9. Now I see through you, we're likely to fall in there like love.


背中に不思議な感触があってリョーマはうすぼんやりと目を開けた。それは柔らかいと言えばそうなのだけれど、その奥には確かに硬いものが広がっていて、普段ベッドで眠るリョーマには不慣れなものだった。首を巡らせば畳の目が見えるほど近くに自分はいて、それからもうしばらくしてやっと自分が畳の部屋に敷いた布団の中に横たわっていることが分かった。どうしてこんなところに自分はいるんだろう。いや、むしろここがどこだろう。なかなか頭が冴えないので、リョーマがゆっくりそんなことを考えているとスーッと何かが擦れる音がして、そちらを見れば襖を開けた女性がほんの少しぽかんとしたあとゆったり微笑んだ。
「リョーマちゃん起きたの、よかったわ。」
リョーマちゃん、などと呼ばれたことはあまりなく、思わず眉を顰めようとしたけれど、ずっと眠っていた顔の筋肉はリョーマが思ったほど動いていなかった。女性は襖を閉めるとリョーマの枕元に膝をついて彼女の頭を撫でた。
「駅で男の子に絡まれたんですって?かわいそうに…。でもよかったわ、弦一郎さんがすぐに駆けつけられて。」
「…真田さん?」
見知らぬ女性の口からするりと出てきた彼の名前にやっとリョーマは気だるい気分を振り切る気力が湧き出した。手をついて体を起こそうとすると女性はさっと背を支えてくれた。
「あ、どうも…。」
戸惑ってリョーマは無愛想に呟いた。それを聞くと女性はあら、と首を軽くかしげ、すぐに合点がいったように苦笑して頷いた。
「そうよね、もう十年近く会ってないもの。おばさんのこと忘れちゃったわね。」
そう言って女性はリョーマが布団の上でちゃんと起き上がると不可解そうな顔をしたままのリョーマに軽く頭を下げた。
「私、弦一郎の母です。昔はよく『弦ちゃんのママ』って呼んでたの、忘れちゃった?」
忘れたか、と聞かれてすぐに首を縦に振るのはためらわれた。リョーマは曖昧にあー、とかんー、とか声をもらして首をひねった。それで十分リョーマが自分を忘れているのを悟った弦一郎の母親は、だからと言ってリョーマを責める気もないようで、微笑しながらぽつんと言った。
「しょうがないわよね、色々、あったものね。」
たっぷり同情の色を含んだそれを聞いて、リョーマははたと首をかしげるのをやめた。そして側で正座した中年というには細身で美しい顔をした女性をまじまじと見つめた。彼女はその目を見返してやはり複雑そうに笑う。今度はリョーマがああ、と納得した声を出した。
「おばさん、は、親父から聞いてるんですね…。」
特に何の感情も持たずリョーマがそう言うと、弦一郎の母親が黙って頷いた。それを見てリョーマはついに眉を顰めた。そしてそっぽを向いてぎゅっと拳を握り締める。
唇が震えた。少しでも開けば口から文句が雪崩のように出てきそうだった。南次郎も弦一郎の母親も、承知している上でよくも弦一郎とリョーマに縁を持たせたものだ。当人同士の気持ちを無視していることよりも、リョーマは自分の事情の方が気がかりで、腹が立つのと一緒に弦一郎に悪いと思えてしかたがなかった。彼は何もしていないのに、自分と関わらざるをえないだなんてあんまりだ。見下ろしたリョーマの手はすっかり綺麗に拭われて、駅で泥に塗れたものとは思えなかった。でも、どことなく綺麗なはずのそれはどす黒く見える。こんな手で、弦一郎に触ることなんて到底出来ないとリョーマは頭を垂れたまま自嘲した。
「リョーマちゃん、大丈夫?」
背中を摩る手が温かい。リョーマが頷くと弦一郎の母親はそう、と言って薄く笑い、リョーマに立てるかと尋ねた。
「もう起きられるなら居間に行きましょう。お茶、お出ししますから。」
無感動にリョーマは頷き、言われたまま立ち上がろうとした。けれどそれは叶わず、リョーマはぼすん、と顔からくしゃくしゃになった布団に突っ込んだ。よろけたのではなく、足がそれにまとわりつく布のおかげでうまく開かなかったのだ。驚いてリョーマが見下ろすと、彼女は少し着崩れていたが帯で腰を締めただけの簡素な格好をしていた。着物、ではなくて何というのだったか。
「あらあら、その前に浴衣直さなきゃだめね。」
すっ転んで布団の海の上でぼんやりしていたリョーマを見つけて弦一郎の母親はくすくすと笑った。浴衣、と呟いてリョーマはもう一度自分の姿を見下ろした。藍色の地に点々と咲いた朝顔の花が鮮やかで、年頃の娘が着るには申し分なく愛らしいものだった。
弦一郎の母親の手によってもう一度浴衣を着付けられ、丁寧に髪へ櫛まで入れられてリョーマはひどく気恥ずかしく感じた。リョーマの母親の倫子は今まで特にリョーマの身だしなみに口出ししたことはなかったし、同居しているいとこの菜々子はおしゃれに一番関心の高い年だからリョーマにもあれこれ勧めたことはあったが、結局リョーマはそういうものを全部断ってきた。だから初めてと言って差し支えない念の入った身支度が何となく窮屈だったし、記憶にない知り合いに身の回りの世話を焼かれるのは気が引けてならなかった。おしまい、と言われて櫛が目の前の鏡台の上に置かれたときは内心ほっとした。そして行きましょう、と促して先に立ち上がった弦一郎の母親に倣って、リョーマは立ち上がりながら鏡に映る自分を見た。いつもは勝手気ままに跳ねている髪は撫で付けられすっかり大人しい。浴衣の色はリョーマの肌によく馴染んでいて、我ながら意外と似合うなどと思ってしまう。すると同じようなことを襖に手をかけたところの弦一郎の母親が言った。
「似合ってよかったわ。それ、おばさんの若い頃のものなんだけど。」
はあ、とよそよそしくリョーマは応えたが、弦一郎の母親はひとつ笑うとすっと襖を開いた。
「あらっ。」
途端素っ頓狂な声を彼女があげたので、リョーマは少し急いで襖の向こうを覗きに向かった。
「あ…。」
「ああ、びっくりした…。嫌だわ、弦一郎さんたら襖のまん前で突っ立って…。」
随分と驚いたのか、そう言った弦一郎の母親は言葉の終いには口元を押さえておっとり笑い出した。そしてそんな彼女の向こうには確かに弦一郎がいた。まるで木偶の坊ようにそこにそびえる彼は驚いたのか笑われたことにムッとしたのか知れないが、とにかくほんの少し不機嫌そうに母親を見下ろしていた。それから彼はため息をつくと、どうぞと言って母親に道を譲った。彼女は未だにくすくす言いながら弦一郎に軽く礼を言うと廊下の奥へ向かって音もなくゆっくり去っていった。その一部始終を誰より呆然と見守っていたリョーマは、弦一郎の母親の気配がすっかりなくなるとはっとして弦一郎の方を見た。彼はというとまだ廊下の奥を見つめていたが、リョーマの視線に気がついたのか不意に振り返った。
「あ、の…俺…。」
「…気分はどうだ。」
うろたえた声を遮るように尋ねられ、リョーマは余計狼狽しながらもなんとか「大丈夫」と言い返した。弦一郎はそうか、と呟くとリョーマの聞きたいことをぽつぽつ話した。
「…ここは俺の家だ。」
「…みたいだね。」
「駅からなら俺の家の方が近いから連れてきた。…気絶するものだから、驚いたぞ。」
気絶、とリョーマが呟いて返せば弦一郎は覚えていないのか、とまた尋ねた。リョーマは軽く俯いて記憶を辿ったが、駅に着いた辺りから思い出せるものはほとんどなく、小さく肩を落として首を振った。弦一郎はそうか、と言ったきり何も言わず、リョーマも顔が上げ辛い気がしてそのまま黙った。すると間もなく板張りの廊下がギシ、と鳴ってリョーマがやっと顔を上げると弦一郎は廊下を歩き出していた。どうしようか迷ったが、勝手の分からない家では弦一郎についていくより他にすることがなかった。

弦一郎はほどほど歩いたところで立ち止まった。そしてすぐ脇に連なる木枠の窓のひとつに手をかけるとあっさりそれを開いた。古い家のようだからそんなものひとつ開けるのも苦労するのではないか、と一瞬思っていたリョーマはほんの少し期待を裏切られたような気分になった。そんなことは露と知らず、弦一郎はもうひとつ隣の窓を今度は反対に押し、目の前に開けた空間をじっと見つめた。石庭や苔や松に埋め尽くされた典型的な日本庭園の真上には重い曇天が広がっていた。雨は粛々と庭の全てを濡らし、湿って少し冷えた風が前髪を軽く揺すった。リョーマもまたその風を頬にゆっくり受けた。弦一郎と同じく庭を見つめ、しみじみ日本らしいその光景を目に焼き付けた。もう一度床が鳴ったので視線を戻せば、弦一郎はその場に留まっていたが、どっかりと縁側になった廊下に腰を下ろしていた。会話は相変わらずなく、言葉のない今リョーマはあまりに手持ち無沙汰で、思わず指遊びなどしてみたけれどそれも長くは持たない。さっきと同じように迷いながら、リョーマは弦一郎の隣に腰を下ろしてみた。屈むと浴衣の形から正座しか出来ないかと思ったが、運よく開けられていた窓辺のおかげで彼女は庭に向けて足を放り出し、廊下の縁に腰掛けることができた。それでも足はきゅっと閉じたままになったし、思ったより強度のある帯のおかげで自然と背筋が伸びた。
「…和服って結構窮屈なんだね。」
リョーマが呟いた。弦一郎は傍らの彼女を横目で見下ろした。リョーマは慣れない帯が気になるのか、指先でその縁をなぞりながらそこを見つめていた。
「そうか?」
弦一郎はリョーマの意見に今ひとつ賛成しかねてそう言い返した。するとリョーマはそうだよ、と言ってうらめしそうな声で続けた。
「よく言うよね、自分はそんな楽そうな格好してさ。」
確かに弦一郎はジャージから着替えて今は無地の白いTシャツと黒っぽいジーンズを着ていた。けれど彼はリョーマの言い返したことに真っ向から首を振った。
「帯を締めると気も引き締まる。俺は和装の方が好ましい。」
「ふーん、着るの?こういうの。」
「ああ。朝と夕に胴着を着る。」
「何で?」
「俺は剣道もやっているからな。」
そうなんだ、と言ったリョーマはすぐにあー、と声をもらすと少し笑った。
「でも分かるかも、それ。アンタってラケット握っても武士って感じだもんね。」
武士、と繰り返した弦一郎は軽く唸ったあと、空の具合を見ながら答えた。
「まあ、言われて悪い気もせんが…。」
その返事にリョーマはふふ、と笑って放り出した足を軽く揺すった。弦一郎はその素足が揺れるのを何気なく見つめた。かなり白い足だった。リョーマは顔こそ南次郎に似ているが、他は母親譲りなのかもしれない。リョーマのは南次郎の浅黒い素肌とは似ても似つかない色で、弦一郎の母親がリョーマの着替えにと出してきた藍色の浴衣はあつらえたようにリョーマの肌に馴染んでいる。雨に潤んでしっとりとしたふたつの色が些か弦一郎の頭をぼんやりさせた。
「お前は青が似合うな。」
え、とリョーマが問い返す。足を揺するのに気をとられて何と言われたかよく分からなかったからだが、うっかり弦一郎の方を見ると彼もリョーマの方を向いていて、リョーマは初めて弦一郎と話した日に逆戻りしたような錯覚に囚われた。
「その浴衣、お前によく似合っている。」
それはただの素直な感想に過ぎなかったのだろう。そんなことならさっき弦一郎の母親にだって言われたのだから、なんともない言葉だろうに、リョーマは一時雨の音さえも忘れるほどその一言に魅入られた。その内胸の辺りはきゅうきゅうと締まりだし、泣いたときのように目の端が痛くなった。多分赤面しているのだろう、その感覚が分かっていながら顔を隠すために背けることも出来なかった。
彼の顔をじっくりと見るのが二週間ぶりだったからだ。会いたいと願ってやまなかった人が今目の前に惜しげもなくいてくれて、リョーマは恥ずかしさよりも嬉しさが勝って彼から目が離せなかった。それは弦一郎も同じことで、久しぶりの再会は唐突な騒ぎで忙しく、今になってやっと弦一郎はリョーマに会えたような気がした。近くで見下ろした彼女の肩は相変わらず小さく、まだ発達していない薄い体は触ったら壊れてしまいそうで切なくなった。そうやって馬鹿みたいに向き合って黙りこくっていると、ふとリョーマが目をそらした。そしてくすくす笑うと変なの、と彼女は呟いた。
「アンタに会ったら、話したいこと結構あったと思うんだけど、なんか、もういいや。」
顔見れただけで満足、と弦一郎の顔を下から覗き込むようにして言ったリョーマについ弦一郎の顔が赤くなる。慌てて顔を背け、思わず癖で帽子の前鍔を掴もうとしたが、着替えたとき部屋に置いてきていたので持ち上げた手は空ぶった。仕方ないので弦一郎は前髪を掻き揚げて目を瞑る。そうすると耳の側で早まった鼓動の速度がより強く感じられてもっと恥ずかしくなってしまう。これはたまらん、と目を開ければ、いないはずのリョーマが顔を背けた先にしっかりといたので弦一郎は思わず仰け反って後ろに手をついた。
「な、なんだ、何をしている…!」
ドクドク脈打つ心臓の辺りを押さえながら珍しく取り乱して弦一郎が尋ねると、リョーマは四つん這いの姿勢から足を横に並べてぺたんと座った。
「え、ああ、別に。なんていうか…真田さんってさ、結構イケメンだなって思って。」
「は?」
リョーマの言葉に対して弦一郎があまりにきょとんとしていたので、彼女は軽く斜め上を見やってから何でもない、と言った。自覚ないんだ、と感心さえしてしまって、リョーマはまたひとりでくすくす笑った。そして訳の分かっていない弦一郎はしばらくリョーマを見つめたあと、首をかしげながら言った。
「分からんな、お前の方が器量よしだろう。」
「きりょーよし?なにそれ。」
今度はリョーマが首をかしげた。さっぱり言葉の意味を分かっていないので弦一郎は呆れて活字を読め、と小言をもらしてから答えてやった。
「顔かたちの整っていることを器量よしと言うんだ。まあ、きれいとか、お前なら、かわいいとか、そういう意味になるな。」
やれやれという顔をして弦一郎がそう言い終わるとリョーマがぱったり黙り込んだ。それをおかしく思って弦一郎がリョーマ、と名前を呼んでやるとリョーマは首まで真っ赤になって急にぎゃあぎゃあ喚きだした。
「かわいい、って、だ、誰が…!そん、そんなことない、し!お、俺、男勝りならよく言われるけどか、わいいとか、そんなの…そんなの…。」
弦一郎は突然大声を出すので驚いてリョーマを見つめていたが、彼女の言葉はだんだんと萎んでいき、とうとうリョーマはすっかり俯くと肩に力を入れて膝の上に置いた自分の手をぎゅっと握り締めた。
「どうした。」
弦一郎が問いかけてもリョーマは微動だにしない。無駄に力だけこめた肩は耐えかねて震え始めていて、思わず弦一郎が力を抜けと言いがてらそこに手を置こうとしたとき、意を決したようにリョーマが口を開いた。
「真田さんは、本当にいいの…?」
「うん?」
その声がか細いので弦一郎が聞き返すと、リョーマは相変わらず力いっぱい俯いたまま、搾り出すような声で精一杯話した。
「俺、みたいなのが、許婚で本当にいいのかって、聞いてんの…。」
リョーマの声の調子は弦一郎が聞く限りでは妙に遠慮がちで、およそ彼女の物言いらしくなく思えた。いっそ怯えているかと思うほどの弱い声音はもうそれ以上何か言うことが出来ないらしく、膝の上で押し付けるように握られていた手はゆっくり彼女の顔を押さえ込んだ。まるで泣き崩れたような姿勢のリョーマは随分少女然として見えて、弦一郎は不謹慎と思いながらもひどくどぎまぎした。
リョーマの問いかけは不可解だった。今までどんなにメールをやりとりしてもふたりが許婚であることが話題に上がることはなかった。今の曖昧な関係さえ持ち出すことなく、それをどうするのか行く先を占うこともしなかったのは不自然だったといえばそうかもしれない。お互い、どこかでそのことに向き合うのが怖かったのだろうか。少なくとも弦一郎は許婚うんぬんの話は苦手だと感じている。ろくに恋愛したこともないのに結婚がどうと言われてもピンと来ないし、何より周りにせかされるだけの立場が気に入らなかった。リョーマに初めて会ったとき、彼女も許婚なんて嫌だと聞いて嬉しかったのを覚えている。彼女も同じなんだと、だったらこの話はなかったことに出来ると、そういう都合のいいことを思った。けれど今、許婚なんて嫌だと言ったリョーマ自身に彼女とそういう関係にあっていいのかと問いただされるとその真意を考えるのが難しくてたまらない。もしリョーマが最初に弦一郎へ言い放った通り、今も許婚などというものが嫌でしょうがないのなら、リョーマが弦一郎に期待する返事は否定に違いないだろう。だからここで弦一郎が「許婚なんてやめよう」と言ったらすべてが幕を閉じるのは明らかだった。
明らかだからこそ、弦一郎は否定するなんて絶対に出来ないとはっきり感じていた。万が一そんなことを言ってしまえば自分はもう二度とリョーマに会うことはないだろう。そうなったら失うものがたくさんあるように思えた。もう馴染み深くさえあるリョーマのことも、まだ見たことのない彼女のことも、そして負かすよ、と言って睨み上げてきたときの一番リョーマらしいと思ったあの強気な笑顔をもっと見せてほしい。もうこの胸が締め付けられる感覚さえ心地よくなりつつあるのだから。弦一郎はリョーマの肩に置こうとしていた手をもう少し上げて、ぽすっと緑がかった髪の中にそれを埋めた。
「俺を、負かすんじゃなかったのか?」
撫でられたリョーマの頭が頷くように揺れた。けれどリョーマはしばらく何も言わず、ややあってぐいぐい首を横に振った。
「答えになってないよ…。アンタの気持ち聞いてんだよ?」
「そういうお前はどうなんだ。」
「え?」
聞いたことをそっくり聞き返されたのでリョーマはぎょっとして顔を上げ、弦一郎を見た。弦一郎は相変わらず胡坐をかいているものの、背筋はピンと伸びていて堂々と構えていた。そのせいでリョーマはさらに言い返すことを阻まれた気がして、ぐっと唸った。そしてそれを追い詰めるように弦一郎は改めて問い返した。
「そもそも何故そんなことを聞く。許婚が嫌なのか?俺のことが嫌なのか?」
「そ、そうじゃなくて…。」
慌てて首を振り、弦一郎の言ったことを否定したリョーマを見て、彼はなら、と続けた。
「お前は俺でいいのか?」
リョーマは目を見開いた。弦一郎が今言ったことはさっき自分が言ったことと全くもって、同じだった。思わず息をするのも忘れてリョーマが弦一郎を凝視していると、彼は不意に無表情だったのをやめ、見透かしたように憎たらしく、そして労わるように優しく笑った。
はっ、と息を吸い込んだリョーマは耳鳴りのような心臓の音に眩暈がした。押さえていないと心臓がどこかに跳ねていってしまいそうで、ぎゅっと胸に手を押し当てると苦しいはずなのにまた体中を何かがぱちぱち弾け回って暴れたくなった。肌がひりひりするような感覚にも似ていて、綿菓子の柔らかさのように頼りない心地が全身を包んだ。同時に弦一郎が信じられなくて仕方なかった。よくもこんな気持ちを抱えているくせに、彼は平然と構えているものだ。ぎゅっと目を瞑ってしまったので今は見えない彼をひっそり恨んだら、頭の天辺に置かれていた手がすっと後ろに回った。その手がはっきり分かるほど震えていて、リョーマは目を開くと違った、と確信した。
さっきの余裕を感じさせた顔はどこにもなく、初めて少年じみて見えた弦一郎の戸惑いながら一途な表情はきっと今のリョーマと同じようなものだったろう。それもすぐに見えなくなって、目の前に来た弦一郎の十分な広さの肩にリョーマはそっと頬を寄せてみた。じっくり、じっくりそこへ体重をかけていくと程よく彼の体に沈み込んだところで余っていた弦一郎の左手がリョーマの背に添えられた。それにつられてだらしなく垂れていた両手をリョーマは持ち上げた。行き場所に散々迷った挙句、行き着いたのは弦一郎のTシャツの袖だった。そこを掴むとリョーマの小さな手にはちょうどいいくらいに袖が余っていて、けれどもう少ししたらもっとまともに抱きつきにいくかもしれない。躊躇う自分が段々薄れていくのをリョーマは感じていた。深い呼吸に合わせて上下する弦一郎の胸の中は湿っぽい空気とは対照的にさっぱりと乾いていて温かく、こんなに心地いいならしばらくはこのままがいいと思ってしまうほどだった。


――――――
真田のお母様捏造すんまそん。
友達以上から恋人以内くらいになってきました。



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