Indulge



 分かってっと思うけど、今日部活中止だから。
 朝、花井からの連絡網で、一日の予定が白紙に戻った。予想はしていた。昨夜からの豪雨。珍しく関東に上陸した台風は、埼玉県を暴風域にとらえたまま北上を続けているらしい。

「つか、メールでよくね?」
「や、一応さ、」

 遅刻する奴なんていないけど、水浸しのグラウンド見に行きそうな奴はいるだろ? 生真面目な主将に、阿部は苦笑する。田島だけじゃねェのそれ、水谷も行きそう、あと三橋な、あー行くなアイツは、グラウンド大好きだもん、

「あ、三橋は電話しねェでいいから」
「は?」
「……何、」
「あ、お前が電話すんの?」
「まあ、……そんな感じ」
「相変わらずべったりだな、」

 それ以上追求されることもなく、んじゃーよろしく、との言葉で花井との通話は終わった。携帯を机に置いてベッドに戻る。

 べったりとかいうレベルじゃねェよ、

 まだ布団にくるまった三橋を見て思う。寝息からして、電話で起きた様子はない。規則正しく、Tシャツに包まれた肩が動く。首やら鎖骨やらがところどころ赤いのは昨日の名残で、目立つから嫌だと言っていたのを無理につけたものだった。ぼんやりと思い返す。三橋の目元が赤いのは、泣いたからだった。
 三橋は最中よく泣く。痛みも恥ずかしさも何もかもひっくるめて泣く。泣いて、怖がって、困ったような顔をして、そうして最後は阿部を欲しがる。阿部君、阿部君、くるったように、阿部の名を呼ぶ。こんな顔、誰に見せるかと思う。見せつけのように付けた跡でも、誰にも見てほしくはない。とどまるところを知らない独占欲は増すばかりだ。
 そのまま阿部も布団をかぶり、彼の細い肩に触れた。目元に触れ、唇を落とす。

「……みはし、」
「…………う、」
「三橋、」
「……あ、べく、」
「おはよう」
「おは、よ、」
「部活な、今日休みだから」
「ぶ、かつ!」

 途端に目を覚ましたらしい三橋が跳ね起きる。起き上がってふらつきながらカーテンを開けようとしたので、慌てて後ろから支えた。頭ン中ほんとに野球ばっかだよなぁこいつ、阿部はそう思いながら野球、部活と繰り返す彼をなだめる。抱きかかえるようにして、二人で腰を下ろした。
 先ほどから聞こえていた風の音とともに、窓に雨粒がたたきつけられる光景が見て取れた。空は暗く淀んで、ひたすらに大地を濡らす。勢いよく流れる雲の切れ間に、また別の黒雲が重なっている。当然、止む様子はない。毎年この時期には見慣れた光景だったが、部活ができないのは正直痛い。外の部活だから仕方がないとは言うけれど。

「部活、休みなの、」
「この雨だし、つか台風だし」
「……う、ん」

 でも、野球、したいよ。三橋は窓を見つめたままぽつりと呟いた。その右手はいつだって白球を欲しがっている。阿部は彼の手に触れた。慈しむように、ゆっくりと包む。代わりにはなれなくても、おずおずと絡められる指があるだけでいい。必要とされているのを感じられる。
 野球とオレとどっちがすき、そんな意地の悪い質問をしたことがあった。三橋はどうしよう、という顔をした。長い時間をかけて、「阿部君がすきで、阿部君と、みんなとする野球がすきです」と言われた。どっちつかずではなく、多分、三橋の中で阿部と野球はそういう存在なのだ。
 阿部が後ろから首筋に顔を埋めると、それに気づいた三橋も顔を寄せた。心音が聞こえる。頬が火照る。
 こんな風に応えられるようになれたのは、つい最近のことだ。前は何をされても驚いて怖がって照れていた。すきだ、まっすぐ見つめてくる阿部に、今でも少し戸惑う。けれど、それが温かく心地よい。すきだから、一緒にいたい。触れていたい。初めて握り返した時の手の熱さを、三橋はまだ覚えている。

 ……明日はできる、かな、明日はまだぬかるんでっから水抜きして筋トレだろ、……じゃあ、明後日はできる、そうだな、明後日なら大丈夫だと思う、早くやりたいね、うん、

 他愛もない会話を交わしてまたベッドに潜り込む。お互いの額がつきそうなくらいに近いのは、そうしなければ落ちてしまうから。そう言い聞かせても毎回赤みがかる三橋の頬に、そっと触れた。明るい中でこうして顔を近づけるのは、阿部も恥ずかしさを覚える。暗い部屋で触れ合ったことを思い出すからだろうか。三橋、と呼べば、柔らかい微笑が返ってきた。早く止むといいね、そう言って笑った。

「今日、することなくなっちまったな」
「……ど、うする?」
「とりあえずもうちょい寝てから考えるか」
「そか、まだ6時、」

 予定は一日練習だったため、花井の連絡も早朝に回ってきている。この時間に動くことももう慣れているが、今日はもう少しのんびりしていたい。少し眠ろうと思った。雨も起きたときには弱まっているだろう。
 三橋は目をこすって、阿部が腕を伸ばして抱き寄せるとその中で深く息をつく。眠いときの合図だ。実際、寝てからまだいくらも経っていない。だがいつもならそのまますぐに眠りに落ちる三橋が、今は阿部を見上げている。わざと額をつけて、小さく囁いた。

「……寝ていいぞ?」
「うん、」

 眠いだろ、オレも寝るし、阿部が続けると、三橋は言う。いつもは練習なのに、今日は贅沢だから。

「贅沢?」
「もう少し、起きてる、」
「寝坊すンのも贅沢だと思うけど」
「えっと、……こうしてるのが、贅沢」

 野球がしたい。西浦のみんなと、ずっと野球をしていたい。田島君たちが打って、浜ちゃんに応援してもらって、オレが投げて、阿部君が受ける、そういう野球をしていたい。本当は、それだけで贅沢だった。
 それでも、こうしているのはもっと贅沢だと三橋は思う。何もないときに、一緒にいられる。阿部と、ふたりで。今日のように彼を独り占めできる時間は、しばらくないだろうから。

「……雨、いつから、」
「ん? 昨日、夜中には降ってただろ」
「……そう、なの、か?」
「そうなのって、……ああ」

 阿部が昨夜雨音に気づいたのは、それが終わってからだった。
 最中、お互いのこと以外は考えられない。断続的に漏れる三橋の声に、阿部の急くような呼吸が重なる。無意味な行為なのは百も承知だ。負担があるのも分かっている、辛いのはいつだって三橋の方だ。それでも、どうしても欲しくなる。気持ちだけでいいなんてよく言えたモンだ、こんな風に抱いておいて。我慢できなくてごめんな、阿部が抱きしめれば三橋は大丈夫だよ、と返す。オレも同じだよ、そうして夢中になって触れ合った後、ゆるい倦怠感に包まれる。乱れた呼吸が、少しずつ整ってゆく。

「……ねむい?」
「ふ、……う、」

 着替えた頃から、三橋は瞼が重そうだった。ゆっくり口をふさげば、すう、と眠りにつく。やがて小さな寝息が聞こえるような静けさが訪れ、窓に当たる水滴が耳に入る。単調な音が、眠気を誘った。
 ぽつ、ぽつり、ぽたぽた、
 やがて強まってゆくその音を聞きながら、阿部も目を閉じる。

「お前すぐ寝んだもん、」
「だ、って、」
「だって?」
「う、」

 三橋がしまった、という顔をして黙る。何故眠ったかなどと言えるはずがなかった。耳まで赤くしてぐるん、と寝返りを打ち、阿部に背中を向けた。
 人の記憶力は厄介なもので、どうしたってその前の行為を思い出してしまう。阿部の顔、声、熱さ、吐息、痛みも快楽も、その先にあったまっしろなせかいも、余すところなく。

「…………い、わない、」
「……何照れてンの、」

 丸まった背中に、阿部は思わず笑みをこぼす。むきだしの襟足に唇を寄せれば大げさにびくんと揺れる。ちゅ、という音が、雨音に混じってやけに響いた。
 どうしようどうしよう、頭が働かない。阿部の余裕が、背中越しでも伝わってくる。逃げる体を抱きとめられる。時々可愛いこと言うよなァ、阿部の声と唇の感触が重なって、三橋を捕らえる。

「う、やめ、」
「じゃあこっち向いて」

 顔、見たいんだけど。そんな風に言うの、ズルイだろ。そう思いながらのそのそこちらを向いた三橋の唇を、阿部が塞いだ。少しずつ少しずつ、お互いの呼吸に酔ってゆく。

 ……熱い、オレも、……でも、いやじゃ、ない、……なら雨止むまでこうしてるか、……そう、する?

 どちらともなく、唇を合わせる。それが合図になった。
 雨は、しばらく止みそうにない。






20091021/しょっぱなからやらかしてるアベミハ
20200621/修正



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