淡雪やわく ふわふわにふわふわが乗っかると、触りたくなるモンなんだな、と、思った。 静かだったクラスが急にざわついたのは、五時間目も終盤の頃。 「せんせー、雪!」 「外行ってもいいですかー!」 騒がしさに阿部が目を開けると、朝から灰色だった空、そこから文字通り、白い塊がふわふわと落ちてきていた。既に立ち上がっている生徒に対し、「お前ら高校生だろ、ちょっとは落ち着け」と言い放つ教師もまた、窓に目を向けている。そういや朝からやけに寒かったけど、雪か。 ……帰りがメンドクセェな。 今日はミーティングのみでグラウンドでの練習はない。雪の粒は大きく、勢いを増して降ってきている。場合によっては自転車で帰るのも危険だろう。それよりも、これから降り続けるなら明日の朝練の方が問題だ。この地域で積もることはないだろうが、凍結でもしたら練習にならない。塩カルって部室にあったっけ、後で篠岡とシガポに聞いてみっか。思考は授業終了のチャイムに遮られ、続いてテンションの上がった水谷にも遮られる。 「雪だよ阿部!」 「そーだな」 「何でそんな座ってられんの、雪って言ってんじゃん、外行こう!」 「やだよ寒ィし」 「オレも行かねェからな」 「ウソでしょ、雪だよ? 何なの二人しておじいちゃんなの?」 せめてもの反抗なのか、教室の引き戸を全開にして雪を連呼する水谷。その奥に見えたのは、見慣れた三人組。 「花井ー! 今日のミーティングの後、雪合戦しよーぜ!」 「んな積もるわけねェしやんねェよ!」 「えー!」 「だから言ったろー、こーゆーのはこっそりやるもんだって」 あからさまにしょんぼりする田島に、半分あきれ顔の泉が言い聞かせる。どうやら雪合戦は田島の独断だったらしく、残りの二人は引きずられて七組に来た雰囲気だった。尚も雪だるま、かまくら、と言い続ける四番を主将がなだめすかしている間、ふとエースと目が合う。瞬間目をそらすあたり、まさかこいつもか、と声をかけた。 「……お前もやりたいわけ?」 「オ、オレ、うん、やりたい、」 正式に訂正しよう、雪合戦メンバーは二人だった。 「……真面目に積もんねェぞ」 「こ、こんな、降ってるのに、?」 お前毎年群馬行ってンなら雪の量分かんだろ、つーか珍しくもねェんだろ、喉まで出かかった言葉を飲み込んで、廊下の窓へ二人で近づく。三橋は窓から伸ばした手に雪が落ちる度にわあ、だの、おお、だのいちいち反応している。あんま伸ばしすぎんなよ、と後ろから声をかけても生返事。これは相当タノシイのだろう。 「レン、手」 「へ、う、お、」 そろそろチャイム、というところで阿部は半ば強引に三橋の手を取った。思った通り、ほんの二、三分でも外にさらされた手は指先まで冷えている。体温を移すようにぎゅうっと握りしめると、寒さで赤かった三橋の耳は別の意味で赤く染まった。 ……んな反応されたら離したくなくなるっつの、 欲に正直な体は言うことを聞かない。指先のマメを確かめるようになぞれば、ぴく、と反応する。指を絡めて引き寄せたら、三橋はどんな顔をするだろうか。大事な右手にくちびるで触れたら、びっくりして泣くだろうか。 もうすぐ六時間目だ、教室に帰さなければ、そんなことは、分かっているけれど。 「あ、あべく、も、大丈夫、」 「……おう、じゃあこれ、」 戸惑う三橋の声に何でもないように手を離して、行き場をなくした彼の右手にポケットのカイロをぽんと乗せる。早く戻れ、とジェスチャーすればちょうどチャイムの音だ。今度は慌てた泉に引きずられるようにして、九組の三人は戻っていった。 何でもないように、という時点で、何でもないわけないのである。冷たくなった指先を思い出して、阿部は自分の手をきゅっと握った。 結局、雪は弱くなり強くなりを繰り返し、放課後まで止むことはなかった。ミーティングを終える頃には、道端の木々にうっすらと積もりだしていて、明日の朝練の連絡はグループラインに回ることになった。朝、百枝がグラウンドの様子を見て決めるという。豪雪地帯ではないので雪かきから練習がスタート、とはならない。外でできなければ、中でトレーニングをするだけだ。 甲子園優勝までの時間は、こうしている今も刻々と過ぎていっている。 「グラウンド以外で積もってくんねーかな」 「何で雪が気遣わなきゃいけねンだよ、アホか」 「だって野球はしたいじゃん? でも雪で遊びたいじゃん?」 ムズカシー! と嘆く田島と、ため息をつく花井。その様子に三橋が噴き出せば、周りもまあまあとなだめる。そうは言っても、自転車を押す帰り道、さりげなく積もった雪を踏んだり、小さな雪玉をぶつけて遊んだり、何だかんだ部員全員が雪を楽しんでいた。 前を行く水谷は、隣の栄口と巣山に向かって休み時間の愚痴をこぼす。 「雪だよ? って言ったのに二人とも全然キョーミない、みたいな顔してさあ」 「あはは、それでミーティング前ふてくされてたの」 「お前、あの二人がわーって駆け出すタイプに見えたのか」 「だけどさ、もっとね、若さを前に出してこうって話、ねえ阿部」 「はあ?」 くるり、と振り返った水谷が小さな雪玉をぺしん、と阿部にぶつけてきた。どうやら仕返しらしい。「ンのヤロ、」でかい雪玉を作って思いっきりぶん投げてやりたいが、いかんせん自転車、そして雪の量が圧倒的に足りない。水谷は満足そうな顔をして「三橋だってそう思うよねー?」と味方を増やす作戦に出た。三橋が何か答えようとしている間に、阿部は「じゃあオレらこっちだから」と半ば強引に三橋を連れて角を曲がった。 すべらないように歩け、そう言って、並んで自転車を押す。さくさく、とまではいかないまでも、足元はあちらこちらに白が落ちている。すこし歩いていると、不意に三橋が笑った。 「ふは、おなか、白い、」 「は?」 指さされた場所を見れば、コートの中ほどに先ほど水谷からぶつけられた雪玉の跡がまだ残っていた。急なことで避けられなかったのを思い出し、きまりが悪そうにはらえば、またふふ、と三橋は笑う。 「笑うな」 「う、ごめ、」 「いや謝んなくていんだけど」 「うん、」 皆と離れた途端、こうして会話が途切れて、消えてしまう。 試合中やミーティングならまだマシだ。必要なことを必要なだけ話せばいい。だがこういう時、何を話せばいいか阿部には分からない。きっと三橋も分からないのだろう。世の中のオツキアイしてる人間たちは、どんな会話して生きてんだろう。 今日はいい天気だったな、雪だけど。昼飯何食った、弁当だろ。明日野球できるといいな、いやそりゃそうなんだけど、何かもっと、何か、気の利いたことばでも出せねェモンか。 「……?」 不意に、横を歩く猫っ毛が消えた。慌てて振り返ると、三橋は自転車を脇に停めて、はらはら落ちる雪を見上げている。気づかれないように自分の自転車を端に停めて、阿部は三橋を見ていた。雪はまた強く降り出してきている。三橋はその粒が顔に当たるのも気にせずに、目を細めて文字通り雪を浴びていた。 休み時間を思い出す。手に落ちる雪を眺めながら、やっぱりこいつはこんな顔をしていた気がする。雪は遠慮なく降り注ぐので、あっという間に猫っ毛が雪にまみれる。 無意識に歩み寄って、手を伸ばす。雪の中に消えてしまいそうだとかそんなことは一切思わなかった。 そこに三橋がいる、だから、触れたい。 ふわふわにふわふわが乗っかると、触りたくなるモンなんだな、と、思った。 触れたかった。触れてみたかった。やわらかい毛先が雪に濡れて、解けた雫がぽたりと落ちてゆく。本格的にびしょ濡れになる前にどうにかしなければいけない。髪の毛同士が絡まないように雪をはらいのけてわしゃわしゃ撫でまわし、コートの袖口で濡れた顔をぬぐってやる。何だかたからものに触れているようで、じわりと耳が熱くなって、次いで、何故だか泣きそうになった。 「んぶ、あ、べく、何?」 「ん? いや、何か、お前の髪の毛あったかそうだなと思って」 「ゆ、雪、だよ?」 「まーそうなんだけど、ふわふわにふわふわが乗っかってたから、何となく」 「ヘ、ヘン、なの」 「うっせ」 三橋が笑って、今度は阿部の髪に触れた。三橋よりも硬い毛質のおかげでそこまで濡れてはいない。さわさわと触れられるのが心地よくて、阿部は目を閉じた。三橋は黒と白の組み合わせは何だかキレイだ、と思ったし、阿部が自分のなすがままになっているのも、すこしだけ、嬉しかった。ぽんぽん、とはらっても、また雪が落ちてくるせいで埒が明かない。目を開けた阿部が「まーた積もってンぞ」と三橋の髪に触れる。 しばらくお互いの頭の雪をはらいのけて、そうして、やっと屋根があるところに行けばいい、という解決法を見出した。ここから近いのは三橋の家だ。ハンドルとサドルに積もった雪もはらって、ゆっくりと歩いた。 ここでいいよ、と玄関先で立ち止まった阿部に、三橋はせめて座って、と入口へ手を引いた。勝手に、帰らないで、ね、そう言って駆けだすとタオルを持ってきた。家はまた無人らしく、雪のせいでしんとしている。髪をふき、コートを脱いで染み込んでしまった水分をタオルで吸い取ってゆく。ふわふわしたそれは三橋の猫っ毛のようで、何だか笑えてきた。横に座った三橋もタオルで髪をふいているが、そのそばから雫が垂れている。雨ではなかっただけマシだが、これでは風邪を引く。タオルを奪って思いっきり髪をふくと、きゃあきゃあわめいて、そうして、「阿部君、今日、いっぱい笑う、ね」と返してきた。 「そうか?」 「そう、さっきから、ずっと、」 「そっか」 「……オレの、カオ、おもしろいのか」 「は、ばっか、ちげェよ」 そんなこと思ってたのか、また笑いながら言うと、三橋は本気でそう思っていたのか、ぷいっとそっぽを向いた。そんなところでさえ、笑えてしまう。こっち向け、と今度は阿部が引っ張って、ひと回りちいさいからだを抱きしめた。顔に当たるふわふわの猫っ毛は冷たくて、そのくせからだは熱を出しているのかと思うぐらい、熱い。 確かに、今日はいつもより笑っている気がする。それも、三橋の前でだけ。というより、三橋を見て、阿部は自然と笑っていた。 「オレさあ、」 「う、うん、」 「お前笑ってンの見るのすきかも」 「……オレ、?」 「楽しそうにしてんなー、って思うと笑っちまうみてェだ」 「か、カオ、じゃなくて?」 「じゃなくて、お前のゼンブ」 「そう、そう、なのか」 何だか相当恥ずかしいことを言った気がするが、三橋が納得して顔を寄せてきたので、気にしないことにした。つめたくなった頬が触れ合って、ひやりとした感触。手のひらに伝わる心拍数はどんどん速くなってるのに、人体ってフシギだよな、そんなどうでもいいことを、思った。 キスをするのは何度目だろう。最初こそ三橋は数えていたが、からだのずっと奥まで触れ合ってからは、言わなくなった。つめたくて乾いたくちびるを舐め取る。 最近、もっと、とは言わないまでも、三橋はすこしだけ主張するようになってきた。口を離せばねだるように追いかけてくる。欲しいと思われているのが嬉しくて、飽きもせずキスを繰り返した。ぎゅう、と阿部の上着を握りしめる手をすこしずつ解いて、祈るように自分のそれと絡める。 「……ん、う、」 「……お前さあ、今日早く寝ろ」 「え? 何で」 「明日の朝練、いつもより早く行けば積もってんじゃねェの」 「! 積もる、かな」 「分かんねェけど、モモカン来る前に足跡ぐらいはつけられるんじゃね?」 「わ、足跡、つけたい!」 楽しみだね、先ほどまでの雰囲気を一気に消し去って三橋が笑う。雪玉作れるかな、うまく投げられるかな、あと、小さい雪だるまも作ろう、完全に阿部も一緒に行くと解釈して、子どものようにはしゃぐ猫っ毛をなでて、またキスをする。 これでいいか、と思う。気の利いたことばも、かっこつけたセリフもいらない。三橋が笑うなら、それでいい。そうやって、一緒に笑う自分も、まあ悪くない、と阿部は思う。他の奴らじゃなく、こいつの前でなら。 赤くなった耳元で、すきだよ、と思ったことを素直に告げる。ぴゃっと弾かれたようにこっちを見た三橋に、「阿部君、熱、あるだろ」と額に手を当てられた。 うるせー、たまには浮かれたっていいだろ、雪なんだから。 20210201/雪と一緒に笑うことが増えたアベミハ ← |