あべ先生と生徒みはし 八話 「Trick or Treat」 「とり、……え、先生、なに?」 あ、こいつ、知らねえんだ。 何でもねェ、そう言っても聞くはずがない。最近、すこしずつ遠慮することを忘れてきた目の前の猫っ毛は、くりくりした目でこっちを見る。 「ね、とりとり、って何、」 「だから何でもねって。ひとりごと」 「うそ、」 オレの、こと、見て、ゆったでしょ。オレの生徒はもだもだしながら反抗的だ。……生徒、なんだよなあ。今更のようにぼんやり思う。 三橋は生徒で、オレは教員で、今日は土曜出勤。たまった仕事を片づけると告げると、じゃあ一緒に勉強すると言い出した。この間の試験結果は全教科まんべんなくよくなかったらしい。こちらも正直、採点していて頭を抱えた。……こいつ、将来は大丈夫なんだろうか。 「ハロウィンだよ、何か最近賑わってただろ」 「あ、オレンジで、かぼちゃの、」 「そうそれ。日本のはちょっと違うけど、外国は子どもが仮装して近所を回って、お菓子くれなきゃイタズラするぞ、って言うんだと」 「い、いたずら、」 「イタズラされたくないからお菓子配んだよ。そういう風習」 もはやミルクを入れ過ぎてカフェオレと化したコーヒーを飲みながら、三橋がふんふんと話を聞く。準備室の近くでは、吹奏楽部も気を遣って練習しない。外から聞こえる足音と、体育館から響く掛け声。 「……休みの日までご苦労なこった」 頬杖をついたところで、ほんの数年前の自分だって同じような、ともすればもっと過酷な日々を送っていたことを思い出す。部活動は今でも、自分の人生の中で大きな割合を占めているだろう。 時折ぱたぱたと廊下を歩く足音で、他にも休日出勤のお仲間がいることを知る。全く教員という生き物は不思議だ。自分を犠牲にすることを全く厭わないし、周囲もそれを当然のように強要し恩恵を受けている。そこまでなりたくはねェな、と、も思うが、そうしなければ目の前の生き物に出会えなかっただろう。 すこし身を乗り出して、三橋に近づく。気づいた相手と目が合って、 「三橋君、Trick or Treat」 「またそれ、」 「お菓子くれ。じゃなきゃキスすんぞ」 「えっ、えっ、お菓子、まっ」 使い方は無茶苦茶だが、たまにはこういうのもいい。あたふたする三橋の顎を持って残った距離は僅か10センチ。観念したのか目をつぶった三橋に内心にやけつつ近づけば、 「あ、ある、お菓子!!」 どでかい声に遮られてやる気もその気も思い切り削がれた。何よりキスを拒否された。こういう時の三橋は案外冷静で考えているところがある分、ダメージも結構なものだ。三橋がポケットから引っ張り出したのは、 「……何だよ、のど飴じゃねェか」 「これ、これも、お菓子、だっ」 しかも合唱部が好むような本格的なのど飴。今日会った時、薬の匂いがしたのは気のせいではなかったのか。聞けば、風邪気味だから親に持たされた、よく効くらしいけど苦いからあんまりすきじゃない、とのこと。 「これ、あげるから、いたずら、なしっ」 「…………あ、そう、」 あからさまに不機嫌な声になったのだろう、オレの顔色を見て、三橋は慌てたように続ける。 「せ、先生の、ことは、すきだよ、」 「別に、もーいいけど。さあ苦いのど飴食って仕事すっかなー」 「ちがう、あの、」 「お前もちゃんと勉強し」 ぐりん。 首の骨がいかれるんじゃないかと思うくらい変な音がして、回されて引っ張られて、くちびるから薬の味が染みた。あーこれ、薬くさい特有の、あののど飴の味、なんて思っている間に、ふと我に返った。 あれ、オレ今、三橋にキスされてんのか? 「キスが、嫌だった、わけじゃない、から」 言うだけ言って、三橋は問題集に目を戻した。かと言って集中なんて出来るわけないから、ちらりちらりとこちらを見る。 「…………あ、そう、」 わざと書類を探すふりをして彼に背を向けた。落ち着くまでは沈黙を守ろう。そうでないとばれてしまう。動揺で上ずる声も、火照った顔も、曝け出すことになる。 現状、三橋にとって「大人」と認識されている以上、ここで三橋に屈するわけにはいかない。変なプライドは、いつだってオレの邪魔をする。 「せんせ、あの、」 「うん?」 「コーヒー、入れますか」 「……ああ、頼む」 ブラックで。揺らぎそうになるこころを抑えるには、足りないかもしれないけれど。 20151104/拍手掲載 20200815/修正 ← |