あべ先生と生徒みはし 一話 そのときオレはまだ子どもで、先生はずっとずっと大人だと思っていた。 「……しつれい、します」 「ん?」 「あ、あの、三橋です、」 「おー、どした、」 「えと、しつもん、が、」 先生が振り向く。山積みのプリントをどかして、オレを見る。 「どこ?」 「あ、と、ここの、証明、」 「あーここか、じゃあ一行ずつみてくかんな」 「う、はい、」 先生のペンを走らせる音がすきだ。黒板にチョークが当たるあの音もすきだ。先生の手は迷いがなくて、円や三角形や難しい方程式を、さらさらかいてしまう。何度練習しても、おれは円をまるくかけない。 一行ずつ、ゆっくりノートに書き込む。先生はわら半紙に図をいくつか書いて、赤や青のペンで解説してくれる。そういう先生が、オレは、すきだ。 「……で、こう」 「おお、」 「分かったか」 「た、たぶん」 「たぶんじゃ困るんだけど、」 「う、」 「つかおまえ、よく来るね」 「そ、れは」 本当に分からないからです、でも半分くらいは、もしかしたらほとんどは、会いたいからです、話したいからです。先生はまっすぐオレを見て、オレはそれに耐えられなくてふっと顔を下げた。 耳が、あつい。 「オレの授業分かりにくい?」 「ちが、ちがいます、」 ごめんな、こっちもまだ勉強中だからさ、先生はそう言って笑う。先生の授業は評判がいい。若いし、かっこいいし、でもそれだけじゃなくて、すごく教えるのが好きなのが分かる。女子が授業後群がって質問を浴びせているのは、先生と話したいからだ。 「オレが、ばかなだけ、です」 「……お前はばかじゃないと思うよ」 「え、」 「まじで馬鹿な奴はこーやって放課後来ねェし」 三橋はいいこだよ、ポンポンと頭を叩かれて泣きそうになる。 かけひきなんて知らない、先生に会いたかった。一緒にいたい、と思った。いいこじゃない、いいこじゃいられない。これ以上ここにいたら言ってしまいそうだ。すきだと、言ってしまいそうだった。困らせたくなかった。 「し、つれいします、」 「なあ、待って」 ノートを閉じて立ち上がったおれを、先生の手が引き止める。がくって体が引っ張られて、細いのに力あるんだ、焦る頭の片隅でそんなことを考える。 「三橋、オレのことすきか」 そうして先生の腕がオレの後ろに伸びる。閉まった数学準備室、かちゃっていう鍵の音、背中がぶつかったドアが揺れて、 「あ、べ、せんせ、」 「ん?」 「だめ、です」 「おれは、おまえのことすきだよ」 「ううう、うそ、うそだ、」 「嘘じゃねぇよ、おまえが悪い」 「わる、」 「毎回そんな顔してここに来るのが悪い」 耳の中まで響く、先生の声。くちびるが離れた隙にふは、と息を吐く。涙目のまつげに、先生のまつげが触れた。そうかな、おれが悪いのかな、でも先生は、そう言いながら困ったような顔をした。どうすればいいか分からない、そういう顔をした。 「……うぬぼれるだろう、」 ああ、言わなくちゃ、自分で、すきって、先生に、先生がすきって、言わなくちゃ。たぶん、そうしないと先生は泣いてしまうような気がするんだ。 いいですか、いいこじゃないおれが、すきって言ってもいいですか。 20091209/拍手掲載 20200815/修正 ← |