あべ先生と生徒みはし 十五話



 ちょっとイキヌキ、またはゴホービ。
 夏休み頑張った三橋君、行きたいところはありますか。



 何か、先生が、先生じゃないみたい、だ。先生なのはマチガイナイ、んだけど、だって今、デンワしてるの、先生とだし、でも、何だか、ヘンな気がする。

「何だよ、熱あるんですかって」
「だ、だって、」

 隣を歩く先生が笑う。九月なのに日差しはまだ強くて、歩いてるだけで汗がぶわって出て、会ってすぐにかぶってろって言われた黒い帽子に触る。首元がじりじりするのは、日差しのせいだけじゃない。……いつまで経っても、ふたりに、慣れない。
 左手に、まっ白い腕時計。先生の左手には、まっ黒の腕時計。大事にしまっておいたのを、今日、初めてつけた。先生からの誕生日プレゼント。お揃いなんて、何だかすごく、ムズガユイ。
 夏休み、たくさん勉強したんだろって、一日ぐらいリフレッシュしろって言われて、何回目かの、デートだ。電車を乗り継いで、古書、っていうのがいっぱい売ってる街に来た。ところどころにスポーツショップがあったり、都内っぽくない古い雰囲気の街並みがあったりして、居心地よく感じる。
 これが、イキヌキかゴホービ、なんだって。その提案を聞いた時に、そんなこと言うなんて、熱があるんじゃないかって思ったんだ。
 だって、何か、やさしい、から。そう言ってから、これじゃいつもやさしくないみたいじゃないか、って気づいて、慌ててチガウ、って否定したけど、遅かった。

「つまり普段はやさしくねェと」
「い、いつも、やさしいけど、あの、」

 甘やかされてる、気がして。先生は先生だから、もっともっと勉強しろって、言うと思って。

 そう言うと、急に目の前が真っ暗になった。いきなり帽子を目深にされて、前が見えなくなった、らしい。頭のてっぺんをぐって押されたから、やったのは絶対先生。

「な、な、何、するんですか、」
「どーせそんなこったろうと思ったからだよ」
「え、?」
「この辺の時期で一回焦んだよなあ、ゲンジツ見て」

 違うか、って目線を合わせられて、大人しくうなずく。だって、焦る、よ。
 今年はジュケンセイで、夏休みに行ったオープンキャンパスは高校と全然違って、予備校の偏差値はまだまだ足りなくて、毎日夏期講習ばっかりで、もっと頑張らなきゃいけなくて、でも二学期は始まっちゃって、そんな中だったから。始業式から、周りも、オレも、みんなどこかそわそわしてた。いつもなら日焼けしてるクラスメイトも真っ白で、眼鏡かけ出した子もいて、勉強してたぞっていうのが伝わってきて、ほんのすこし、ちょっとだけ、息苦しかった。

「そういう、ものなんですか」
「毎年学期明けはこんな感じなんだと、オレも他の先生に聞いただけだけど」
「………こんな、感じ」
「まあ夏休み終わりゃ焦るよなァ、」
「う、はい、」
「でもそれはフツーだぞ」
「フツー、」
「自分一人で考え込んで焦って他の奴のが出来てる気がして何していいか分かんなくなんのが、フツー」

 そうか。そう、なのか。ほんとに、って思ったら、歩く足を止めちゃった。先生が歩くスピードをゆるめて、隣に並ぶ。ほんとにそうだとしたら、ばたばたしてたこころが、ちょっとだけ落ち着いて、ゆっくり呼吸が出来る気がした。今日は、先生と会うからドキドキしてただけじゃ、なかった、から。
 ちょっとだけ目線を上げたら、こっち向いたな、って笑う。問題が解けました、って言った時みたいな、それで合ってるよって、先生の顔。

「だからイキヌキっつっただろ」
「オレ、は、そ、れ、甘やかしてる、って」
「たまには自分を甘やかせってこった」
「い、いいんですか、」

 先生はちょっとだけ考えると、「……お前、休みの日って起きるまで寝てるタイプじゃねェの」って聞いてきた。今は土曜日も予備校があるけど、日曜日は結構寝過ごすことが多い。アラームかけといても、お母さんがまだ寝てるの、って部屋に入ってきて、初めて目が覚めるってことばっかりだ。

「うえ、そ、うです、けど、?」
「それと一緒、こうやって甘やかしてもっと自分を大事にしろ」

 言ってから、うわキョーイクシャみてェ、ってなぜか落ち込んじゃった先生がおかしくて、笑った。
 ……今日、初めて笑った気がする。だって先生は、先生だから、キョーイクシャなのに、ヘンなの。両手を口に当てて笑ってたら、先生の手がオレの左手を見て言う。

「似合ってンな」
「そう、ですか」
「オレの目に狂いはなかった」
「ふは、あ」

 そのまま笑ってたら、すいって右手を握られた。ビックリしたのと、大丈夫かなっていうのと、それから、先生だって、黒い腕時計似合ってるなあって、そう考えてるうちに、ぎゅってつながれて離せなくなった。
 オレの右手と、先生の左手がくっつく。暑いけど、体温、が、キモチイイ。

「……オレもイキヌキでゴホービが欲しかったんだよ」

 見上げると、授業中とは違う、準備室の時とも違う、男の人の、かお。一瞬目が合って、ふいってそらされて、首元と耳がちょっと赤くて、何だか、かわいいって思ってしまった。たぶん言ったら怒るから、言わない、けど。先生も同じなんだっていうのが嬉しくて、胸の真ん中がじわじわする。

「で、今日はどこに行きてェの」
「あ、えっと、本屋さん、問題集、欲しくて」
「お前なあ、イキヌキっつった直後だぞ」
「きょ、今日はしない、しない、けど、先生の、オススメ、あったらなあって」

 オレの数学の成績をいちばん知ってるのは先生だ。こればっかりは予備校の先生もかなわないと思う。授業でもこういう問題集、とか言ってたけど正直難しくてどうしようって思ってた。
 文系で受験するつもりだから、センター試験が解ければいいんです、もっと言うと、半分取れればいいんです、そう訴えると、先生はため息を一個ついて、スマホで何か調べ出した。

「……もーちょい歩くとデカい本屋あっから、そこな」
「! あ、ありがとう、ございます」
「そん代わりオレの行きたいトコにも付き合えよ」

 こくこく、と頷くオレの頭を、先生がぽんとたたく。本屋さんへ向かいながら、どこだろう、先生の行きたいところ、って考える。
 そういえば、何が好き、っていう話も結局できてない。誕生日にケーキはあげたけど、先生と甘いものってあんまり結びつかないし、好きなスポーツとか、テレビとか、普段どこに行くとか、全然知らない。一人暮らしっていうのは知ってるけど、どんな部屋なんだろう。……何か、何にもなさそう。

「お前、今シツレーなこと考えてね?」
「か、んがえて、ない、」
「ふーん?」

 何とか気をそらさなきゃって、オレからぎゅって手を握りなおした。
 先生に言わなきゃ。明日からヨビコウで、授業が終わったらすぐに行かなきゃいけない。毎日そうなるから、準備室に行ける日がなくなっちゃう。先生と会う時間も、今までより少なくなっちゃう。でも、それでいい、って思う。
 いい子じゃないのも、ワルイコトしてるのも分かってる。先生はきっと何がワルイって言うけど、たぶん分かってる。先生と生徒じゃ、このまま続けちゃダメなんだってこと。ワルイコトだから、隠れるみたいにしなきゃいけないんだってこと。今日だけだから、明日から、ちゃんと勉強するから。そいで、受験して、合格して、卒業したら、そしたら、ちゃんと、言うんだ。



 オレから、もう一回、すきです、って。
 オレと、付き合ってください、って。





202008/拍手掲載
20200516/修正



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