王様のいない国



 その日三橋が持ってきたのはエナメルバッグとでっかいボストンだけで、まるで合宿だな、と阿部は笑った。バッグの中身は勉強道具を除けば本当に合宿に必要なものしか入っていなくて、また笑った。
 おいシャンプーセットはいらないだろ、オレんち風呂あるし、何度も入ったことあんだろお前。
 矢継ぎ早にそう言うと、三橋はあ、うえ、そっか、と今気づいたような顔をして下を向いてしまう。

「……別に怒ってねェかんな?」

 ほんのすこしの気まずさに下がった頭をくしゃくしゃ撫でれば、おずおずと阿部を見上げて笑う。
 うだるような暑さの、夏休みが始まろうとしている。





 三橋の誕生日にうちに来いと言ったものの、阿部は特に何か準備しようとは考えていなかった。その後も普通に泊めてはいたが、特に不都合が生じたことがなかったからだ。今更ベッドを買い換えるでもなく、というかそのつもりで大きめのを買ってあったし、強いて挙げるとすれば勉強道具やら服の置き場の確保ぐらいだった。元々実家から必要最低限のものしか持ってきていなかったから、それさえも瑣末なことだった。
 午前だけの部活を終え勢いづいて帰ってきて、いつもよりほんのすこし丁寧に掃除をしながら、鼻歌を歌う自分にふと気づく。朝から暑かったのは、夏だからという理由だけではないらしい。

 ……相当機嫌がいいみたいだな、オレ。機嫌がいいというかこれはむしろ、

 と、部屋を見渡しながら考えたところでメールの着信音が鳴った。もうすぐ着くよ、との本文に、だから今どこなんだよとつっこみながら返信する。
 財布と携帯をポケットに突っ込んで、阿部は目当ての人物を迎えに家を出た。

「帰ったらただいまー、だからな」
「うえ、む、無理、」
「無理じゃねえよ、あそこ今日からお前ン家だぞ」
「あ、阿部君の家だよ、」

 ボストンを阿部に奪われ、エナメルバッグを肩からかけて、三橋はそう主張した。今日から一緒に住むというのも、何だか実感がなくて足元がふわふわしたままだ。何を持っていったらいいか分からなくて、結局荷物は合宿と似たり寄ったりの中身になってしまった。
 あなたたちほんとに仲が良いのね、と笑った母親の顔を思い出す。どれだけ大変なのか分かるわよ、迷惑になるようなら帰ってくること、もう大学生なんだからその辺は自分で考えなさい。高校時代から過保護すぎるきらいのある彼女は、今朝もそう言って三橋を送り出した。そうして、今回の件について多くを聞かないでくれている。変な心配をされないようにしなきゃ、とその時思った。

「そういやさあ」
「?」
「今日は荷物多いからアレだけど、買い物行かなきゃな」
「何、買う、の?」
「座椅子。か、ソファ。今うちに一個しかねえし」
「え、だって、クッション、」
「寄っかかれた方が楽じゃん、」
「も、ったい、ないよっ」
「なくない、」

 どうして、と問えば、阿部は目をそらして一緒にテレビとか観たいじゃんと答えた。子どもじみたそれに、自分でも苦笑するしかなかった。今日から一緒にいられるのに、まだそんなことを言うか。
 ちらと三橋の方に視線をやれば、一緒、ということばに反応したのか頬を赤くしている。何でおれたちっていまだにこうなんだろうなあ、気恥ずかしさに歩調を速めた。「あべ、く、」後ろから焦ったようについてくる声と足音に振り返らずに左手を差し出す。昼間の住宅街は人通りも少ない。ゆっくり触れてきた右手を、きゅっと握った。
 鍵を渡したのが今年の三橋の誕生日で、それからの三ヶ月近くは初めての試験やらレポートやら研究室への出入りやらで、すぐに過ぎてしまったように思う。野球部の、高校時代とはまた違う練習にもどうにか慣れて、そうして今日を迎えた。最近ぐずついていた天気も、今日はうるさいぐらいの日射しを差し向けてくる。Tシャツの袖で顔の汗を拭って、いつの間にか並んだ三橋と歩を進める。やっと道順を覚えたらしい彼は、得意気に進行方向を指差す。
 そうこうして着いた阿部の家は、毎日帰っているはずの場所なのに、何だか別の建物のように思えた。

 玄関を開けると、阿部が先に入ってこちらを向いた。「お、」おじゃまします、と言いかけた言葉を飲み込む。さっき言われたことを思い出して、三橋は小さく「ただいま」とつぶやいた。その途端、強い力とともに視界が奪われる。持っていた荷物の床に落ちる音が聞こえた。背中に回った腕が、あつい。びっくりした、と頬を寄せて文句を言っても、自分で顔がゆるんでいるのが分かる。阿部はぎゅう、と力を入れたまま、何も言わない。

「……あー、だめだ、」
「な、にが?」
「何がってか、」

 だめ、という言葉にどきりとして思わず聞き返す。阿部は言いにくそうに言葉を濁して、ぼそっと「オレ浮かれてる」と続けた。

「うかれ、うひ、」
「うっせー、笑うなよ」
「ほ、ほんとに、」
「ほんと、やべえちょう浮かれてる」
「……おオレも、ね」
「ん?」
「き、きのう、眠れなかった、」
「……はは、何なのオレら」
「へ、へんなの、」

 玄関先で何してんだろう、と思う。でも、どうであれ三橋が「ただいま」と言ったことで、ここはもう自分の家ではなくなった気さえする。
 ふたりの、ふたりだけの場所がやっと手に入れられた。ふたりだけでいられることが、単純に嬉しい。野球の話も、部活の話も、学校の話も、何てことのない毎日の話も、直接することができる。あの誕生日、三橋は泣きながら言った。

「もう、「また今度」って言わなく、なるのか」

 そんな別れの言葉など、二度と言うかと思う。

「……あつ、」
「……あちーな、」

 冷房はおろか扇風機さえもつけていない室内は当然暑い。もちろん三橋の言はそれだけではないのだろうが、ようやく離したからだはまだ熱を持ったままだった。荷物を部屋に置いて、ある程度出したところでシャンプーセットが顔を出し、どやしつけながらふたりで笑う。開け放した窓から夕日が差し込んできて、もうそんな時間かと会話を交わす。

「夕飯、どうする、」
「あー、冷蔵庫何もねェや」
「オ、レ、作る、よ」
「じゃあスーパーまで行きますか」
「あ、お米、といでから!」

 言われてから米もないことに気づく。一人暮らしで咎める者がいないことで、食生活は乱れがちだ。しかもここのところはテストやレポートに手一杯でさらに拍車がかかっていた。暴飲暴食はしていないしそれなりに気を遣ってはいるものの、高校時代のそれには遠く及ばない。おかげで揃えた調理器具は綺麗にしまわれたままだ。
 スーパーまでの道を歩きながら、ああでもないこうでもないと献立を考える。結局質より量、ということで手軽な肉野菜炒めに決まり、買い物はすぐに終わった。

「何かいいな、こういうの」
「一緒に、帰るのが?」
「それもだけど、飯の材料買って帰るってのが」

 並んだ影法師を見て、嬉しいのか三橋が腕を振ってレジ袋をわざと揺らす。ばか、卵入ってんだぞ、と注意しながらも、こうしていられることをしあわせに思う。と、三橋が立ち止まった。振り向く形で名前を呼ぶと、こちらをまっすぐ見つめて、言った。

「あの、ね、」
「うん、」
「今日から、よろしくおねがい、します、」
「……こちらこそ、よろしくお願いします、」

 ぺこりと下げられた頭につられて、阿部も頭を下げる。が、

「お前なあ、こんなとこで言うか普通」

 一瞬でその発言に突っ込む。何と言うか、雰囲気ってもんがあるだろう。ロマンチストでも何でもないが、少なくともその宣言はこんな往来で改まって言うことではないのではないか。

「あ、でも、言ってなかったって、思ったらね、」
「別に帰ってからでいいじゃねェか」

 言い訳めいたことをもごもご言う三橋を置いて、阿部は歩調を速めて進んだ。それが怒ったのではなく照れ隠しなのだと分かっていたから、三橋は阿部の名前を呼んで後を追う。夕焼けのせいではなく赤くなった耳を、いとおしく思った。嬉しいのは、しあわせなのは三橋も一緒だ。同じ時間を過ごせるこれからが楽しみで、ほんとうに楽しみで、すこしの不安さえも吹き飛ばしてしまえそうで、そんなない交ぜのきもちが溢れて、勝手に笑みがこぼれた。
 恥ずかしい奴、と三橋の頬を軽く叩く阿部もまた目を細めて笑う。いつもこんな顔させてやりてェな、と、漠然と思った。それが難しいことなのは分かっていても、今日ぐらいは浮かれても罰は当たらないだろう。
 二度目の帰宅に、三橋は大きく「ただいま」と告げた。





20110804/ルララ宇宙の風に乗るアベミハ
20200813/修正



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