あべ先生と生徒みはし 十話



 そろそろ、だな。
 時計をちら、と見ると、帰り支度を終えた年配の同僚が話しかけてきた。

「阿部先生も早く帰ってくださいね、若いからって無理はいけないですよ」
「ありがとうございます、これが終わったら帰れます」
「そこからが長いんですよね」
「はは、ですね」

 廊下に出た同僚が「おや」と声を上げる。「どうしたんだい?」「あ、あの、あべせんせ、は」「ああ、阿部先生ね、中にいるよ」「あ、ありがとう、ございます」「質問かな? 私のところにはもうとんと来ないなあ」「え、えっと、」しどろもどろな様子に思わず笑みがこぼれた。緊張した顔で入ってきた三橋は、静かにドアを閉めて立ちつくしている。

「……こっち来れば」
「あ、さっきの先生、まだ、」
「もー帰っただろ、大丈夫だよ」

 質問だって向こうが言ってンだから、それ以上もそれ以下もねェって。
 そう言うと、三橋は用意された椅子におずおずと座る。いつもならもうすこし近いくせに、今日はいやに離れて座る。

「どうした?」

 聞かなくても分かっている質問をする。何でもない風を装うために、お湯を沸かす。わざと背中を向けていてやれば、小さな声で、小さく答えが返ってきた。

「………バ、バレて、ないですか、」
「何が?」
「その、……オレたちの、こと」
「誰に?」
「………だ、れにも、」

 オレの分、コーヒー一杯。真っ黒な水面に、歪な自分の顔が映る。
 三橋の分、コーヒー半分と、牛乳、ひとさじの砂糖。映る顔を見たくなくて、スプーンでかき混ぜる。ことん、と三橋の前にコーヒー牛乳を置いて、自分の席に戻る。マグカップを持っても、三橋は飲もうとしない。

「……何か言われたか、」

 そう問えば、ぶんぶんと首を振る。じゃあどうした、と聞いても、また首を振る。
 こうなるのは初めてではない。時々、三橋の中でそういうものが溢れ出す。何度繰り返してもオレには止められなくて、だから、一緒にいてやることしか出来ない。三橋のマグカップを取って机に置いて、膝をついて目線を合わせる。戸惑うような目。色素のうすい目が、揺らぎながらオレを見る。
 なあ、今、オレは普通の顔してんのかな。

「……せんせ、すき、」
「うん、」
「すきです、」
「オレもすきだよ」

 腕を伸ばせば、三橋のからだは簡単にオレの中に収まる。こうして抱き合っていれば、それでいいのに。少なくとも、オレはそれでいい。誰に言えなくても、祝福されなくても、理解されなくても。
 だけど三橋は、そうではないらしい。そりゃそうだ。まだ高校生で、周りはカレシだカノジョだデートだって騒ぐような年で、まあ三橋はそういう話はしないだろうけど、でもそんな中で抱えるにはでかすぎる秘密だろう。まして、相手が男で教師で、オレだとなれば、なおさらだ。あの同僚にさえびくつく様子を見て、本当は気づいていたのに、見ないふりをした。

「……オレ、は、バレて、変なのって、思われても、いい、んです」
「……みはし、」
「でも、せんせ、……先生が、何か、言われるの、やだ、」

 いやなんです、そう言いながら三橋はオレから離れない。静かな準備室で、互いの心音だけがこだまする。
 どうしてお前は、自分のことを考えないんだ、そう言いかけて、やめた。こいつはそういう奴だ。いつもオレのことばっか考えて、オレのことばかり優先して、そうしてたぶん、イイコでいようと自分の気持ちを閉じ込める。それでもきっと、オレをきらいになれなくて、息が詰まってしまう。自信過剰かもしれないけれど、オレのシャツを握りしめる手が、何よりの証拠じゃないのか。
 きっと、秘密が楽しい時間は、もう終わったんだ。

「なあ、三橋、オレのことすきか」
「す、きって、言いました、」
「試しにきらいって言ってみ、楽になっかもよ」
「ならない、きらいなんて、言わない、」

 ほら、三橋は決まってこう言う。
 大人はズルい。いや、オレがズルいのか。腕の中の熱が逃げないように、思いきり抱きしめる。すきだ、と呟けば、一回り小さなからだは大げさにびくつく。頬に触れて、額を合わせて、鼻をくっつけて、なみだの膜がはった目を見つめる。

「オレだって、何言われてもいンだよ」
「……よくない、です、」
「お前に何かあるぐらいなら、オレが無理矢理迫りましたって言ってやる」

 つーか、始まりはそうだったし。間違いじゃない。

「やだ、そんなの、ウソだ」
「いや嘘じゃねェよ、最初はオレからじゃん」
「オレは、その前から、見てました」
「それにも気づいてたね」
「でも、すきって言ったの、オレが先、」
「キスしたのはオレからだろ」
「うう、じゃあ、いつから、オレが見てた、か、知ってますか」
「んー?」
「あ、ごまかし、た!」

 はは、と笑うと、三橋は涙を引っ込めてふくれっ面をした。ほっぺたを引っ張って、ふは、と笑うのを確認して、三橋の肩に顎を乗せる。三橋から、オレの顔は見えない。ぎゅう、と抱きしめて、こっちを見ようとする三橋を阻んだ。

「せんせ、」
「うん」
「重い、です」
「うん、」
「……せんせ?」

 三橋が笑った。それだけで、安心した。もう笑ってくれないかと思った。離れた方がいいんじゃないかとすら思った。でも、その手を離せない。離す気がない。きっと、今のオレは情けねェ顔してるだろう。
 大人はズルいもんだ。だから、弱いとこなんて、見せねェ。……まだ、見せらんねェ。
 ふう、と息を吐いて、三橋の顔を見る頃には、もういつも通りのオレのはず、だ。

「っし、今日の課題出せ」
「うえ?」
「あれ? 質問しに来たんじゃねェの」

 わざと意地悪く問えば、律儀に教科書とノートを取り出すから、今度はオレが笑ってしまった。さて、いびつだった丸は、ちょっとはマシになってんのかな。





20170717/拍手掲載
20200815/修正



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