ヒーローの背中を押してやれ



「オハヨウ、って、スゴイね」

 この台詞を聞いて、たぶんこいつを100%理解すんのは一生無理なんだろうな、と阿部は思った。





 帰ってきた三橋の顔が、何となくいつもと違う気がした。いつもなら駅まで迎えに行くのに、今日はそれもいい、と頑なに固辞されていたから、何かあっただろうとは思った。
 ふたりが一緒に住んで初めての冬が近づいている。先に予備校講師のバイトをしていた阿部に続き、三橋も夏休み後半からバイトを始めた。飲み会で利用したらしい割烹居酒屋で、人のいい夫婦が経営している小さな店だ。すべて手作り、というのが売りらしく、昼間は定食屋としてもそこそこ人が入っている。行ってみよう、と誘われて食べに行ったが、どこか懐かしさの残る温かい味だった。そこでの三橋の食べっぷりを女将さんが大層気に入り、この店を気に入っていた三橋がダメ元でお願いし、履歴書もないままに採用された。三橋が元々料理ができるのは知っていたし、こぢんまりとした温かさの店が似合っている気さえした。店が駅の近くなので授業が終わった後にそのまま閉店まで入ることもあり、その都度迎えに行くという阿部を笑っていた。オレ、もう大学生だよ、そう言いながらどこか嬉しそうにしていると思ったのは自意識過剰だろうか。
 とにかく、そんな店でのバイトを三橋は楽しくこなしていたし、今日のおばんざいはね、これ、大将が持って帰れって、女将さんいま風邪引いてるんだって、そう話す顔はいつもにこにこしていた。
 それがどうだ、今日のこいつは。隠しているのかどうかは分からないが、あからさまに暗い。おかえり、という阿部の声にも一瞬遅れてただいま、と反応するくらいだ。いつもなら今日の報告があるはずなのに。





 待つ、というのがどういうことなのかを、阿部はここ数年で学んだ。根っからの短気さが災いし、いらだつことも先に決めつけて話してしまうこともあった。三橋は別に何も考えていないとか話したくないわけではなく、ただことばを探して、練って、そうして口にするのだと分かった。そうでなければ、高校時代に田島とあんなに仲良くなれてはいないだろう。もっとも、それは本能的な部分での共鳴だったかもしれないが。
 そう気づいてからは、待つことが苦ではなくなった。むしろ、ちゃんと聞きたいと思った。三橋の考え、思い、気持ち、そういったものを、全部。野球以外の共通点が皆無のふたりにとって、互いのことばを聞き合うことは新鮮であり、刺激でもあった。楽しいと思った。もっともっと、そう欲しがるうちに、阿部の中で出会った頃とは異なる感情が積もっていった。まさか三橋もとは思いもしなかったから、三橋の方から告白された時には驚いた。でも、三橋のことばに嘘がないのは知っていたし、試合の時のようなまっすぐな目で見据えられたら、もう白旗を上げるしかなかった。
 そうしてひとりがふたりになって、互いが大学に入学した夏、一緒に住むことを決めた。何もない、ただふたりだけの場所。慣れないふたり暮らしが、だんだんと肌に馴染んできたところだった。

「……レン、?」
「うお、あ、何」

 三橋がおおげさに肩を揺らす。やはりどこか変だ。それでも、三橋から言ってこない限り、それは触れるべきところではない。

「や、別に……夕飯は? 食ってきた?」
「えっ、と、今日は、持ち帰って、きた」
「腹減ってンだろ、早く食っちゃいな」
「ん」

 レンジから総菜のいい匂いがしてくる。小鉢と皿を並べて、律義にイタダキマス、と小さな声。普段は閉店後にまかないを食べてくることが多かったが、たまにこうして持ち帰ってくることもある。夫婦の厚意でまかない代はゼロでいい、とのこと。学生に、特に三橋にとってはたまらない特典だ。今日は手作りの肉じゃがコロッケとひじきの五目煮、切り干し大根。レンジで2分のご飯を温めれば、立派な夕食だ。うまそうなモン食ってンなあ、そう思いながら見ていると、不意に三橋が問う。

「……一口、食べる?」
「いいのか?」
「ん」

 コクコクと頷く三橋の箸を借りて、切り干し大根を一口。味の染みた大根とやわらかい人参、それに油揚げが口いっぱいに広がる。「美味い」と口にすれば、三橋は嬉しそうな顔をして、そしてふっと目を落とす。
 ……前言撤回、自分から言えねェ時もあんだろ。

「なあ、」
「う、」
「何かあった?」
「な、にも、ナイ」
「ナイって顔してねェから聞いてンの」
「うう……」

 そう言うと三橋は観念したようにうなって、注文を取り違えた、と小さな声で告白した。
 いつもに増して忙しかったらしい。もちろんそれを差し置いても客の食べたいものを提供するのが店の責任だ。手書きの伝票、慣れない注文量、レジさばき。注文されたものを持っていったら、「頼んでない」と言われたらしい。急いで作り直して事なきを得たらしいが、それで大将や女将さんが怒ることはなかった。一度しか見たことはないが、本当に人のよさそうな夫婦だった。一生懸命に働く三橋に、そこまで強く言うこともないと判断したのだろう。でも、いっそ怒ってくれたらよかった。そう三橋は言う。

「そんなにミスしてたっけ?」
「グラス割っちゃった、とかは、あったけど、注文は、今日が、ハジメテ」
「そんなん今までやったことねンだから仕方ないだろ、オレだってミスするし」
「……でも、メーワク、かけた」

 とうとう三橋が箸を置いた。冷めるから食えと言っても首を振る。これは相当に落ち込んでいる。
 大学生になって、自分も含めアルバイトをする人間が一気に増えた。コンビニのレジでもチェーンの居酒屋でも「研修中」とついた名札の店員がいることが多い。そりゃ入って何日かで完璧にこなされたら正社員の立場がないだろう。と、正論を言ったところで三橋が納得するとは到底思えない。
 そうだと思ってしまったら、三橋の中ではそうなのだ。

「……女将さん、何つってた」
「じゃあこれ、今日のまかないね、って」
「ああ、だから食えねェって話?」
「………」
「なら、別に無駄にしたわけじゃねェじゃん」
「………う、」
「メーワクって言われたのか」

 猫っ毛が勢いよく首を振る。ぶんぶん、と音がしそうなそれに思わず笑った。
 三橋はメーワクを嫌がる。
 例えば夜遅くにメールしたらメーワク、早く着替えないと待たせてメーワク、迎えに行けば時間取らせてメーワク、夜中に胸元がごそごそするのに目を開ければ起こしてメーワク。そもそもそんなことでメーワクなんて思ってたら高校時代から付き合ってもいねェだろうが。喉まで出かかる言葉を飲み込む。
 きっと、……きっと三橋にとってくるしいのは無関心なのだろう。三橋さ、三星の時は、イナイモノ扱いされてたんじゃないの。そんなような推測を、いつか栄口から聞いた気がする。だから、叱責されるより何も言われないことがかえって苦痛なのだ。ワガママが通らないことがキモチイイ、高一の時の三橋の言葉だ。何もなく終わってしまうことが何より嫌なのだ。
 知っている。取り残された人間がどんな気持ちになるか、阿部はとっくの昔に知っている。だからこそ言いたいことはすべて言ってきたし、三橋相手に誤魔化すようなこともしてこなかった。
 オレのせいで、そう繰り返す三橋に、お前じゃねェ、オレ達だ、そう言った日のことを、今でも覚えている。
 切り干し大根をもう一口食べる。不思議そうにこちらを見る三橋に「美味いよ」と言う。

「お、女将さんのは、美味い、よ、」
「じゃあいいじゃねェか」
「?」
「ちゃんと食って、そんでこんな美味いんですよって注文の時にオススメしてこい」
「うええ?」
「オレの奢りですって言や頼んでくれるだろ」
「ええ、それはダメ、お金なくなる、」
「待て待てどんだけオススメする気だよ」
「だ、だって美味しいんだもん!」

 阿部がもう一口、とのばした箸をぶんどって三橋がぱくつく。あっという間にたいらげて大きな声でゴチソウサマ。イタダキマスとはえらい違いだ。

「怒られない方が堪えるってあるよな」
「タカも、そう、か」
「……まあ、時と場合によるけど」
「そ、そーゆー、モン?」
「そーゆーモン、」

 カンペキな人間がいてたまっかよ。そう言うと三橋は噴き出した。タカも、カンペキじゃないもんね、軽口と戻った笑顔が嬉しくて、こんにゃろと回り込んでウメボシをしかける。そのまま後ろから抱きしめて名前を呼べば、腕にきゅっと力が入った。

「レン、」
「は、い、」
「……大丈夫だよ」
「……うん、」

 アリガトウ、何百回と聞いたことばが、耳に心地いい。
 そうやって、目の前の投手は何度阿部の背中を押したかしれない。どんなに泣いても、くるしくても、マウンドで三橋は折れなかった。その姿がまぶしくて、そしていとしいと思った。そんな三橋のことばが、目が、手が、止まったままだった阿部をすくい上げたことだけは間違いない。三橋は自分より強い。そう、阿部は思っている。たとえ普段、そんな素振りを見せなくても、タカの方が強いだろ、そう言われても。三橋の肩に顔を埋めて思う。
 だからたまには弱いとこ見せて、めいっぱい甘えてこい。

「……お前、次のシフトいつ」
「え、うんと、明後日」
「食いに行くからオススメしろよな」
「切り干し、大根?」
「そう、さっき一口しかもらえなかったやつ」
「ふ、二口だった、」

 よく見てンな、そう言ってふたりでわらう。
 こんな時間が、これから何度あったっていい。どちらかが背中を押してやれば、それでいい。





「オハヨウ、って、スゴイね」

 そうして冒頭の台詞である。暖かなベッドシーツは横たわるだけでふかふかと眠気を誘う。電気を消して潜り込んだ途端にそんな声が聞こえてきたもんだから、素で「はあ?」と声が出てしまう。

「あの三橋さん、夜ですけど」
「わ、かってるよ!」
「んで、オハヨウが何だって?」
「……えっと、何か、急に、オハヨウって言うの、スゴイなあって思って」

 ダメだ。言い換えられても全く分からない。待つから説明しろと頼むと、阿部の腕の中で口をへの字にして考え出す。

「……ヘ、ヘンかも、しれないけど、」
「いいよ」
「オレ、オレね、……オハヨウって言って、オハヨウって言われるの、嬉しくて」
「うん」
「あの、お母さん、とかも、言う、けど、何だろ、……タカと、言えるの、嬉しいんだ」
「……おう、」

 朝起きて、すぐにだよ。スゴイ、よね。三橋の声が耳に届く。
 そんなこと考えられるお前のがスゲーよ、とは、口が裂けても言わない。あと何回、阿部は三橋をそう思うのだろう。敵う気がしない。敵う気がしないが、別にそれは勝ち負けではないから悔しくもない。むしろ三橋廉とはこういう奴なのだと自慢して回りたくなるぐらいだ。きっと全力で止められるからやれないけれど。

「だ、だから、……オ、オハヨウ、」
「……オハヨウ」

 暗闇でも、三橋の顔がぱっと明るくなったのが分かった。あとね、あとね、子どものように阿部のスウェットを握って言う。

「た、ただいま」
「おかえり、……ただいま」
「! お、おかえり! え、っと、いただきます」
「ごちそうさま」
「ふへへ、」
「……何笑ってンだよ」
「ふ、だって、」

 だって、嬉しいんだ。
 何でもない言葉遊びに、とっておきのおもちゃを手に入れたかのようにわらう。きっと三橋にとって、こうしたちいさなものが嬉しくて、大事で、たからものなんだろう。そういう三橋を、たからもののように大事にしたいと思う。自分でも呆れるぐらい、三橋を想う気持ちは、そうだと気づいた瞬間から変わらないままだ。ふあ、とあくびをした猫っ毛に指を通す。

「オヤスミ」
「………う、」
「何、オハヨウは言ってオヤスミは言わねェの」
「違う、あの、言うんだけど、……い、今じゃ、ない」
「? 今じゃない、って、…………」

 ぶわ、っと体温が上がって、抱きしめた腕に力を込めた。タカ、上ずった声で名前を呼ぶから、もう目の前の三橋以外の世界なんてどうでもよくなってしまう。自分はこんな人間だっただろうか、そう考える間にすこし開いた口を塞ぐ。んん、というくぐもった声も、荒い呼吸も、ばたつこうとする腕もからだも、全部、全部奪ってやりたい。

 ちくしょう、本当にこの男は。

「……っ、誘い方がヘタクソだっつの、」
「わ、かったんなら、いい、だろ」
「それもそうだな、じゃあ」

 イタダキマス。耳元でわざとそう告げると、顔を持っていかれて思いきりキスされた。

「ゴ、ゴチソウサマ」

 試合中のような不敵な顔に、もーいいのかよ、今からだろ、と反撃を始める。





 布団をかぶりなおして、何度もキスをして、溶け合うように、この世界にふたりきり。





20191121/たまには頼ってほしい阿部の話
20200814/修正



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