あべ先生と生徒みはし 三話



 教室に静かに響く板書。先生の背中をみつめる。先生が振り向く。慌てて下を向く。保健室のこと以来、何だか、うまく顔が見れない。

「お前さあ、オレの背中がいいの」
「うえ、」

 そんなことが何日か続いたせいで、放課後おれは先生に呼び出された。

「な、なんで」
「そりゃ板書終わってそっち向いて、毎回すげえ勢いで目ェそらされりゃな」
「知って、たんですか、」
「先生なめんなよ」

 ちゃんと見てんだからな。
 そう言われて、ぽんと頭をたたかれる。他の数学の先生は部活や出張から戻ってきていない。夕方、この数学準備室にはおれと阿部先生だけで、それは一週間前とおんなじだった。初めて先生にキスされた日と、おんなじだった。頭は勝手にその時の匂いや温度を思い出して、顔をあつくさせる。
 一週間前より、今のほうがずっと先生をすきになっている気がした。

「……一週間前だっけ?」
「う、何、が」
「オレがお前にすきっつったの」

 すき。
 その言葉で肩がびくってなった。先生が、オレをすき。オレはまだ、それに応えていない。こわくて、応えられない。
 先生は椅子をぐるっと回して、また逃げようと立ち上がったオレの手をとる。やっぱり力は強くて、でも思ったよりずっと熱くて、びっくりした隙にまた椅子に戻される。

「三橋、」
「や、っ」
「オレの目ェ見ろ、ちゃんと」
「せ、んせい、」
「言っただろ、いいこじゃなくていいって」

 なあ、聞かせて、お前のこと。

 先生の声は、麻薬みたいに頭に響いた。じんじんする。何が悪いのか、どうしたらいいこなのか、分からなくなる。だめなのに、分からなくなる。熱い。掴まれた腕も、顔も、こころも。ねえ先生どうしよう、オレ、先生のことしか見えないよ。

「せんせ、」
「ん、」
「オレ、オレ、あべせんせ、が、すき、」
「……おう、」

 腕の力がすこしゆるんだ。口にしたら何だか泣けてきて、やっぱりこわくて、涙声になった。

「っでも、だめ、」

 先生がむっとした顔をする。「何がだめ?」当たり前の質問が返ってくる。だって先生は先生で、オレは生徒で、そういう気持ちを持っちゃいけないって、ずっと自分に言い聞かせていた。でも会いたくて、ここに来ていた。そんなずるいオレを、先生はすきになっちゃいけないと思った。
 何度も何度もつっかえながらそんなことを言うと、先生は笑った。

「何、でわらうの、」
「態度に出てんだもんお前」

 きらっきらした目で、ちょっと顔赤くして「先生」「先生」って来られたらさ。……気になるしちょっとはうぬぼれるだろ、だから賭けに出たんだ。
 先生はそう言った。オレが動揺すれば勝ち、何でもない顔をすれば負けの、賭け。

「まあ見事に図星だったみたいだけどな」
「……オレ、そんな、だった?」

 先生が頷く。よっぽど変な顔をしてたんだな、他人事のように考える。

「だからすきになったんだ、」

 全部ひっくるめてお前がいい、目が合うと、先生は続けた。さっきまでオレの腕を掴んでいた手が、今度はほっぺたを包む。
 いいんですか、ほんとうに、オレは、先生をすきでいていいんですか。

「先生、」
「お前の負けだ、三橋」

 覚悟しろよ、先生の声が近くなる。
 先生ははじめから、全部気づいてたんだ。オレがずるいことも、いいこじゃないことも、……先生のことで、頭がいっぱいなのも。

「……ずるい、よ、」
「ウソツキの次はずるいって、お前ほんとにオレんことすきなのか」

 いつもより低い声で、先生は言う。何にもこわくなかった。だってあべこべに、嬉しそうな顔をしていたから。
 その返事の代わりに、オレは先生にぎゅってしがみついた。





20100524/拍手掲載
20200815/修正



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