何度でも何度でも、これから何度だって 「……あと何ページ、」 「え、んと……二、ページ?」 「よし、やるしかねェな」 「ん、」 二学期の期末試験は先日行われた。赤点の危機は回避できたものの、今度は提出物の嵐。レポート、課題、ノート提出を立て続けに求められ、三橋の頭はパンク寸前だった。中間から間が空かなかったこともあり、阿部を含めた野球部員も赤点候補者に試験範囲を理解させることに手いっぱいで、普段のノートまでチェックすることは出来ていなかった。そこで思い当たるべきだったのだ。少なくともノートを取っていれば試験範囲がどこかということぐらいは知っているはずだ、と。毎回試験範囲表を見せても首を傾げていた理由がよく分かった。 後日、クラスに貼り出された課題未提出者一覧にことごとく三橋、田島の名前が載っているのを見つけると、とにかく二人の救済にあたることとなった。とりあえず田島は花井に任せ、阿部は三橋を見る。デッドラインは慈悲深くも水曜の放課後。火曜の練習後に出来るわけがない。つまりは週末と月曜のミーティング後の時間を使ってどうにか終わらせるしかないのだった。とは言え土日は練習試合で、実際勝負が出来るのは月曜の放課後だけだった。 三橋はコンビニで買い漁った肉まんを頬張りながら、ひたすらにノートを写す。「書き方が同じじゃなきゃ怪しまれンだろ」と言いながら田島と二人分、ノートのコピーをくれた泉には感謝するしかない。今自分が何を書いているかほとんど分からないまま、線を引き、記号を書き、作図する。その間に阿部は化学のレポートに必要な箇所を教科書から抜き出していた。 「あ、の、」 「ん?」 「ごめんなさ、オレ、また、メイワク、」 「そんなんいまさらだろ」 「う、うう……だって、」 だって、今日は、誕生日じゃないか。 喉まで出かかった言葉を飲み込む。何、と聞いてきた阿部にぶんぶんと首を振れば、また教科書に目を落とす。 今日は、阿部の誕生日だ。 いつからだったか、部室のカレンダーに〇と名前が書き込まれていた。犯人は水谷で、篠岡からモモカンや志賀、浜田を含めた部員全員分の誕生日を聞き出したらしい。三橋の時のように盛大な誕生日会をすることもあり、日付を見てただ「おめでとう」と言い合うこともあり、ラインのグループでスタンプを連打することもあり、何となく皆がカレンダーを見るようになった。そのうえ今日、朝練とミーティングでそれぞれ祝われている様子を見れば間違いない。今日は彼が主役の日で、きっと家ではプレゼントと祝福の言葉が待っているだろう。早く帰って、楽しい夜を過ごすだろう。それなのに、阿部は三橋の部屋で、勉強を見てくれている。 早く帰っていいよ。本当はそう言うべきなのだ。でも、そんな気遣いの言葉すら言い出せなかった。こうしていることを、嬉しいと思っている自分がいるからだ。二人でいることを、やめたくない自分がいるからだ。 告白したのは三橋からだった。「どういう意味のスキ?」と、真正面から返された。トモダチとしてのスキ、仲間としてのスキ、バッテリーとしてのスキ、それから、一緒にいたい、阿部を欲しいと思う、スキ。全部が合わさっての「スキ」だったから困った。分けられないよ、全部スキだ、そう泣きそうな声で告げたら、阿部も泣きそうな顔をした。分けなくていい、オレだってお前ンことスキで、どうしていいか分かんねェ、と抱きしめられた。そうして、誰にもないしょで、二人でいることを選んだ。 引退するまで伝えるつもりなんかなかったんだからな、と後で言われた。きちんとバッテリーとして過ごして、全部終わったら攻める気だった、と、耳を赤くして伝えられた。バレたら全部オレのせいにしよう、と三橋が言ったら、別に何も悪いことしてねェし、と試合中のような顔で笑った。 付き合うようになってから、別に何が変わったというわけではない。阿部は相変わらずかいがいしく三橋の世話をするし、三橋はそうした阿部にありがとう、と繰り返す。元々二人きりでいられる時間などほぼない。例えば、三橋の両親が帰ってくるまでのほんのわずかな時間。皆で帰る家路の最後尾。昼休みの、誰もいない踊り場。手をつないで、肩を預けて、何度かキスをした。 「レン、」 「うあ、はいっ」 「手、止まってる」 「あ、ごめ、」 「分かんねェとこあんなら聞いて」 「えと、大丈夫、」 レン。 田島の家で互いに「レン」「ゆうくん」と呼び合う二人を見てから、阿部は三橋を唐突に名前で呼ぶようになった。いつしか当たり前のようになった二文字は、いつだって三橋を揺さぶる。阿部の家で、阿部の父に「まだ君付けで呼んでるの」と言われたことがあった。その時から、呼んでみたい、とは思っていた。そうしたら、きっともっと近づけると思った。タカヤ。付き合うようになって、名前で呼べるかと思ったら現実はそううまくはいかなかった。恥ずかしいのと、慣れないのと、とっさに出てしまう「阿部君」にいつも阻まれる。最初のうちこそ「タカヤだタカヤ」と言っていた阿部も、あまりに三橋が呼ばないものだから、最近はあまり責め立てなくなっていた。 心では、もう何度も呼んでいる。でもいざとなると、うまく声が出ない。 タカヤ。あの人が呼んでいた名前。……まだ並べそうにないあの人と、もしかしたら、比べてしまっているのかもしれない。 「ノ、ノート、写せたよ」 「じゃあこのレポート書けばオシマイだな、」 「うん、ありがとう、あ、あの、」 「何だよさっきから」 「あの、もう、平気、だから」 「いーよ、ここまできたら見届けねェと気が済まねェ」 「でも、あべく、誕生日、」 はっと口を押さえても遅い。阿部は目を丸くして、「あー、だからか」と納得した様子だった。そうして、朝から散々祝われたのに、家でも帰ったら祝われるとかもーいいわ、と笑った。でも、とまごつく三橋に、阿部は思いついたように告げた。 「じゃあプレゼントくれ」 「えっ、あの、えっと」 「そうだなー、完成したレポートとかどうよ」 「ええ?」 阿部がニッと笑う。……つまりそれは、レポートが終わるまでいてくれる、ということ、だろうか。復習にもなっから気にすんな、と言う声は、気のせいでなければひどくやさしい。 「家に帰るよかお前といたいの、オレは」 「……あ、べく、」 「……タカヤっつってんだろ」 「う、うう、……」 家に留まらせてしまっているという罪悪感が、ふっと消えた。 同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。まだ名前すら呼べないのに、大事にされているという事実が、じわじわと指先を温める。 「あ」だか「タ」だか分からない音を発してはうなる三橋に、阿部は笑って早く仕上げちゃえよ、と軽く頭を叩いた。視線をレポート用紙に移して、阿部がまとめてくれた教科書をまとめたルーズリーフを指でたどる。ルーズリーフは見やすくて、阿部君は来年、理系クラスなのかな、と思う。視線を阿部に向ければ、明日の予習だろうか、方程式を解く様子がうかがえた。この規模の学校だ、同じクラスになる可能性は低いが、行くのが遠いクラスになるのは嫌だな、そんなことを考えた。 ペンをひたすらに動かし、とうに回らない頭でどうにか考察まで書き終えた。「で、」できたよ、と顔を上げたら、阿部は机に突っ伏していた。すうすう、と寝息も聞こえる。阿部が三橋の前で寝ることはあまりない。合宿で朝食を作るときも起こしてくれたし、昼休みや部活の昼休憩でうたた寝することはあっても、こうも熟睡しているのを見るのは初めてだ。 時計を見ると六時半。そろそろ帰らないと、主役が夕ご飯に遅れてしまうのではないか。 「あべく、阿部君、」 机の向こうに回り込んで肩をすこし動かす。起きる様子がない。疲れているなら、もうすこしぐらい、寝かせてもいいだろうか。片付けを終わらせて、もう一度声をかければいいだろうか。……寝てる、よね。寝てる、なら、ちょっとだけ。深呼吸して、そっと、つぶやく。 「タ、カヤ、君、起きて、」 瞬間、阿部が飛び起きて、三橋の方を向く。ぽかんとした顔で、口をぱくぱくさせている。あまりに突然のことで目を白黒させていると、「もっかい!」と叫ばれた。 「も、もっかい?」 「もっかい、」 「お、起き、」 「その前!」 「ま、まえ、」 前。起きて、の、前。 ぶわっと顔が熱くなるのが分かって、三橋は「む、むり、」とぶんぶん首を振る。聞かれているなんて想像もしていなくて、寝ていると思って、だから言えたのに。いつ起きたのか、そもそも狸寝入りだったのかさえも分かっていなくて、思考回路は迷路のように絡まってゆく。 「レン、」 「む、むり、」 「レン、なあ、頼む」 「うう、う、……タ、」 ……タカヤ、君。 見つめてくる阿部のまっくろな目に逆らえず、蚊の鳴くような声でそう言えば、ぎゅうと抱きしめられた。「もっかい、」阿部はただそう繰り返す。その度に、時間をかけてゆっくり、でも確実に三橋は「タカヤ君」と呼んだ。初めて相手を呼んだその名前は、口の中でとろとろ溶けてゆくようだった。チョコレートを食べた時のように、いつまでも残る、あまい味。 もっかい、タカヤ君、……もっかい、 そのやり取りを幾度となく繰り返して、ようやく阿部の腕の力がゆるんだ。顔が見たくて身じろぐと、ゆっくりからだが離れる。自分が動いたくせに必要以上に離れたくなくて、阿部のセーターをつかんだ。鼻先がくっつくぐらいに顔を寄せる。ぼんやりとした視界に、赤くなった阿部の耳が見えた。 「……慣れた?」 「う、なれない、よ、」 「じゃあ練習、……もっかい」 「……タ、カヤ、君」 「……あーやべ、めちゃくちゃ嬉しい」 ほんとに、そう聞く三橋は泣きそうだった。恥ずかしいのと、やっと言えたという安堵と、阿部が喜んでくれたのと、繰り返す名前の甘さで、どうにかなりそうだ。阿部君、よりもずっとキョリの近い、名前。口にするだけで、目尻が熱くなる。 「ずっと、呼べなく、て、ごめんね、」 「一生阿部君だったらどうしようかと思った」 「……ほんとは、いちばんさいしょに、呼びたかったよ、」 「うん、」 「……いっぱい考えてたら、よく、分かんなく、なって」 「……お前らしいなあ、」 色んなことこねくり回してムズカシク考えンのは癖だもんな、そう言うと三橋はすこし不満そうな顔をした。名前を呼んで泣いた三橋の目尻を指でなぞる。先端まで熱い指の震えが、伝わらなければいいと思った。同じように、たどたどしい三橋の手が阿部の頬に触れる。指先はひやりと冷たい。その手を取って、つなぐ。 ……緊張した? ちがう、寝てると思ってたから、びっくり、した、揺すられたときに起きたんだけどまだいいかって、 「そしたらお前、急にさあ、」 「……ズルイ、よ」 「はあ? レンのがズルイだろ、寝てる間にとか」 「い、一回で、起きてください」 一拍置いて、そっちかよ、と阿部が笑う。つられて三橋も笑った。レポートできたよ、と渡せば、ざっと目を通してまあ大丈夫だろ、と告げられる。もう七時近い。散らかったノートと教科書を片付け、帰り支度だ。すこし寂しいけれど、明日また会えるんだから、いい。 コートを羽織ってマフラーをつけながら、阿部が言う。 「誕生日も悪かねンだな」 「あ、レポート、ほんと、に、持ってくのか」 「何でだよ」 「だ、だって、プレゼントって、」 「バカ、」 名前呼んでくれただろが。 また耳が赤くなっている阿部がそんなことを言うから、後ろから抱きついた。タカヤ君、今まででいちばんはっきりと名前を呼んで、こっちを向いてとせがむ。 ぐい、と引っ張られて、背中がドアに当たったと思ったら、噛みつくようにキスをされた。息継ぎさえ惜しいというように、酸素を求めるくちびるを何度も塞がれる。どちらともなく入り込んだ舌が、ぶつかり合いながら絡み合った。お腹の下がぞくぞくする。ようやく離れたと思ったら耐えきれずにずるずると崩れ落ちてしまう。二人してもつれ合うように座り込んで荒い呼吸を繰り返した。こんなの初めてした、息も絶え絶えにそう言えば、これ以上はやべェな、と肩口で同じように阿部が言う。お互いに何もかもが初めてだから、この先どう進めばいいかなんて手探りだ。今はただ、離れたくなくてがむしゃらに抱き合う。 「タカヤ君、」 「ん?」 「お誕生日、おめでとう」 「……おー、ありがとな」 明日から阿部君禁止。 プレゼントは返却不可だからな、阿部は悪い顔をして言う。や、破ったらどうするの、と聞いてきた三橋は、今度は呼び捨て、と告げられて右往左往した。 「ぜったい、むり!」 「無理じゃねェだろ名前は呼べたんだから。ほらタカヤだタカヤ」 「うう、むりい、」 懐かしい言い回しにむり、と言いながら笑ってしまった。あれから大分遠回りしてしまったが、やっと呼べた。いつか、呼び捨てにできる日なんてくるのだろうか。もっと一緒にいたら、あるいはそうなれるのだろうか。 玄関まででいいから、と言う阿部の後をついて、道路まで見送った。早くしないとケーキなくなっちゃうよ、さすがに主役抜きでケーキ食べねェだろ、そんな軽口を言いながら、先ほどまでの互いの熱を冷ます。手を振って見送るうちに、阿部の背中はどんどん小さくなっていった。 タカヤ君。 だいすきな人の、だいすきな名前。せいいっぱいに呼んだそれを、三橋はもう一度口の中で溶かした。 20171211/あべ誕と名前 20200814/修正 ← |