十七歳だった



 鼻先がつめたい。
 朝方とはいっても、冬の5時半はまだ夜だ。まして寒さは真夜中のそれと比にならない。口元までぐるぐるに巻いたマフラーをきゅっと結び直すと、三橋は玄関前の道を歩き出した。吐く息は一瞬で白くなって宙に消えてゆく。手袋の中でも、指に冷気が絡むような気がした。コートのポケットに手を入れる。まるいものに触れて、安堵の表情が浮かぶ。手袋越しでは縫い目が分からないそれを一度握って、また歩く。

 夜、だ。

 まだ世界は真っ暗なままで、街灯の光は何だか寒そうに見えるし、時折通る車のライトはまぶしかった。そこで、夏だったらもう練習が始まっている時間だと気づく。四季はすごいなあ、そんなことしか思いつかない。そして、その季節を一緒に過ごしたひとを思う。
 阿部をすきだと気づいたのはひどく唐突だった。やさしくしてくれたのは、叶以外では初めての人間だった。ルリや家族はいて当たり前の存在で、だから甘えることなんて出来なかった。誰にも1番を渡さない。頑なな自分がそれを助長して、叶にも頼れずに三星を出た。頼ってはいけない気がした。
 たぶん、会ったときからだ。

「ちょっと、投げてみない?」

 あの日グラウンドで阿部にそう言われなければ、今、三橋はここにいない。勝った喜びも嬉しさも、負けた悔しさもやるせなさも、応援の声も1番も、サインも戦略もアウトの快感も、知ることは出来なかった。それから、阿部が三橋を本当に大事にしてくれていることも知った。それは投手として、という言葉が胸をよぎったときに、どうしようもなくて泣いた。
 いつだって、オレは投手以外の何かにはなれないんだ。それは三星時代からすればこの上なく嬉しいことのはずなのに、悲しくてただ泣いた。そのときに、自分は阿部をすきなんだと知った。

「投手としてじゃなくても、オレはお前がスキだよ」

 あの言葉が本当だったなら、どんなによかっただろう。否、それは間違いなく本当だった。ただきっと、阿部はそういう意味で言ったのではない。今三橋が抱く感情と阿部のそれとは全く違う。この気持ちは彼には迷惑なだけで、きっとチームにも迷惑なだけだ。それでも、彼にもらった言葉は全部大事にしたいと思った。一秒でも長く、一緒にいたい。たとえ投手としてでも、ただのチームメイトでもかまわなかった。
 すきなひとと一緒にいたいというのは、この場合、身勝手な願いになるのだろうか。

「三橋?」
「っあ、べくん、!」

 自転車のブレーキ音とともに見えたのはたった今まで考えていたひとだった。阿部は三橋と同じように防寒具に身を包み、白い息を吐いていた。鼻の頭がすこし赤い。一瞬で全身が熱くなる。

「何してんの、こんな時間に」
「あ、えと、は、初日の出、みようと思って、」
「マジで、オレも初日の出目当て」
「ほ、ほんと!」

 一月一日の夜中に出歩く人間は、初詣か初日の出か福袋か。この道を進んだ先には土手がある。街灯に照らされた阿部の顔は、いつもと同じだった。白い息が生まれては一瞬で空に消える。頬は寒くて赤いのか、それとも熱くて赤いのか分からない。

「あれ、今年は群馬帰んねんだっけ」
「ううん、年明けにちょっとだけ、行く、」
「へー。つかお前超不審者に見えたぞ」
「う、だ、って、さむいから、」
「自転車で来りゃよかったのに」
「昨日、パンクしちゃっ、た」
「うわ、早く直しとけよ」

 部活の後歩くのきっついだろ、そう言うと阿部は自転車の後ろを指差した。意味が分からず首をかしげる三橋に笑って告げる。

「うしろ、」
「え、何?」
「二人乗りすりゃいいじゃん」
「い、いいよ、歩ける」
「早く行かないといい場所取られるぞ」
「先、行って、取ってて、自転車のが、はやいし」
「だから乗れって言ってンの、寒い中歩くこたねェよ」

 まごつく三橋の腕を引っ張って荷台に導く。行くぞー、声とともにゆっくりと自転車が動き出した。「んぶっ」という声に阿部が慌てて足をつくと、振り向いた先には鼻をおさえる三橋。バランスが思うように取れず、背中に顔をぶつけたらしい。迷わず手袋をつけた彼の手を自分の腰にまわした。

「つかまっとけ」

 有無を言わさず引っ張った腕は、ダウンジャケットをおずおずと掴む。それを確認して阿部が再び動き出すと、自転車は順調に滑り出した。落ちて怪我でもしたらシャレにならない。――それは本音か建て前か。自分で考えて笑ってしまった。建前だ、そんなのは。
 前を歩く人影を見つけた時、絶対に三橋だと思った。間違えるはずがない、あれは三橋だ、と。マフラーやコートや歩き方まで、全部見覚えがあった。会おうと思って家を出たわけではなかったから、阿部自身はもちろん、三橋もひどく驚いていた。今二人乗りをしていたって、後ろに三橋がいるのが不思議なくらいだ。まわされた腕も少し緊張気味の声も、本物のそれなのに。奇妙な浮遊感、たぶん高揚とか言うんだろう、そういうものは。なあ今どんな顔してンの、振り向きたい気持ちを抑えてペダルに集中する。

「オ、オレも阿部くんがスキだ!」

 今ではあの言葉すらもどかしさを覚える。きらきらした目を向けた本人にさえ。ああどうしてこんなに、オレは三橋をすきなんだろう。こいつは男で、オレだって男で、チームメイトで、投手で、弱気で泣き虫で食い意地が張ってて変な笑い方をするけどその顔はすごく嬉しそうで、そして死ぬほど野球がすきで、でも多分、オレをすきじゃない。オレみたいな意味ですきじゃない。あいつが欲しかったのは信頼できる仲間だ。そう思って今まで一緒にやってきた。
 三橋は変わった。阿部が怪我をしたあの時から、少しずつ変わっていった。それはいいことのはずで、事実いいことで、それでもなぜか胸に小さく穴が開いたような気がしたのを覚えている。
 「一緒に強くなろう」、そう言ったのは本心だった。少しは強くなれたと、思う。バッテリーとしての関係も改善されて、いわゆる世間の思うようなそれに近づいただろう。でもそのうち三橋が傍からいなくなるような気がして、自分だけが立ち止まったままで、こうしているんじゃないかと考えてしまう。トモダチゴッコ。少なくとも今は、タイムリミット付きの、トモダチゴッコ。たがが外れるのは時間の問題だろうと、阿部は思っている。
 ――オレが我慢できなくなったら、オワリだろうな。





 火照った顔に夜風が心地よい。ばれないように、三橋は阿部のダウンジャケットに額をくっつけた。ぽす、という音が、ペダルをこぐそれに紛れる。阿部がこんなに近くにいる。土手になんか着かなければいいのに、ずっと、この自転車がどこか遠くへ連れて行ってくれればいいのに。熱を帯びた頭はそんな浮かれたことを考える。
 だって今、ふたりの周りには誰もいない。このままふたりのことを知らない街へ、ふたりだけで行けたらいいのに。そうしたら、もしかしたら、この想いを口にすることもできるかもしれないのに。
 「バランス大丈夫か、」不意にかけられた言葉に、三橋は慌てて顔を上げて応えた。

「へ、へっき」
「落ちたら走れよー」
「お、おいてくの、」
「いっつもランニングしてんじゃん」
「だけど、っ」

 流れる景色の輪郭がぼんやり見えてくる。こんなに早く明るくなるんだ、さっきまで暗闇にいたのに。それとも、ふと思った。

 阿部君に会ったから、明るくなったのかな、

 ひとをすきになると世界が違って見えるだとか色がついただとか、ドラマではよくそんなことを言う。それはうそだな、と三橋は思う。世界ははじめから色に溢れていて、明るかったり暗かったりする。ただ阿部に会えば嬉しくなる。それだけだ。三星に沈んでいた三橋を西浦へ引っ張ってくれた。サインをくれた。ボールを受けてくれた。世界が変わるんじゃない、自分が変わったんだと思う。阿部が変えてくれたんだと思う。
 空の色が濃紺から薄紫へと変わる。進行方向は、うっすら赤みを帯びてきていた。

「もう、日の出終わっちゃった、」
「まだだって。ほんとに日が見えるのはだいぶ先」
「そ、うなの?」
「そー。空が明るくなって、普通に朝って雰囲気になってからやっと出るから、こんなんまだ全然」
「おー、」

 阿部くんは物知りだ、その言葉からややあって、阿部はそうでもねぇよ、と言った。





 土手には既に結構な数の見物人がいた。三脚でカメラを構えている人から、黙々とランニングを続ける人、犬とのんびり歩く人、誰しもが時折東の空を見やる。阿部の持ってきたホッカイロをくしゃくしゃといじりながら、二人はとりあえず東へと歩く。空はだいぶ明るくなってはいたが、土手はまだ薄いもやがかかっているような暗さだった。夕暮れとはまた違うそれは、空気の冷たさも相まって少し硬い雰囲気を紡ぎだす。
 髪の毛がパリパリしている気がする。凍っているわけでもないのに、どこかピンと張り詰めている。街中と違って風を遮るものは何もないから、時折吹く風に体温を奪われる。耳が冷たい。握ったホッカイロから伝わる、じんわりとした熱が救いだった。タタンタタン、時折走り去る電車の音がやけに大きく聞こえた。

「ふ、うう、」
「さっみーな」
「あ、さっき、カイロ、ありがと、」
「おー、あったけえだろ」
「うん! あと、自転車も」
「気にすんなって、」

 何となく、毎年来ているのだと阿部は言った。富士山とかから見るんじゃなくて、こーゆー普通のとこで見たほうがありがたく感じね? いつもと同じ街が、ベツモノみたいに見えるから。そう言った。あとは単に元旦寝てンのもったいねェなって。
 ……ごりやく? そう、ご利益。ふと口をついた言葉に阿部が乗っかって、二人で手を合わせるふりをする。この時期だけに流れる寺社のCMのフレーズを口にする。そうしてただ何となしに、笑った。

「何か願い事叶えてくれっかな、」
「初詣、行くんでしょう」
「こーゆーのは願ったモン勝ちなんだよ」
「よくばりすぎちゃ、ダメだって、」
「うっせー。お、三橋、前見ろ」
「わ、あ!」

 阿部に促されて見た空は赤かった。鉄橋の向こうから、ゆっくりと光が生まれてくる。まぶしさに目を細めるが、脳裏に焼きついたそれはただ美しかった。太陽は今まで暗かった場所を照らして次々に色を変えてゆく。硬い空気がやわらかくなる。星が吸い込まれるように消える。今までの暗さを忘れるくらい、温かくてきれいで、きらきらした光に包まれる。何でもない一日の始まり、でも世界は毎日こうして生まれている。

 そうか、すきなひとがいるっていうのは、世界が変わるっていうのはこういうことなんだ。

「あ、忘れてた」
「?」
「あけましておめでとう、」
「あ、お、おめでとうございます」

 少しあって、ふたりで顔を見合わせて吹き出した。今まであんなに喋っていたくせに、肝心なことを言い忘れていた。大分前から言えていたはずの、おめでとう、の言葉。こんな風に言えると思わなかった。こんな風に、一緒にいられるなんて思っていなかった。年明けの部活で会うものだと、そう思っていた。それは三橋だけでなく阿部も同じで、二人はお互いに幸運をかみしめる。

「いまさら、何やってんだオレら」
「ふ、ほんと」
「あんだけ喋っといてな」
「何か、タイミング、なかったよね」
「んじゃ改めて、今年もよろしく」
「よ、ろしくお願いします、」

 ひとしきり笑って、朝日が昇るのを見た。ひどくゆったりとしているくせにまぶしくて明るくて、三橋は泣きたくなった。今泣けば、涙と一緒にいらないものが全部流れて、太陽で乾いて消えてしまうんじゃないかと思った。余計なものを持たないで、彼への期待を捨てて、いけるような気がした。

 最後の夏だな、ぽつりと彼が言う。
 一緒に勝とう、ね、オレが言う。

 今年、オレたちは三年生になる。甲子園に行ける、最後の年。
 その次の約束なんて出来なかった。
 だってオレたちはまだたった十七で、この世界で生きてゆくことにやっと慣れてきたところで、自分みたいに誰かを大事にするなんてことはまだできない。すきだと思う、どうしようもなくすきだと思う。でもそれは言ってはいけない。阿部君は気づいていない。たとえ気づいていても、気づかないふりをしてくれている。オレが気持ちよく投げられるように、野球を嫌いにならないように、ここにいられるように、たぶんこの先もずっと。それを残酷だと、ひどいと誰が言えるだろうか。そこまで考えてくれるやさしいひとを、オレはこれからも、ずっとずっと傷つけ続けるんだ。

 それでもこの気持ちが消えることはないんだろうな、と思った。
 毎日沈んで昇る日の光のように、何度も生まれてくるんだろう。

「お前、すきなやついんの?」
「え、」

 唐突に、阿部は三橋にそう聞いた。いると言われても、いないと言われてもよかった。ただ、どっちでも嫌だなとは思った。三橋は肩をびくつかせて、目線を忙しく移動させて、一瞬阿部をうかがってからゆっくり口を開いた。

「………ずっと、おなじ、ひと」
「……そうか」
「あ、阿部、君、は」
「………いるよ」
「…………」
「いる、」

 二度目の応えは、自分でも驚くくらい確信に満ちていた。そうだな、お前がすきだ。すきなやつは三橋だ、そう肯定するように言った。同時に、諦めも込めて。

「あ、」
「言うなよ」
「、」
「何も言うな、」

 日が昇りきって、夜明けを告げる冷たい風が吹いた。三橋のマフラーがぱたぱたとなびく。影が伸びてゆく。吐き出す息はどうしようもなく熱いのに、指先も顔も冷え切っている。太陽の光は大地を照らしても、阿部を温めてはくれなかった。
 言ったら最後だ。気持ちを伝えた瞬間に、この関係は終わる。そして、それは終わってしまったら、恐らく二度と修復できない。少なくとも、トモダチにはなれない。たとえ三橋ができたとしても、オレにはできない。あんな思いは、もう二度としたくない。よぎるのはいつだって追いつけなかった背中だけだ。あのひとがオレを見てくれることはなかった。
 周りの明るさに導かれた三橋の横顔は泣きそうだった。頼むから傷つかないでくれ、勝手に願う。傷つけているのはまぎれもなく自分自身なのに。
 何の確証もない。守るとか受け止めるとか乗り越えるとか、そういうことはできやしない。抱きしめて触れ合って言葉を与え合って、それだけでいいならとっくにそうしていた。たった十七で、高校生で、子どものままで、何ができるんだ。何をしてやれるんだ。これまで一緒に野球をして過ごして、それじゃだめだった。どうしたって、もうそれじゃ満たされない。そこまできてしまった。全部ぶち壊す覚悟も勇気もないくせに、すきだという感情だけが勝手に育っていってしまった。
 三橋はオレの気持ちを知らない。受け入れられるとも思っていない。三橋はオレを信頼してくれて、おれはそれに尽くすって、あの合宿の日に決めたのに。オレが過剰なくらい構っても、三橋は何も言わない。それはオレが信頼されているからだ。勘違いするな、三橋がオレをすきなわけがない。そんなことで、三橋を裏切るわけにはいかない。そう思わなければ、三橋の赤い顔にも、名を呼ぶ声にも、ジャケットにつかまった手にさえも、期待してしまう。三橋、三橋、ただ彼の名前だけが頭をめぐる。

 遠いな。

 遠い。朝靄に包まれてつぶやく。オレと三橋はこんなに近くにいて、ずっと遠くの場所にいる。
 いつからだろう。
 いつからオレは、三橋を全部欲しいと思ってしまったんだ。そうしてこれからも気づかないふりをしてゆくんだろうか。オレの気持ちにも、三橋の気持ちにも。できるだろうか。自分でも持て余す熱を。投手として捕手として、いつまでそうしていられる。愛情でも劣情でもないきれいな気持ちなんか、すぐに消えてしまう。いつまで縋るつもりなんだ。
 そんな全部を受け止める、なんて。口ですら言えない。きっと傷ついて、傷つけて泣かせる。そうして終わる。だったら何も言わない。その代わり、もう少しオレを見ててくれないか、そう思うのはどこまでも自分勝手な話だ。

 だってその手を取ってしまったら、オレたちはもう戻れない。

 三橋はマフラーに顔を埋めて目を閉じた。阿部はポケットに手を突っ込み、深く息を吐いた。帰ろう、とも言わなかった。空は蒼く染まって、世界はまた新しくなる。二人の世界だけが、変わらない距離を保つ。願っても埋まらない距離が、そこには確かにあった。





 十六歳だったら、がむしゃらに触れ合ったかもしれない。
 十八歳だったら、すこし未来を考えられたかもしれない。



 十七歳だった。ただ、十七歳だった。






20100107/何もできない両片思いアベミハ
20200628/修正



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