暗闇に目を凝らした。そしてだんだんと慣れてきた目に映ったのはもらって間もない青学のジャージを構わず濡らし、肩をひくつかせるリョーマの後姿だった。驚いて鐘楼から飛び降り、南次郎はリョーマのもとへ駆け寄った。そして大分近寄って名前を呼んでやろうとしたとき、久しく聞いていなかった喚き声が雨の音も押しつぶして彼の耳に届いた。
疑いたくなるほどリョーマは激しく泣いていた。まるで愚図っている幼児のようにわんわん声を上げ、いつもなら気を張っているからすぐに気付く人の気配にもすっかり無関心のようだった。何か、よほど悔しいことでもあったのだろうか。リョーマが泣く理由を考えたところで、何か屈辱的なことがあったのだろうとしか思いつかず、南次郎は頭を掻いたが、やがて泣き方を変えたリョーマに新しい理由があったのではと勘付いてまた違った驚きが彼を襲った。
声を、喉を、肩をひくつかせながらだんだんと顔を伏せたリョーマは喚くのを抑えると、俯いた顔を両手で覆った。絵に描いたような打ちひしがれる少女の体躯に南次郎は妙に焦りを感じた。しかしそれに構わずリョーマは嗚咽交じりに甘い恨み言をもらした。
「さ、なだ…さんの、っばか…!」
精一杯呟いてしまうとリョーマはついに膝を折ってまた大声を上げた。もう息さえ殺すしかなくなった南次郎は自分の娘の真後ろに立ち尽くして、まだついていなかった諦めを今度こそつけなければいけないのだと感じていた。手塩にかけても娘なんてつれないものだ。南次郎は苦笑したまま背を向けた。家に向かって足音をたてないように歩き、倫子か菜々子にリョーマを迎えに来るよう頼まなければならなかった。



――――――
この回どう書くかで1ヶ月迷ってました。


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