イチ、あるいはゼロ



 23:30。表示が変わった瞬間にディスプレイが光るのを見て、思わず笑みがこぼれる。何分も前から携帯を手に取り、今か今かと待つ様子が手に取るように分かるからだ。

「……もしもし」
「もしもし、」
「……どした、」
「ど、どしても、ない、」
「何か嬉しそうだけど」
「あ、えっと、あのね、帰りに、田島君とね」

 金曜の夜に電話をしだして、何回目になるだろう。直前まで一緒にいても、離れた瞬間に声が聞きたくなって、我慢しきれず阿部が電話をかけたのがいつかの金曜だった。その翌日の部活帰りに、二人で話してルールを決めた。
 一週間に一回、30分だけ。わざと時間を短くしたのは、翌日を考えて夜更かしをしないため。三橋にさせないため、というのが阿部の本音らしい。自分ならたぶん目をこすってでも、話がしたいと思うから。阿部ですらそうなのだ、三橋がそれをしないわけがなかった。最初はある程度縛りをかけるべきだと判断したのだ。
 もうひとつ、電話は交互にかけること。通話料金も半分にしよう、ということだった。三橋が言いだしたルールだったので、阿部も承知した。
 初めて電話をかける日は、家に帰ってからずっとそわそわしていた。「今日、かける、ね」、そう言うと阿部は少し目線を逸らして「おー、待ってる」と返した。眠くならないようにと時間ギリギリに風呂に入って、考え事をしていたら時間が過ぎていて、濡れた髪のまま慌てて携帯を掴んだ。呼び出し音がずっと頭に響いて、その時に初めて緊張した。

「もし、もし」
「三橋、」
「は、はいっ、」
「さっそく遅れんなよ、」

 そう言いながら、阿部の声には責めるような雰囲気が全く感じられなかった。ぽたぽた落ちてくる水滴をいい加減にふきながら、とりあえず謝った。

「ご、ごめんなさい、お風呂入ってて、」
「電話のこと、考えてたんだろ」
「う、……だって、緊張、する……」
「いっつも喋ってンのに?」
「いっつも、緊張してる、」

 電話越しに聞こえる阿部の声は、普段話すよりも少し低い。その低さがくすぐったいようで、心地よく三橋の耳を震わす。短い時間の中で出来るのは本当に他愛もない話だけで、だからこそ続けてゆけるものなのかもしれなかった。電話を切っても、寝て起きればまたすぐに会える。そう思えば、我慢できる気がした。
 交互にかけよう、と言ったのは、最初の電話がこのような経緯を辿ったことを考えれば英断だった。その後、再び三橋がかける際にまたもや時間がかかったからである。阿部が理由を聞けば「緊張してかけられなかった」と言うのである。逆にかけてみれば今度は「取るのに緊張した」と。なあオレたち付き合ってるんだよな、そのときはさすがに苦笑した。

「……つきあって、る、よ」
「じゃあもう緊張しなくてもいいじゃん」
「、いく、ない」
「何で、」
「……だって、」

 電話越しに聞く三橋の声は、いつもより少し高い。ゆっくりと、たどたどしい言葉遣いは変わらない。むしろ、他の音が聞こえない中では普段よりクリアになるくらいだ。名前を呼び合うだけで終わってしまう日もあった。最後はお互いにおやすみを言い合った。すきだとも言った。
 それでも自分が言い出した手前、言えるはずもなかった。会いたくなる、そんなことを、言えるはずもなかった。電源ボタンを押した瞬間の静けさだとか、熱を持った携帯だとか、着信履歴に残る三橋の名前だとか、そういうものすら阿部を焦らしていることを、言えるはずもなかった。
 そうやって葛藤を何度か乗り越えて、今に至る。ここの所はお互い遅れることもなく話が出来るようになっていた。一日のほとんどを一緒に過ごしているから、その内容は些細なことが多い。むしろ、話の中身などどうでもよくて、声が聞きたくて、同じ時間を共有したかった。
 今日もひとしきり話して、時計を見ればあとわずかで日付が変わる頃合。三橋は携帯を下に寝転んでいた。阿部の声は気持ちいい。たぶん切ったらこのまま寝られる、ああもう切らないといけない、そう思った瞬間に、口が勝手に動いた。気がした。

「……でんわ、してると、」
「うん?」
「あ、あいたく、なるね」
「………そ、か」
「うお、ご、ごめんなさい、」

 はっとした。明日になればすぐ会えるのに、そう言いながらまぶたが熱くなった。涙声になるのを、何とかごまかす。
 どうしてオレは、こんなに我慢ができないんだろう。阿部君とふたりで決めたのに、どうして。明日も早いのに、すきで、野球したい、すきだ、ねえ阿部君、
 あいたい。
 会いたい、です。

「……じゃ、今日は切るか」
「、う、ん」
「もう遅いかもだけど、」
「ううん、」
「また明日な、おやすみ」
「お、おやすみ、なさい」

 ディスプレイを見ると、ちょうど0時を表示していた。パタンと閉じて枕に顔を埋める。
 やってしまった。阿部の声はいつもと同じように聞こえた。でも困らせた。たぶん携帯の向こうで、そういう顔をした、と思う。「オレもだよ」、本当はそんな言葉を期待していた。そうしたら、一緒だね、またすぐ会えるから平気だよ、うん、おやすみ、そう言えた。あんな風に言われたら、まるで自分だけが会いたがっているようで、いや事実そうなのだ。それだけなのだ。ただ、阿部が自分と同じように考えてくれているかは分からない。知るのが、少し怖い。このまま、自分だけがどんどんすきになってゆくようで、怖かった。
 先ほどまでのゆるい眠気は消え、悶々とした思いだけが残る。明日どんな顔をして会えばいいだろう、携帯をいじりながらそんなことを考えた。

「うひゃ!」

 突然、触れた携帯が振動を始める。メールではない、着信だ。着信音は、ディスプレイの名前は、
 ―――どうして。

「あ、もしもし」
「三橋、?」
「ああああべく、」
「お前焦りスギ」

 阿部隆也、の文字と共に耳に入ってきたのは、ほんの今まで話をしていた相手のわらう声だった。少しだけ、息遣いが荒い。「下、」そう言われて窓を開けて見下ろすと、いつもの顔で手を振る阿部がいた。携帯を耳に当てたまま玄関に飛び出す。

「あべ、くんっ!」
「ばか、夜中だろうが」
「だ、って、何で、」

 諌める声も聞かずに抱きついた。触れ合った頬もくちびるもひんやりしていて、そのくせどちらも赤くて、阿部がどれだけ急いで来たのかを明示していた。ぎゅう、と抱き合って、肩口から見えたのは、木に立てかけてある自転車。止める時間も惜しかったのだろうか。格好もスウェットにパーカーを羽織っただけで、防寒対策が出来ているとは言えない。そこまでして、まるで何でもない顔をするのは、彼らしいなと思った。
 頬に触れる手に反応した三橋を見て、阿部は慌てて手を引っ込めた。その手を逃がすまいと、三橋が握りしめる。体温、移すからね、三橋がそう笑うと阿部もゆっくり握り返した。

「……三橋がさ、会いたくなるって言うから」
「あ、ごめ、」
「あーそうじゃなくて、」
「うん?」
「考えてること一緒なんだって思ったら、チャリかっ飛ばしてた」

 ああ、おれはこのひとがすきだ。やっぱり、すごくすきだ。





 明日朝メールすっから返事返せよ。

 立てかけたままだった自転車に乗りながら、阿部が言った。彼なりの、この時間に会ったことに対する謝罪なのだろう。三橋がそう捉えることがないと判断しての、妥協策だった。

「オ、オレ、起きられ、」
「んでも、もし寝坊したらオレのせいじゃん」
「あ、阿部君こそ、寝坊、するかも」
「んー、じゃあ先に起きたほうがメールすっか」
「うん、!」

 んじゃ今度こそおやすみ、気をつけてね、風邪引くから早く入れっつの、うん、入る、おやすみなさい、

 いつかお見舞いに来たときのように何度か振り返りながら、阿部の自転車は夜道に消えていった。部屋に向かいながら着信履歴を見て、笑みがこぼれる。夜中の着信。また金曜日、その上に新たに阿部の名が刻まれる。まだ心臓はうるさいのに、なぜかよく眠れる気がした。



From:阿部隆也
Subject:おはよ

起きてっか
今度会いたいっつったら
ウチ泊めるからな

  - END -



 翌日、早朝に届いたメールに、文字通り眠気が吹っ飛んだ。






20091130/堪え性のないアベミハ
20200628/修正



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