あなたに帰る



 メールが返ってこなければ、寝ている合図。
 それが分かったのは、付き合うということになってすこし経った頃だった。元々阿部は必要なことしかメールしてこないし、いわゆる「おはよう」「おやすみ」メールなどはもってのほかだった。最初は返事が来ないことがいやに怖くて、何か変なことでも送っただろうかと送信ボックスを見返したのは、一度や二度ではない。「あー、それ寝てるだけだから」と言われ、安心したのを覚えている。分かってしまえば何でもないような、それでもそんな小さなことで不安がっていたことを、三橋はふと思い出した。





 視線の先の阿部は、ローテーブルに突っ伏してすうすうと寝息を立てている。スクリーンセーバーはとっくにきれたのだろう、スリープ状態になったノートパソコンの傍には、分厚い本が数冊。ラグを敷いた床には論文のコピーが乱雑にばらまかれていた。ゼミの発表が近い、とか言ってたっけ、と思いながら荷物をそっと下ろす。まだ慣れないバイトの疲れはあったが、阿部の寝顔を見ると和らいでしまった。自分を待っているひとがいるというのは、なかなかどうして心地いい。

「た、だい、ま」

 一緒に住むことになった最初の日から、部屋に入るあいさつは変わった。それは恥ずかしくもあり、むず痒く嬉しいものでもある。たとえ返事が期待できない状況でも、三橋はそれを言うことを忘れない。
 ずるずると移動させられたのか、テーブルの上ぎりぎりにあったマグカップを保護し、ばらけたお菓子の包み紙を捨てる。床の論文は揃えようにも何が何だか分からないため、そのままにしておいた。ベッド下の引き出しにブランケットがあったのを思い出して、着替えもせずに引っ張り出しに行く。薄い水色のそれを、起こさないように阿部の肩にかける。ふう、と一息ついたところで、その背中にすこしだけ額を当てた。

「風邪、ひきます、よー」

 規則正しく動く阿部の背中は、三橋のそれより広い。悪戯心でぐりぐり、と頭を動かしてみると、引っ張られたブランケットが阿部の肩から落ちる。「、ふ、わ、」せっかくかけたのに、と焦ってかけ直しても、阿部は起きる様子がない。……よっぽど、疲れているのだろう。その頭をふわりと撫でて、三橋は浴室へと向かった。





 髪の毛をいい加減にふきながら出てきても、まだ阿部は寝ていた。もし〆切が迫っているなら、起こした方がいいに決まっている。もしこのまま寝るのだとしても、ベッドの方がいい。それでも、こんなに気持ちよさそうにしているのに起こすのは、何だか悪い気がした。「タカヤ、」小さな声で、名を呼ぶ。
 やっと慣れたその呼び方をするのは、三橋が知る限りあと一人しかいない。同時に、阿部が他人を名前で呼ぶのも、三橋を除いては一人だった。そのひとと阿部の間にあったことは、あまり知らない。たぶん阿部は話す気はないだろうし、自分もまた、聞かせてほしいと思うものでもなかった。気にならないといえば、嘘になるが。――今、お互いが必要としているなら、それでいい。肩に触れて、すこしだけ、揺さぶった。たいせつな名前を、ゆっくりと呼びながら。

「タカヤ、」
「………んー…」
「タカ、」

 前もこんなことがあったなあと思い返して、自然と笑みがこぼれる。それだけ一緒にいたのだという実感が、じんわりと胸を温めた。散々唸った後に、薄目を開けて、阿部がこちらを見る。寝起きの彼の真っ黒な目が、三橋はすきだった。

「……おいで、レン」
「うえ、た、」
「レン、」
「ひゃ、」

 あ、寝ぼけてる。そう思った瞬間にはもう、くちびるが重なっていた。阿部は体をひねりながら腕を背中に回してくる。サイズの大きいスウェットをぎゅう、と掴まれて、身動きが取れない。繰り返されるリップノイズに耳が赤くなるのを感じながら、三橋は必死に阿部にしがみつく。
 キスは嫌いではない。ただ苦手だった。うまく応えられないのがその理由で、いまだにどうしたらいいか分からない。時々かけられる言葉を信じて、涙目になりながら何度も何度も繰り返す。その度にすきだ、と言われているみたいで、頭がぼうっとしてくる。

「ん、」

 そうした頃合を見計らって、阿部はゆっくりと侵入してくるのだ。

「……っん、んぁ、う、」

 こういう時の声はどうにかならないかと、いつも思う。が、一向に改善は望めない。さらに阿部はそれを聞きたがって、好き勝手にやらかすから始末が悪い。彼のそういうところを何だかかわいいと思ってしまったのが運の尽きで、結局は三橋も本気でそう思っているわけではないのだ。

「っ、あ、うわ、」

 何でもないようにスウェットの中に入った阿部の手に、思わずびくつく。風呂上りに湿った肌は、寝起きのすこし低い体温にすら過剰に反応した。ひやりとする感覚に、触れられた背中が粟立つ。阿部の指は器用に背中の筋を追うかと思えば、不意に腰骨を掠り、その間にもキスは全く止まらない。それどころか首筋にまで下りて今度は舐めてきたものだから、やっとそこで気づいた。
 寝ぼけてここまでするのだろうか、いや、しない。するわけがない。

「タカ、起き、起きてる、だろっ」
「ん、起きてない」
「うそ、だ、起きてる、」
「起こしてよ、レン」

 やっぱり起きてるじゃないか。非難の意をこめた目線を向ければ、阿部は意地悪そうに笑う。何か企んでいて自信満々の、試合前によく見た顔だ。今や彼の目的は試合の勝利ではなく自分だろう。こいつをどうしてやろうかとか考えているのだろう。そこまで想像して、三橋は目尻にたまった涙を引っ込めた。とりあえず脱出しなければともがいたが、そうこうする間にスウェットはたくし上げられ、今にも頭から抜かれそうになっている。

「うあ、やだ、ばか、きらいっ」
「こら、きらいっつーな」

 せっかく着たのに、と若干ずれた思考回路で阿部の顔をべちっと叩きながら、三橋はその手から逃れた。そのままベッドに飛び込んで頭から布団をかぶる。濡れている髪よりうるさい鼓動より、それを少しでも望んでしまった自分が恥ずかしかった。……もう、四年も経つのに。
 だから、「お前髪! 乾かしてねえだろうがっ」と、いつもは心地いいはずの小言も、耳には届かない。

「嘘、つくの、きらい、だっ」

 苦し紛れに放った言葉は、自分でも思った以上に響いた。でもそれを嘘だと訂正すれば今自分の言ったことが嘘になってしまうし、そもそも勢いで出た言葉であって嘘には違いないのだが、この状況で認めるわけにはいかなかった。くだらない意地だと思う、そして当然、阿部も分かっていることだろうと思う。しばらく経って、廉、と呼びかけられた。呆れているのではなく、ほんとうに、小さな子に呼びかけるような声。

「ほんとに嫌い?」
「……き、らい、」
「ほんとう?」

 阿部の声は、ずるい。阿部も、ずるい。
 そうしたら、嘘だって言うしかないじゃないか。それで、阿部がやっぱりなって笑って、まるで向こうが勝ったみたいになって、何だかいい雰囲気になって、終わってしまうじゃないか。そんなのは、悔しい。悔しいから、なるべく低い声で反抗した。

「……起きてた、?」
「え、あー……起きてました途中から」

 予想外のところからきた問いに、口ごもる阿部。そうだ、それで怒ってたんだっけ、と思い出したように、事の真相を告げる。

「…………勉強、すれ、ば」
「ゴメンナサイ」
「…………」
「な、風邪引くから、出てこいって」
「……ふ、」
「なに?」
「何でも、ない」
「……出てこいよ」
 
 顔見せて、レン。オレ、おかえりっつってねえし。

 だめだ。
 結局オレは、負けてしまう。相手を心配するところも一緒なのだと思うと、阿部がそう言ってくれるのは、自分だけなのだと思うと、そんなの、……嬉しくて、仕方ない。
 三橋は阿部に甘いとか、もっと文句言えとか、高校の頃から田島や泉は言ってくれた。お前のそういうところにつけこんでんだ、と阿部本人は言う。それが悪いように言うけれど、三橋にはそれが心地いい。阿部だって心地いいなら、それが多分ふたりの関係性なのであって、結局はすきなのだから、というところに帰着してしまう。
 もぞもぞと布団をはげば、阿部は目の前で、正座をして待っていた。反省の意図だろうか、一瞬目が合って気まずそうにする。それから、頭を撫でられる。ほら、もうはねてんぞ、そう言って、笑う。
 やさしい、顔。オレがすきな、タカヤの顔。

「……た、だいま、」
「おかえり、レン」

 ベッドの上からとびついて、転がるように抱き合った。なあ何で喧嘩したんだっけ、え、今の、喧嘩だった、んー何かもうどうでもいいか、どうでも、いい、ね、
 ひとしきり転がって、何度かキスをして、それから不意に阿部が手を引いて立ち上がる。

「っし、ドライヤー貸せ、乾かしてやる」
「うえ、」
「……謝罪の意を表して?」
「う、上から目線、だ」
「そんなオレがいいんだろー」
「……きらい、」
「へいへい」

 さっきと同じ言葉なのに、今度の「きらい」は何てことのないものとして流れてゆく。前のオレたちでは、たぶん言えなかった冗談。本当にそうなってしまうのが恐くて、言えなかった。やっと、笑えるところまできた。ちゃんと、すきだと言えるようになって、実感して、地面に立って歩いているように思えて、阿部をすきだと思える自分が、ちょっとだけ、すきになれた気がするから。
 やさしく触れる手が、きもちいい。どんどん乾いてゆく髪は、その温さで眠気を誘う。ふわふわした気持ちのまま、「すき」とつぶやいた。ドライヤーの風に紛れて、絶対に聞こえないはずの大きさで。その直後、ぐい、と顔を上げられたかと思うと、上下逆さまの阿部の顔が落ちてきた。





20120111/犬も食わない喧嘩アベミハ
20200813/修正



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