あべ先生と生徒みはし 十四話



 今年は知ってンだな、そう言うと勉強したんです、って返ってきた。
 いやそんなんいいから受験勉強してくれ。思わず出そうだった本音を飲み込む。
 放課後の数学準備室、夕方って時間でも日が落ちるのが早くなった。中間試験が終わって、あっという間に期末試験まで一ヶ月を切った。受験に数学はいらなくても卒業できなきゃ意味がねェ。テスト前の補習より先に三橋を呼び出す理由にしては立派なモンだろ。

「去年、トリトリって、言ってた」
「Trick or Treat.な」
「そう、それ、テレビ観てたらいっぱい言ってて」
「ほんと最近だぞ、こんな騒がれだしたの」

 少なくともオレが学生の頃はこんな文化自体なかった気がする。そりゃあったんだろうけど、ここまでデカいイベントではなかった。街中にカボチャだのコウモリだのそれらしい装飾が急に出てきて市民権を得てしまった。とりあえず渋谷には近づかねェでおこう、と思うぐらいには。

「でも先生は、去年から知ってたでしょう」
「ただの一般教養だよ」
「イッパンキョーヨー」

 絶対に分かっていない発音で三橋が続けた。……こいつたぶんリーディングでもこんな感じなんだろうな。受験に数学いらねっつっても英語は必須だろうが、さすがに英語は管轄外だ。

「ほら、問五」
「う、えっと」
「……お前、確率は計算で出せっからな? そういう問題なんだからな?」
「うぐ、だって、全部書いた方が早い、」

 法則をまるで無視して、三橋はひたすらに表を書いて赤玉白玉の出る個数とその回数を書き連ねる。そういう手間を省くために公式があって数学ってモンがあるはずなんだけどなァ。一生懸命に解く姿を見ると何かもういいかという気さえしてきた。教えるというのはなかなかどうして難しい。
 できた、と自慢気に見せてきた解答欄には正解の数値。じゃあもっと簡単なやり方説明すっから聞いとけ、そう言うと三橋はこくこくと頷く。

「と、りっくおあ、とりーと」

 解説を一通り写し終わり、五分休憩、とコーヒーを入れに立ち上がったところで不意にそう言われた。去年のぽかんとした顔を思い出してわらうとすこしむくれて「返事は、」とせっついてくる。

「意味まで調べたのか?」
「え、っと、お菓子、くれなきゃイタズラする、ぞ」

 意訳だけどほぼ正解。英語科ではないので単語の意味はこの際無視だ。
 引き出しの二段目には教員間でこまごま配り合う駄菓子や土産を入れていたが、いつの間にか三橋に食べさせる菓子を入れる場所にもなっていた。今日も例にもれずハロウィンのラッピングがされたクッキーを用意してある。三橋は何を出しても美味しい、と繰り返すが、かと言ってあまり安価なものを渡す気にもなれなかった。そうしてんのは取るに足りないプライドだった。別に財布に痛い金額でもねェ、何だったら今まで気にも留めなかったケーキ屋や雑貨屋を探すようになっている自分に驚いてるぐらいだ。
 自分の発言で文字通り右往左往するイキモノがいる。ふくれっ面も泣き顔も、くしゃくしゃの笑顔もまん丸い目も、三橋をかたちづくる何もかもに惹きつけられてやまない。けれどそれを素直に伝えることが何だか癪で、というか要は気恥ずかしくて、ついからかっては大人ぶるのがクセになりつつあった。
 わざとらしく引き出しを開けて閉める。三橋の目にはきっとラッピングが見えたはずだ。

「悪いな、菓子売り切れてる」
「え、だって、それ、」

 自分でもワルイカオしてんだろうな、そう思いながら「お菓子くれなきゃイタズラなんだろ?」と返す。三橋のイタズラはどんなものなのか、純粋に興味があった。こんな風に余裕のあるフリは、いったいいつまで続けられるのだろう。
 三橋はうう、とすこしうなった後に、「目を閉じてください、」と言った。キスでもしてくるつもりか、耳が熱くなるのを気取られないように、つとめて冷静を装って目を閉じて待つ。
 そういや初めてのキスは三橋にとっては問答無用のひでェモンだった。よくもまああんな始まり方で一年以上一緒にいてくれるよな、ぼんやり考え事をすることで三橋の動く気配から意識をそらす。……オレ、こういう時にここまで心臓うるさくなるタイプだったか? ここまで意識しないと気をそらせないタイプだったか? 未だに何も起こらない状況にすこし焦れて目を開けそうになった瞬間、

 ぐに。

 この感触は絶対にキスではない。
 つうか何だこれ、頬が、

「お……っまえ、」
「あ、目、閉じてって、言った、」
「うっへえ、はなへ」

 頬の痛みに目線を下ろすと、まあ見事に両頬を引っ張られている。文句を言いてェとこだが口ン中を噛みそうでうまく話せない。あまりに間抜けな顔をしてたからか、頬を引っ張り続けている三橋が我慢しきれず噴き出した。

「ふ、は、せんせ、ヘンなかお、」
「だからはなへって」
「や、ですー」

 けたけた笑う猫っ毛の手を取る。たいした抵抗もなく、逆に絡められた指を横目に今度こそキスをした。リップ音を繰り返すうちに鼻から抜ける呼吸さえ奪いたくなって、開きかけた口に侵入すればきゅう、と指に力が入った。
 くぐもった声と共に、ゆっくりと三橋のそれが応えてくる。飴でも食ったのかと思うくらいに、あまい。
 頭がくらくらすンのは、酸素が足りねェからじゃなかった。

「……イタズラ、って、こういうのだと思ってたんだけど?」
「だ、って、これ、……これ、イタズラじゃない、」
「は?」


 先生とのキス、イタズラなんて、思えない、です。


 三橋はそうやって、オレの余裕を簡単にぶち抜く。

「ぜんぶ、大事にしたい、から、今までのも、これからの、も、」

 はっとして、「こ、これから、なんて、分かんない、です、けど、っ」途端にしどろもどろになるイキモノ。今までと、これから。黙ってしまったこっちをうかがうように、今度は「せん、せい、」と、小さな声で呼びかけてくる。
 そうか、三橋にとってキスはイタズラなんかではなくて、それは今までもこれからも同じで、これからなんて夢みたいなこと考えてたのも同じで、ああもう、

 何て言えば伝わるんだ、

「……せんせい、」
「………うん、」
「せ、先生、あの」
「………なに、」
「こ、これから、って、いうのは、」
「うん、」
「………か、考えて、いいこと、ですか」
「…………ああ、」

 背中に回した腕から、三橋の心音がどくどくと伝わってくる。オレもだよ、ンなこと聞くな、そう言いたくてものどに詰まってうまくことばにならない。そうやって安心させることもできない。肝心な時に、ことばは無力だ。胸元がじわ、と熱くなる。また泣かせた。みはし、名前を呼べば目のふちを赤くして見上げてくる。
 何て言えば伝わる、何て言えば安心させてやれる、何て言えば、三橋の全部をすきだと伝わる。

「……なあ、」
「は、い」
「受験、頑張れ」
「……はい、」
「そんで終わったら、……これからのこと、ちゃんと考えような」
「か、考え、ます、頑張る、から、」
「ん」

 三橋はゆっくりと変わってゆく。
 変わンねェのは自分だけで、待つことしかできねェのも自分だけだ。大人だから待てるだの何だのカッコつけたことなんか、もう言える気がしなかった。
 額に口づけて、指で涙をなぞる。ひっぱってごめんなさい、熱くなった頬がすこし震えた手で包まれる。つめてェ、と笑えば、だって、キンチョウするんです、と不機嫌そうな顔。

 まだすんの、し、します、へえ、……な、何、……や、どうしたらあったかくなんのかなって、あ、あったかい飲み物、とか、

「ほんっとに色気より食い気だなァ三橋君」
「う、るさい、です」
「ほら」

 引き出しから出したハロウィンのラッピングをぽいと投げる。わ、わ、と言いながら両手でしっかり取ったのを見ながらコーヒーを淹れに立ち上がった。もちろん、三橋用のココアも用意してある。

「おー、ナイスキャッチ」
「や、やっぱりあった、」
「だからイタズラだって」
「?」
「あるのにない、っつうのがイタズラ」
「…………もっかい、引っ張る」
「やなこった」

 こぽこぽとお湯の沸騰する音が耳に心地いい。さて、ぽすん、と後ろから引っ付いてきた問題児をどうしてやろうか。





20191031/拍手掲載
20200815/修正



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