レトロなある夜の話



 その音が鳴ったのは、電気を消すほんのすこし前。
 髪を適当に拭いた後に寝巻用のスウェットに腕を通す。何せ明日は一限から必修の授業。ほんの数か月前までは当たり前だった早起きも、最近はさぼりがちだ。朝練がなく、午後からの授業であればとことん寝ている。さすがに寝過ごすことはないが、まだ慣れない一人暮らし。念のため目覚まし時計と携帯電話を使うようになった。
 明日の起床に合わせて時刻を入力していると、不意に聞こえた気がした。玄関をノックする小さな音。今時ノックなど、研究室に入る時ぐらいしか使わない。
 気のせいか、とテレビを消すともう一度。今度ははっきり聞こえた。二十三時を回って訪ねてくる人間はいない……普通は。変質者か酔っぱらいか、あるいは、―――
 一つの可能性に思い当たった阿部は持ったままの携帯を操作する。

 ―――あ、あべ、くん?
「みはし、」

 耳に直接響く声に、まるで三橋が近くにいるような錯覚を覚える。錯覚だといいんだけどなあ、と思いながら阿部は通話を続ける。当の三橋はいつも通りまごついた様子で、

 ―――あの、あの、ね、あの、ごめ、こんな、時間、
「や、オレこそこんな時間に、」
 ―――あ、だから、……ごめ、やっぱり、帰る、
「は? 帰るって、」
 ―――い、あ、
「お前今どこ!」
 ―――あ、あべく、の、家の、

 まえ、という言葉を聞くが早いかなるべくご近所の迷惑にならない程度に勢いづけてドアを開ければ、そこには見慣れたうす茶の瞳。実家じゃなくてよかった、と考えて、一人暮らしを始めてから何度か三橋はここに来ていたことを思い出す。とりえず変質者や勘違いではなかったことに安心して、直立不動の相手を促した。

「ああもう……入れ、とりあえず入れ」

 嬉しい、という感情を見せずにいられただろうか。すこしは不機嫌そうに見えただろうか。こんな深夜遅くに訪ねてきた恋人に対して、手放しで喜んでいるとは、思われなかっただろうか。





 リビングに立ちっぱなしの三橋に、今日はもう時間的に帰れないだろうから泊める旨と、とりあえず風呂に入って落ち着いてくるよう告げる。慌ただしく母親にだろう、メールを打ってから、三橋は浴室へ向かった。
 落ち着くのはこっちの方だ。深呼吸をひとつしてから窓を開けて換気し、散らかっていた服をクローゼットに教科書やレポートを本棚へ押し込む。明日、朝食と一緒にやろうとさぼった夕飯の皿洗いを終わらせ、テーブルに麦茶を並べて何事もなかったようにテレビをつけて座った頃、だぼついたスウェットで三橋が現れた。

「だから髪、拭けって」
「うわ、あ」

 もたつく足を浴室へのドアの前まで戻して思いっきり髪を拭く。だいぶ成長したとは思うが、自分と比べると、やはり三橋は小さい。というか、細い。大学でも野球を続けているので筋肉がついていないわけではないのだが、何というか細い。骨が細いんかな、と考えて瞳と同じうす茶の髪をごしごしと容赦なく拭きまくる。と、目が合った。まだ戸惑いの色を見せる相手のそれに、自身の演技力も捨てたもんじゃない、とにやつく。「あ、」隙だらけのくちびるに先制のキスを仕掛けて、阿部は先にリビングへと向かう。
 耳がまだ赤い三橋がやってきたのはたっぷり五分は経ってからだった。

「こ、この、近くで飲んでて、えと、オレは、あんまり飲んで、ないけど、あの、」
「うん、ほら麦茶。ゆっくりでいいから、」

 さも余裕がある男を振舞うかのように勧めた麦茶を、くいくいと三橋は飲み干す。何も言わずに立ち上がった阿部を不安そうに見上げた三橋は、作り置きの麦茶のボトルを持って戻ってくると、安心したかのように小さく笑った。オレの家なんだからいなくなんねェっつの、喉まできた言葉を思い切り飲み込む。今は三橋の話を聞く時間だ。
 聞く、という行為は、実は難しいことなのだと三橋と出会って知った。余計な言葉を挟めば、相手の思考を遮ってしまう。かといって何も言わずに聞いていても阿部の性格上、うずうずしてきてしまう。今の距離感が正しいかどうかは分からないが、少なくとも阿部にとってはそこまで居心地の悪いものではない。時折もどかしくなることもあるが、他人である以上、それは仕方がないことだ。ましてそれが、三橋という人間であれば。
 注ぎ足された麦茶をもう一度飲み干して、三橋はふう、と一息ついた。阿部の思惑など全く意に介さない様子で続ける。

「……で、えと、お店、出て、二次会、は、もういいやって思って、」
「うん」
「そしたら、駅まで行こうってなって、そこで、阿部君家の駅だって思って、」
「うん、」
「阿部君、って思ったら、会いたく、なって、それで、あ、会いに、き、きちゃった、」
「きちゃった、って」

 オレの家は駅じゃねえけどな、そんなツッコミを密かにしていた矢先に飛び込んだ言葉は、ぎゅん、と阿部の心臓を締め付けにかかった。
 きちゃったって何だ。どこまででたらめなやつなんだこいつは。

「あ、あべく、あの、」
「うん、何」

 余裕も何もかも吹っ飛ばされて素っ気ない返事になってしまい、阿部は慌てた。「お、怒ってねえからな!」「お、おうっ」三橋のよく分からない掛け声の後、一瞬遅れてふたりで吹き出した。緊張がゆるんだのか、三橋が阿部の隣にすとんと座る。こて、と阿部の肩に頭を預けたのを合図に、またゆっくりと話し出す。
 三橋によれば、電話、メール、玄関のチャイムは深夜のためやってはいけないと考えた、そうだ。今の時代、かしこまってドアノックとは。この関係性に限ってすこし遠慮がちな彼らしいといえば、らしい。

「……よく覚えてたなあ、道」
「ちょっと、だけ、ま、迷った、けど」
「なあ、オレが、さっき言った「時間」って、分かるか?」
「あ、だから、遅くに、めいわく、」
「だから違うんだって、この辺り夜は暗いだろ、……あんま一人で歩くなって」

 どうして、「心配」の一言が出ないもんかと、阿部は自分でもおかしくなる。三橋の前ではそういうことを言いたくなかった。仮にも男子大学生だし、成人も間近な相手に使う言葉ではない、と、いつからかそう思うようになった。心配性だとか過保護だとかは聞き飽きた言葉だったが、自分でそう言ってしまうのはそれを肯定しているような気がして何だか鼻持ちならない。
 要はプライドの問題なのだ。かっこつけたいがための余裕なのだ。問題はそれを見せたい本人に跡形もなく破壊される場合が多いことだろう。

「連絡くれれば迎えに行くから、メールだって、電話だって、」
「オ、オレ、ひとりだって、来られた、」
「いつ来てもいいんだけどな、お前鍵は持ってンだし」
「か、ぎ、……うん、鍵、もらった、」

 話している間に絡めた指はほかほかしている。それが、不意にゆるんだ。いまいち噛み合わぬ会話に阿部が「眠い?」と聞けば、こくんという大人しい肯定。ふたりでもつれながらベッドに潜り込んだ。同じボディーソープの匂いに一瞬下世話なことを思ったがいかんせん眠い。今日は保ちそうにない、と落ちてきそうなまぶたと戦う。三橋が「ここがいい」と主張する場所、阿部の肩口のすこし下。もぞもぞ動くその薄い背中に腕を回した。暗闇に慣れた目と目が合って、またふっと笑う。

「てかさ、そもそもオレも飲みだったらどうするつもりだった?」
「……でも、会えた、よ」
「結果オーライなだけだろ。あと5分遅かったら携帯電源切って寝てたぞ」
「オレ、も、あと1回ノックしてダメだったら、帰ろうって、」
「すげータイミング、」
「阿部く、すごい、ね」
「……お前がすごいんだよ」
「……オレ、すごいの、か」
「すげェびっくりしたけど、すげェ嬉しい、ここに三橋がいるって」

 ぎゅう、とすこしだけ力をこめて自分に引き寄せれば、三橋は嬉しそうに笑う。その笑顔が、どれだけ望まれているものなのか、彼は気づいているだろうか。

「これからはこういうとき、メールか電話な、一緒に住むまではそうすっぞ」
「い、いっしょ、うん、」

 一瞬、三橋の声がくぐもる。もだもだと逃げようとする体ごと顔をこちらに向かせて、もう一度。こんなんで恥ずかしがってどうする、何年目だオレたちは。

「……夏休みだからな、」
「……うん、」





 本当は、飲み会の場所が分かったときから、阿部の顔が浮かんでいた。阿部の家へ向かう道を見たらもう、堪らなかった。会いたい、たったそれだけの理由で他とは逆方向へ歩き出した。
 鍵はまだすこし怖くて、使えなかった。深夜にどろぼうみたいだし、と、その時には真面目に考えていた自分を思い出して笑う。
 明日一限だから一緒に起きやがれと命じた張本人は、いつの間にか寝息を立てている。その頬にちゅ、とくちびるを当てて、三橋もまた、目を閉じた。

 夏が、待ち遠しい。





20140601/ノッキンオンアベミハ
20200813/修正



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